D案への道筋。最初の後期望楼型天守は、北ノ庄に攻め込んだ羽柴秀吉の「脳内で」誕生した?…との勝手な推論から

柴田勝家の居城・北ノ庄城を攻める羽柴秀吉の軍勢
(『歴史法廷』Vol.2に掲載の香川元太郎先生の歴史考証イラストより)

今回はいよいよ、中断したままの徳川家康の江戸城慶長度天守「D案」をご説明していくための、その前提としての、<D案への道筋。最初の後期望楼型天守は、北ノ庄に攻め込んだ羽柴秀吉の「脳内で」誕生した?…との勝手な推論から>というタイトルどおりのお話をしてみたいと思います。

で、そういう今回の記事は、3年前の当ブログ記事<逆算2。幻の北ノ庄城天守も、あえて駿府城や水戸城と同じ三重目「入側縁」式と考えれば…>の延長線上の“続編”と申し上げてもいい内容なのですが、まずは、それをご説明していく前に、前回記事の「補足」を、少しだけさせて下さい。

※           ※           ※

【 前回「言上」の補足 】シミュレーション画像で見る、数百億円をかける伝統的木造建築を襲う“ぶち壊し感” →エレベーター木造天守の評価は“ポリコレ天守”か

【例えば】記憶に新しいパリ五輪の「ポリコレ」
→ 開会式を“ぶち壊して”削除へ。

(ポリティカル・コレクトネス=社会の特定の人々に不快感や不利益を与えないように意図された政策)
 
なぜ、オリンピックの場であれをやる必要があったのか、という点において、
これは本質的に「エレベーター木造天守」に似ている!…と感じられてなりません。
何故なら、それらは本当に障害者やマイノリティーのために役立つ事業でもなく、
結局、ほとんどは《活動家の自己満足や役得》に過ぎない?…と見えるものだからです。
 
しかもそれらには、“場違いなゲテモノになる宿命”という深刻な共通項も。

“場違いなゲテモノになる宿命”とは、どういうことか?…と申しますと、例えば前回も申し上げた<名古屋市は、エレベーターの建屋を描き込んだ天守各階の予想図を、是非とも公開すべきでしょう>との要望を、ためしに当ブログ独自でやってみたところ、その悲惨さ(ゲテモノぶり)が少なからず伝わるようでして、是非ともご覧いただきたいのです。

( 前回記事より / 名古屋市がすでに公開済みの「昇降技術設置イメージ」)

(※ちなみに、過去に公開された別の資料では、最上階と最下階の他は、すべての階で「エレベーター建屋は二基が立ち並ぶ」という“見た目のうっとおしさ”を生む最大の要素がネグってあり、不親切な印象です。)



そこで、当ブログでは、すでに公開されている名古屋城天守の木造再建の完成予想CGから取ったスクリーンショットの上に、上記「昇降技術設置イメージ」どおりのエレベーター建屋が“どう映り込むか”を加筆する形で、独自にシミュレーションしてみました。
 
 
【 地上一階 】広い一階の場合は、エレベーター(建屋を緑色で表示)が北西の隅に寄せられているため、来場者の目にはさほど感じられないものの……

【 地上二階 】二階はこの動画が西側部分を描いているため、一階とつなぐエレベーターの建屋が、いきなり目の前にドンッ!と現れる形になります。

【 五階=最上階 】動画は三階・四階がたまたまエレベーターと離れた部分を描いているものの、五階は「三ノ御間」から見た画像のため、ここも目の前にドンッ!と現れる形です。

【 五階=最上階 】もう一方の動画でも、目の前にドンッと現れる形ですが、この右奥の部屋が「一ノ御間」であり、ここが徳川将軍の御成りの際に着座の間とされた場所で、窓の外にはちょうど本丸御殿が見下ろせる位置でした。

という風に、こんな代物が各階にデンッと“鎮座まします”わけで、これらが(小型昇降機と言えども)何百億円もかけて再建する木造天守の内部空間を、あっけなく“ぶち壊し”てくれることが(→ とりわけ天守内部は「白木(素木/しらき)」ばかりの柱や天井や床が続いているため、それとは異質なエレベーター建屋は余計に目立ってしまうことが)よくお分かりになるのではないでしょうか。

(→ → ましてや、これをごまかそうとして、エレベーター建屋を「木目調パネル」!でおおったりしたなら、それこそ犯罪的な“ぶち壊し”になりかねません…)

もしも今後、名古屋市が、これらのエレベーター建屋をちゃんと描き込んだ完成予想CGを作り直して公開したら、きっと(障害者団体以外の)名古屋市民の方々は、全員が「やめてくれぇぇぇ」と叫ぶのは間違いないように思います。

天守内部の印象はすっかり「エレベーターのための空間」と化していて、これでは再び名古屋城天守は「ある種の展望台」に堕(だ)していくことになり、実は、そんな結論こそ、障害者団体のねらう天守像(=日本固有の伝統文化の否定や換骨奪胎/かんこつだったい=“場違いなゲテモノ”の出現!)なのだろうと、私なんぞは感じざるをえません。

――― ですから、そんな不必要なゲテモノは<<むしろ造らせない>>ことが、伝統文化を愛する日本人としては当然の選択肢ではないか、と思えて来るわけでして、事ここに至っては、広沢一郎市長におかれましては、思い切って、すっぱりと、全計画を取り止めた方がいい、と申し上げたいのです。
 
 

 
 
< D案への道筋。 最初の後期望楼型天守は、
  北ノ庄に攻め込んだ羽柴秀吉の「脳内で」誕生した?…
  との勝手な推論から >

 
 

( 今年7月の当ブログ記事より )
「天下人」様式か「太閤大御所」様式か? → 上三重がすべて最上階扱い。
そしてこれが「後期望楼型」の原型になったのかも

さてさて、当ブログでは今年の夏ごろから、上記の絵図のような「上三重がすべて最上階扱い」の天守こそが「いわゆる後期望楼型天守の原型になったのでは」との仮説を申し上げておりまして、上記左側の絵図のとおり、それは豊臣秀吉の木幡山伏見城に始まった?可能性も申し添えてまいりました。

内藤昌先生による「後期望楼型」や「前期層塔型」への変遷の説明図

そして内藤昌先生の『城の日本史』によれば、望楼型から層塔型への変遷の仕方というのは、<天守の上層部分=三重目以上から先に「層塔型」を取り入れて来た…>といった説明の仕方もなされていて、これはまさに「上三重がすべて最上階扱い」とそっくりの形態と申せましょう。

例えば望楼型の広島城天守も、三重目以上は層塔型になっていて…

で、こういう上層部分からの「変容」というのは、ちょっと普通では考えにくく、誰かの恣意的な命令が無ければ起きなかった事柄?とも言えそうですから、それはいつ、どんな風に起きたか、と考えてみますと…
やおら、冒頭の香川源太郎先生の歴史考証イラストの情景が、私の頭の中でグルグルと走馬灯のようになって、ある事柄を語りかけて来るのです。

( 冒頭の引用イラストより / 北ノ庄城を攻める羽柴秀吉の軍勢 )

( ご参考 /『柴田合戦記』より)
(信長亡き後、羽柴秀吉軍は)終に甲ノ丸に攻め詰める。丸の内には大石を以て磊(らい)を積み上ぐ、其の墻(かき)数仭(じん)なり。晋の平公造るところの九層台に比して、天守九重に上げ、石の柱を鉄の扉重々に構へ、精兵三百余楯(たて)籠り、これを防ぐ。城内閑地なく、五歩に一楼、十歩に一閣、廊下斜に連なり、天守高く聳(そび)ゆ。

( 北ノ庄城を描いた古絵図 / 越前松平家に伝来の『越前国絵図』より )

 
………… などと申しますのは、当ブログではちょうど、3年前の記事<幻の北ノ庄城天守も、駿府城や水戸城と同じ三重目「入側縁」式と考えれば…>において、天守三重目の「入側縁」とは、それまでの格式を示した高欄廻り縁に加えて、より実用的な望楼も天守に備えようとしていた頃の工夫?…と言えそうであり、なおかつ、その工夫はすでに、安土城天主で始まっていたのかも、とも申し上げました。

水戸城「御三階」の古写真より


静嘉堂文庫蔵『天守指図』に基づく、当サイトの安土城天主の復元

そこで、この際、思い切ってお目にかけたいのが、
<<安土城天主の後期望楼型への発展形としての、北ノ庄城天守の推定>>
なのです。

↓       ↓       ↓

!! これは「上半分が層塔化しかけた」安土城天主…という風に、幻の北ノ庄城天守を思い描いたシミュレーションなのですが、古絵図との比較で申せば、図の赤丸のように、二重目・三重目の北側や東側への張り出しが“符号”しそうですし…

このように画期的で実用的な望楼「増設」の試みが、柴田勝家の手で行なわれていたとしたら、それを目撃した秀吉の興味=闘争心を大いに引き起こした可能性もあったのでは、と思えて来たのです。

「天守の中層に高欄廻り縁があってもいいのだ」「その方がずっと使いやすいのかも知れない」との気づきが秀吉の脳内でひらめき、そんな属人的な作用が高じて、天守は後期望楼型から前期層塔型へと変容して行き、やがては江戸城慶長度天守「D案」につながったのかもしれません。

ですが、こうなりますと是が非でも、北ノ庄城天守の天守画イラストの方を「先に」仕上げておきたい、との願望もふつふつとわき上がってまいりました。
 

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