犬山城ニュースも踏まえて。高欄廻り縁の意図的な「誤解」を日本人の間に広めたのは 天守 (≒豊臣秀吉)だった!?

The Beijing Winter Olympics will be a real Roman holiday. It is entertainment at the expense of the suffering of others. 北京冬季オリンピックは 本物の「ローマ人の休日」になりかねません。他人の苦しみを犠牲にした 娯楽…です。

A fresco of gladiators excavated at the Pompeii ruins
ポンペイ遺跡で発掘されたグラディエイター(剣闘士)のフレスコ画


The right arm of the losing man is … 負けた男の右腕は…

 
 

 
In China the mechanism, Beijing Olympics boycott is the fastest shortcut to “Xi Jinping resignation”. The despised man can no longer appear in front of the public. 北京のボイコットこそ「習近平 退陣」への最速の近道、という中国的メカニズムがあります。メンツがつぶれた男は、もう公衆の面前に出られません。…

Now is the time for Saint Telemachus to reappear.
As a person who sounds a warning against people’s crazy feelings.

 今こそ 聖テレマクス が再び 登場するべき時でしょう。 狂った感覚に対して、
命がけで警鐘を鳴らす者として。


 
※           ※           ※

 
では では【前回記事のラストの部分】から。
そこで思わず、水戸城「御三階」の容姿には、かなり思い切った「モチーフ」があったのではないかと、私なんぞは邪推するわけでして。…

(続く)
 
としておりましたが、その記事をアップした翌日に、皆様ご承知の犬山城のニュースが飛び込んでまいりまして、急拠、今回の記事は、犬山城天守の話題に変えさせていただかざるをえない事態となりました。…
 


 
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【画期的で、かつ新たな疑問もふくらむ!!犬山城天守の調査結果】

もちろんニュースというのは、正月の当ブログ記事でも「天守の部材を科学的に調査する話が…」と申し上げていた件の調査結果であり、なんと、犬山城天守の主な部材は、小牧長久手戦の直後の3年間に伐採されて、おそらくは織田信雄(のぶかつ)のもとで、現状の「1階から4階まで一気に建設されたとみられる」!?…という驚きの報道でした。

といった各社の報道があり、現地の関係者の方々にとっては「現存最古かどうか」が最大の関心事なのでしょうが、私なんぞは、この天守の建てられ方(歴史的な経緯)の方により強い興味がありまして、それは過去60年もの長きにわたって、天守1・2階と3・4階との関係をめぐる議論があったわけですから、今回の調査結果(→ 創建年代の上限をはっきりさせたこと)は、実に画期的なものと賞賛されるべきでしょう。

しかし、それと同時に…

一度は「二重天守」として完成した(完成しかかった?)物理的な証拠とされた
寄蟻穴 = 枘穴(ほぞあな) / 1961年の解体調査時の記録写真より


↓       ↓       ↓
(当サイト作成の二重天守イラスト/北西側から)

という風に、ちょうど今から「60年前」に発見された枘穴(ほぞあな)こそ、長い長い議論の発端になったものであり、そこに、かつては1・2階をおおう大入母屋屋根を支える小屋束か、もしくは現状よりずっと小さい望楼が片側に寄せた位置で立っていた――― と考える以外にはない「物証」とされて来ました。

ですから、今回の調査結果だけで「1階から4階まで一気に建設された」と言い切ってしまうには、かなりの大きな矛盾(むじゅん)が横たわったまま…… と言わざるをえない状況でしょう。
 
 
結局のところ、主な部材の伐採期間が「3年」と短かく、その中でも下層階の伐採時期がやや早くて、上層階の時期が遅い、といった詳細や、上層階と下層階の鉋(かんな)のかけ方が異なること、等々を総合しますと、考えられる可能性は―――
【可能性A】 二重天守の完成前に「計画変更」があって望楼を加えた
【可能性B】 完成した二重天守の「余剰木材」に、新たに台鉋をかけて望楼を増築した
【可能性C】 小さな望楼が完成したものの、それを解体して、大型の望楼に造り替えた

かの、いずれかでないと、記録写真の枘穴(ほぞあな) とは整合性が取れないことになってしまいます。

で、各社の報道を見るかぎり、今回の調査でこの <<枘穴(ほぞあな)問題>> が解決された、との話は特に載っておりませんので、もしかすると、60年間の議論の原因の矛盾(むじゅん)を放置したまま、それをスルーするように報道発表がなされたのだとすれば、それはちょっと、残念な出来事でしょう。



高欄廻り縁を下から支える斗拱(ときょう)/挿肘木(さしひじき/持ち送り)

そこで別の視点から、もうひとつ、興味深い話を付け加えますと、今回の調査では、高欄廻り縁を支える持ち送りが 元和6年(1620年)頃の伐採と推定された、との話もあるようでして、そうなると、それまでの犬山城天守は、望楼型の代名詞のごとき「高欄廻り縁」がまるで無かった?可能性も出て来たようで、これはこれで、面白いことになって来たのではないでしょうか。

と申しますのも、その間の状態(織田信雄のもとでの造形?)を仮に上記イラストの発展版として描いてみますと、以下のような姿になるのかもしれませんし、これは木子家棟梁の「てんしゅ」解釈に照らせば、かなり興味深い形態と言えそうだからです。

望楼の高さや規模は、現状と全く同じままの発展版イラスト

 
 
<高欄廻り縁の意図的な「誤解」を
 日本人の間に広めたのは 天守 (≒豊臣秀吉)だった?>

 
 
 
さて、ここから申し上げる事柄の大前提として、我が国の代表的な「楼閣」建築の、次のような構造について、申し上げておく必要がありましょう。

<おなじみの「銀閣」は、一階から二階の室内へ直接に上がれる階段が無い。二階に上がるには、まずは高欄廻り縁に上がってから、そこを歩いて二階に入ることになる>



 
<これは「金閣」もまた(火災で再建される以前から)同じことで、最上階はさも別個の平屋建ての建物(!)のようでもあり、そこへ水平移動で歩いて入るための「縁」として「高欄廻り縁」は存在していた> ※下図は「金閣」東立面図・梁行断面図

――― 見てご覧のとおり「銀閣」や「金閣」の高楼(最上階)というのは、あたかも、それだけが別個に載せられた、平屋建ての観音堂や阿弥陀堂のようでもありまして、こうした部分の構造を注視しますと、そもそも高欄廻り縁とは何だったのか?(… 本来の用途は「展望」なのか?)という疑念が当然、わいて来ざるをえないものです。

ちなみに銀閣や金閣は、宮上茂隆先生の著書によれば、大がかりな改造があった可能性が示されていて、改造前の銀閣の二階は観音堂ではなかった(=室内の中央に観音像を置く必要のなかった)庭園の楼閣であり、階段は二階の中央に出る形だったというのですが、金閣の方は改造前も「高欄廻り縁」にいったん出て歩く形であり、いずれにしても、最終的には、ともに上記の写真や図の構造に落ち着いたことは見逃せないでしょう。
 
 
さらには、銀閣も金閣も最上階は「一間(ひとま)」で造られ、そこを高欄廻り縁がグルッとめぐっていたことと、望楼型天守の最上階も三間四方などの「一間」で造られたという共通点は、そこを重要な場所とアピールする目的において、けっこう大きな要素だったのではないでしょうか。

そこで例えば、建物のカテゴリーは違うものの……

富士山本宮浅間大社の本殿(慶長9年の徳川家康による寄進・造営と伝わる)

ご覧の楼閣部分にある「高欄廻り縁」は、もちろん人間のためのものではなくて、ひとえに祭神の高みを示した意匠なのでしょうが、おなじみの三浦正幸先生は著書で…

(三浦正幸著『城のつくり方図典』2005年より)

寺院の本堂や神社の本殿には、周囲に廻縁がつく。建物の本体の周りに短い柱(縁束)を立て並べ、それで縁板を支えたものである。
(中略)
安土城天主には、最上階の四周に廻縁がめぐっていた。以来、高欄つきの廻縁は、天守の格式の高さを示す象徴となった。天守は俗人の建物でありながら、社寺建築に匹敵する最高格式の飾りを得たのである。

と説明されていて、この三浦先生の定義を借りるならば、織田信長の天主の高欄廻り縁というのは、あたかも “神仏と同列のごとく” 自らを見せるための「飾り」であって、それが主たる目的であり、必ずしもそこを歩けたり、展望できたりする「実用性」は求めていなかったのかもしれません。

――― それは例えば、城戸久先生の岐阜城天主の復元案(下記イラストレーションは香川元太郎先生による)などで見ることが出来ますし、最上階は(加納城「御三階」絵図をもとに)腰の高さの中窓と「見せかけの廻縁」があったとしています。

 
ところが、ところが、次の天下人の時代に、驚天動地の激変が起こって…
 

(宮上茂隆著/穂積和夫イラストレーション『大坂城 天下一の名城』1984年より)


!! こんな大人数を、高欄廻り縁の上に招いてしまった豊臣秀吉―――。この穂積和夫先生の印象的なイラストレーションが非常に分かりやすいため、是非とも引用させていただきますと、ご覧の描写の場面は、ご承知のとおり『完訳フロイス日本史』などにある フロイス一行の大坂城訪問のくだりでして…

(第二部七五章より)

(天守閣の)最終階には周囲に突出した外廊がついていた。折から城の濠の中で工事が行なわれていたので、関白は我らに、それを俯瞰し五畿内の諸国を遠望するために外廊へ出るようにと命じた。
(中略)
眼下には記述のように夥しい人々が工事に従事しており、彼らは城の最上部に黒衣の大勢の伴天連(パードレ)や伊留満(イルモン)や同宿(ドウジュク)たちがおり、その中に混じって関白殿がいるのを見上げて驚嘆した。

と記された一件であり、こんな事態は秀吉ならではの出来事であって、少なくとも織田信長ならば、自らの天主にこれほどの人数の客人(「我らの一行は三十人を超えるほど」)を一挙に登らせることなど、ありえなかったでしょうし、せいぜいがフロイスとロレンソの「二人」を岐阜城天主に招いたのが、彼の心の許容ぎりぎりの最大限の数ではなかったでしょうか?
(※→ 天正10年、信長が家臣らを安土城内に招いた際も「天主」は 拝見ルートに含まれませんでした…

ですから、言わばこの時、豊臣秀吉によって <「高欄廻り縁」の驚きの価格破壊ディスカウントセール> が打たれたようにも感じるわけでして、秀吉がやったことは、その後も長く(今日まで)日本人の意識を変えさせて、高欄廻り縁を展望設備かのように思う「誤解」を広めた確信犯?だったのではないかと。

ちなみに、当ブログでは過去に <「高欄廻り縁」は昼夜を問わぬ領国監視を見せつけたアドバルーンか> といった内容の記事を書きましたが、こうなりますと、さらに二歩も三歩も、考えを深めなくてはならないようです。 そこで…

【高欄廻り縁とは何だったか。さらに思い切った推理を―――】
 
【段階1】
最初期の望楼型天守には、実用的な高欄廻り縁など一切無く、日本古来の慣習に沿った「権威を示す飾り」=見せかけの意匠として採り入れられた。
 
【段階2】ところが豊臣秀吉の政治的発案で、高欄廻り縁は 実用的な「(新)領主が領内を展望して監視する場」とされて、そういう意図的な「誤解」=巧妙・狡猾な解釈変更を 日本人の間に広めてしまったのは、奇(く)しくも「天守」!であった。
 
【段階3】その後、徳川家康や秀忠が日本古来の慣習に戻すべく、天守最上階に実用的な高欄廻り縁は設けないように藤堂高虎・小堀遠州などと図(はか)ったものの、秀吉の影響はすでに全国に行き渡っていて、効果は限定的だった。
 
 
という風にでも、高欄廻り縁の「盛衰の歴史」をとらえ直してみるのは、いくらかの意味はありそうですし、面白いのでは、と思えて来たのです。…

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