逆算2。幻の北ノ庄城天守も、あえて駿府城や水戸城と同じ三重目「入側縁」式と考えれば…

【またもや 緊急――― 】
<<世紀の詐欺(サギ)政策>>「総合防衛費」に断固、反対です。
言わば “予算の二重帳簿化”による防衛費の「GDP比2%水増し達成」なんて、まともな日本人のやることではないでしょう。 そんなことまでして“防衛自粛(じしゅく)国”を維持したい財務官僚には、まともな日本人は、いないのでは。……
 
そして、あろうことか「防衛増税」などという話まで。 しかし、そもそも財務省は何故、いつも増税したがるのでしょう。
 
――― 答えはなんと、増税を実現した官僚ほど「出世するから」…という驚きのメカニズムが。

 
すでに日本は、世界一の潤沢(じゅんたく)な政府資産や、直近の税収増!もあるうえに、そもそも国債は国が税収で完済すべき借金じゃない(※欧米諸国は毎年、利払いだけ!)という認識が広まるなかで、自身の「出世のため」だけに、余計な増税を虎視眈々(こしたんたん)とねらう人々がいる…
→ → そこはもう「増税病棟」財務省とでも言うしかない、のでは。

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『越前国絵図』(福井県立図書館保管)より

――― さて、ご覧の絵図は、旧福井藩主の越前松平家に伝わった『越前国絵図』のひとつで、慶長年間のものとされる図の福井城周辺の様子ですが、城郭ファンならば一目見て、即座に「これは福井城天守と違う」とわかる描き方がなされています。

それは今さら私なんぞが申すまでもなく、まず四重の福井城天守と違って、五重で描かれておりますし、何より特徴的で他に類例のない描写は、最上階に加えて三重目にも「高欄廻り縁」がハッキリと(むしろこちらが主要な高欄廻り縁であるかのように)描かれた点でしょう。

これらの点から、ここに描かれたのは福井城天守ではなくて、その前の(より古い)柴田勝家が築いた「北ノ庄城」の九重天守(の描写の流用)ではないのか? という見方が以前からあり、下記の香川元太郎先生のイラストレーション(西ヶ谷恭弘先生監修)はそうした特徴を採り入れて来られました。

現地の案内看板から


ちなみに、ご覧の写真で申せば、右下には有名な九十九橋(つくもばし)が描かれていて、九十九橋は十五世紀末から記録のある橋だそうで、柴田勝家もこの橋を架け替えた、との伝承があるそうですから、これらの描写は北ノ庄城の景観としても矛盾は無いようです。

そこでさらに天守の描かれ方を注視しますと、破風の設け方は一見、熊本城の大天守を思わせる配置ではあるものの、よくよく見れば初重の破風は「張り出し出窓」にかけた入母屋屋根のようで、初重に張り出し出窓!と申せば、8月の記事で申し上げたばかりの伝統的な手法(四方に抱厦?)を踏まえた可能性も感じます。
 
 
ということで、ますますこの絵は、まぼろしの北ノ庄城天守か、と思えてならないのですが、今回の記事で申し上げたい中心テーマは―――

<< この絵の北ノ庄城天守を、あえて駿府城天守や水戸城御三階と同様の三重目「入側縁」式か、その前段階の(縁が開け放たれた)状態と考えるなら、それは決して類例のない天守デザインではなくなりますし、しかもそこから、新たに見え始める天守の系統の歴史があるのかも… >>

といった観点なのです。

水戸城「御三階」の古写真より


駿府城天守の三重目も、半間幅の細長い内縁(入側縁)が廻っていた、
との復元例がある。
(※そうした大竹正芳・香川元太郎両先生の復元画像より)

とりわけ駿府城のケースに注目しますと、「半間幅の内縁(入側縁)」というのは、現存例で申せば、松本城天守の最上階の周囲にあるものが思い起こされまして、それは武者走(むしゃばしり)とも言えない実に細長いものであり、ご承知のとおりそれは一旦、外に張り巡らせた高欄廻り縁を、まもなく(又は完成前に)外側をふさいだもの、というイレギュラーな事例でした。

したがって、ひょっとすると、駿府城天守の三重目も同じく、初めは開け放たれていた縁を雨戸等でふさいだもの?…という風に仮定できるのかもしれませんし、その場合、以前の状態は、まさに冒頭絵図の北ノ庄城天守にそっくり( ! ! )の可能性もありえたのではないでしょうか。

 
かくして柴田勝家の北ノ庄城天守を「三重目の入側縁」というキーワードでくくって、駿府城天守や水戸城御三階の“同類項”として見直すなら、ここでもう一つ、是が非でも私がお示ししなければならない同類項は、「安土城天主の当サイト解釈」なのです。
 

(2009年度リポートより)


ご承知のように当サイトでは、静嘉堂文庫蔵の『天守指図』を、内藤昌先生とは違う変則的な解釈(→ 七つの重階の図のうち、四つは池上右平による独断的な加筆であり、原資料に忠実な図は三つだけ、との解釈方法)に基づいて、天守画イラストや略図を作成してご覧いただいて来ました。

で、今回はそんな略図(上記)を、三重目以下の様子がもう少し良く分かるように、上層部分を半透明化してお目にかけますと…

!――― ということで、この一致は決して13年前のリポートから計画的にやって来たものではありませんし、ここへ来て初めて私も気づいた事柄であり、我ながら驚いておりますが、こうなりますと、そもそも織田信長の重臣・柴田勝家の天守が似た構想であっても、何の不思議も無いのでしょうし、過去の記事で「北ノ庄城天守と安土城天主は瓜二つかも…」などと申し上げたことも、まんざらではなかったのかもしれません。
 

ならば三重目(眺望の階)より下の階は、何だったか、というギモン。
→ 最初期はそこが「殿主」と呼ばれ、「眺望の階」以上が「天守」か!?
天守の歴史を解き明かすうえで、三重目の「縁」は、重要な肝(キモ)かも。

さて、ご覧の初重~二重目の「殿主」とはどういう空間(部屋)か、というイメージについて、多少のすり合わせが必要でしょうが、例えば二条城の寛永度天守の指図を踏まえて申せば、そこはちょうど寺院の「庫裏(くり)」のような空間、と申し上げていいのではないでしょうか。

すなわち、いちばん手前の「土間」から「板の間」「座敷」と、奥に向かって順に続いたのでしょうから、それはまさに「庫裏」の構成であり、同時に、それらの周囲をグルッと「縁」がめぐる形などは、まず有り得なかったでしょう。

しかし、そうした「殿主」はまもなく…

(本丸御殿を充実させた)豊臣秀吉以降の天守は、望楼型・層塔型を問わず、
初重や二重目にも「入側縁(武者走)」が設けられるようになった。これは言わば、
天守から「殿主」が無くなった >と評すべき「激変」だったのかも。

……… かくして天守三重目の「縁」は、天守の歴史を解明するうえで、けっこう大きなカギをにぎっているのかもしれず、その意味で、冒頭写真の『越前国絵図』は、思った以上に、ものすごく、重要な絵画史料なのかもしれません。
 

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