(※冒頭でまずはお詫びを。→ 前回・前々回の記事では、金山越(かねやまごし)のフリガナの誤表記にずっと気づかなかった!という痛恨のミスがありまして、その点について、ここでまずお詫びを申し上げたく存じます)
で早速、本題の記事に入りますと、早く昨年中の「伏見城」の話題に戻りたい…とは思うものの、今回もまた「年頭別談」の続きとして、犬山城天守の、金山越(かねやまごし)以前の、天守望楼が美濃金山城から「そのまま移築」される前の状態を推定しつつ、この機会にイラスト化もしておこう、と思い立ちました。
(美濃金山城 犬山城 福知山城)
と申しますのは、それは単に「乗りかかった舟」という意味だけでなく、その作業を進める上では、現状の犬山城天守で印象的な「唐破風の出窓」=元和6年になって付け加えられた部分について、思わぬ発見の可能性もありそうだからでして、その辺りを是非とも画像でご覧いただきたく思うのです。
【 ご参考のリフレイン / 犬山城天守 】
1961年の解体調査で発見され、議論の的となった寄蟻穴=枘穴(ほぞあな)
さて、4年前の当ブログ記事でも申し上げたように、これは、今から60余年前に発見された枘穴(ほぞあな)を写した写真で、その後の長い長い議論の発端になったものでしたが、ここにかつては、二重天守(重箱天守)の入母屋屋根を支えた小屋束か、もしくは現状よりもずっと小さい望楼が東側に寄せた位置に建っていた――― と考える以外にない「物証」とされて来たものです。
【 ご参考2 】
(※ピンク色は、問題の枘穴(ほぞあな)に望楼の柱が立っていた場合の位置 )
そこで分かりやすく、「現状よりもずっと小さい望楼が東側に寄せた位置に建っていた」場合の柱の位置を(※四隅の柱は四階の天井レベルまで)表示してみましたが、この場合、二重目の梁の架け方は、大洲城天守や広島城天守のように部分的に屋根下にもぐり込む形になったのでしょうが、やはりここで気になるのは、
< 枘穴が示す「2間×2間半」という中途半端な数値と長短の向き >
をどう解釈すべきか?…という問題でしょう。
何故なら、これが部材の年代測定どおりに、豊臣政権下の織田信雄の時代に下層から上層まで同時期に創建され、そして後に望楼だけを同時期の美濃金山城のものと入れ替えた…のだとすれば、望楼部分の長短の向きは、最初は建物全体の長短と同じ向きにそろっていたことになり、それは内藤昌先生流に言えば「後期望楼型」に含まれ、ここでもまた前回記事と同じ「天守の様式をめぐる静かな大混乱」が始まってしまうからです。
で、例えば、最も東側の半間分を、望楼から張り出した高欄の縁か、階段室のスペース?と見立てて、それを除いた「2間四方」で望楼を考えるのも有りか…とは思うものの、しかし、ほぞ穴の状態や配置から申しますと、望楼の四隅は、やはりいちばん東側のほぞ穴を想定するしかないようなのです。
(→ 写真の右側が切れていて見づらいですが、もう一度、ご確認を。)
――― ということで、この枘穴が示す「2間×2間半」という中途半端な数値や長短の向きについて、どう解釈するかが課題になるわけですが、この件について、アレや、コレや、と考えているうちに、ふと、下記のような意外な事柄に気づきました。
<< 何故か、何故か、ぴったりと合致する… >>
(※注 / 当時の屋根は柿葺きの可能性が高いとされていて、ご覧の図が便宜上、
瓦葺きの現天守の測量図をそのまま利用している点は、何卒ご容赦ください)
この唐破風の出窓の寸法というのは、現状の望楼の東西が実は3間半であって、そこから半間ずつ左右を縮めて「2間半」になったもの……と思われて来たものの、こうしてみますと、どれが最初の基準だったのか、分からなくなって来ます。
(※これを言い出すなら、そもそも初重・二重目の身舎の東西が、4間半を5間に割り付けていること自体に問題の発端がありますが……)
このちょっと不思議な「合致」は、ただの偶然…と切って捨てるにはおしいもので、このように屋根裏階である三階が南北に張り出した出窓をもつことは、前回記事の「顔を突き出した大櫓」と同様に、大きなメリットがありましょうし、とりわけ「断崖絶壁の極(きわ)に建つ」犬山城天守にとっては、得難い設備、と言えそうだからです。
ですから、この「合致」には、何かある、と私なんぞは直感せざるをえないわけで……
そこで最上階にも、南北の梁間「2間」にふさわしい規模の屋根をかけますと…
そして二重目の大入母屋屋根は、バランスを取るために、
東側の妻面(妻壁)を四分の一間だけ外側へ出す形に修正しますと、
以下のごとく、初重の南東側の付櫓の張り出し方とも絶妙な塩梅に。
かくして、現状よりもずっと小さな望楼が東寄りに建ちつつも、そこに初代の!唐破風の出窓が付いていて、三階の視界は現状とまるで変わらなかったのかもしれず、結果的に、元和6年の後補と伝わる唐破風の出窓は、そうした記憶に沿った「リバイバル」!?であったのかもしれない、と申し上げてみたいのです。
最初の状態を想像したイラスト。北西側から(※右上隅は南面の復元ガイド図)
ご覧の色彩については、当初の大入母屋屋根の妻壁が「黒塗り」だったという解体調査時の報告をヒントにしたものですし、また建物全体が素木の柱を見せた真壁造りであったことも、解体調査時の報告に基づいた描写ですが、このようにしてみて、ハッ!と気づかされるのは―――
(世界文化社『秀吉の城』より)
(同じく世界文化社『日本の城』戦国~江戸編より)
という風に、豊臣政権下で織田信雄が居城の清洲城に天守を建てたのち、その清洲城天守の福島正則時代の推定復元が諸先生方によって行われて来ましたが、それはご覧のとおり、当ブログのイラストと現状の犬山城天守とを、どこか“足して二で割った”ような姿で描かれて来たことでしょう。
引用の方のイラストはあくまでも「福島正則時代」ではあるものの、こうなりますと、織田信雄が領国で造らせた天守の「共通項」が、うっすらと見えて来るような気もしまして、それは言わば<総「真壁」造り天守>とでも評すべき、独自の共通意匠になっていたのではなかったか、と。……
< さて、安土城の令和6年度・発掘調査成果報告会で私が感じたこと。
今後、天主台周囲の崩落土石をどうするかが、なおも検討課題のようですが、
あの崩落土石の「総量」を解析すれば、天主台の「高さ」を逆算できる ! !?…
のではありませんか。 それが、崩落土石を永久保存する最大の根拠かも。>
( 15年前の当ブログ記事より。内藤昌案と佐藤大規案の天主台高さの違い)
さてさて、2月9日に東京で行われた、安土城の令和6年度・発掘調査成果報告会に参加して来ましたが、これは例えば読売新聞オンラインで<「幻の城」安土城、天守閣近くに「重要人物の建物」か…」>などと報じられた調査結果を中心にした報告会でした。
これらを受けた当サイトの懸案としては、図1-3調査区平面図の建物が、当ブログで申し上げている「天主東側の懸造り舞台」とどういう関係になるのか、皆様に是非ともご報告しなければならない立場にあるのですが、興味深い結果になりそうなものの、内容は次回以降にさせていただきたく存じます。
で、当ブログの「天主東側の懸造り舞台」を語る上でも、また安土城址そのものの今後の行く末をうらなう上でも、重要なカギになるのは、
<天主台周囲の崩落土石を今後どうするのか?>
という検討課題にあると見て、間違いないのではないでしょうか。
そもそもの事で申しますと、すでに滋賀県庁が発表した天主台遺跡の「強引な」展望台化プランには、どこか「たかが石垣…」という臭いが感じられて、天主台に対するリスペクトがみじんも無いため、<私は断固反対>という気持ちは変わっていないのですが……
( 過去の当ブログ記事より )
こうした問題に対処するためにも、天主台周囲の崩落土石の扱いが、ますます重要度を増しているようです。
滋賀県教育委員会『特別史跡安土城跡発掘調査報告12』平成14年より
( 上図をもとに作成 )
という風に、崩落土石は「破城」の歴史を物語る物証であると同時に、この先、崩落土石の<総量>を解析できれば、長年の懸案である「天主台の高さ」を逆算できる ! !?(→ 城郭ファンの興味の的、安土城天主の実像解明に一歩近づく!…)のかもしれませんし、それこそが、崩落土石を永久保存する最大の動機=根拠にもなっていくはず、と予想するのですが、いかがでしょうか。
【 追記 】 ならば展望台の代わりにどうするのか、代替案を言え。……との声に応えて追記しますと、増加する見学者のために天主台の遺構が荒れているのなら、天主台虎口を上がりきった辺りのスペースに「緊急保全」の仮柵を並べて、見学者の協力を求める、という形でもいいのではないでしょうか。 その仮柵を乗り越える一部の熱狂的マニアは別として、大半の見学者は、そこから見るだけでも納得してもらえるでしょう。 あとはVR等の活用で、どうでしょうか。
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