( 前々回記事より )
望楼型天守をめぐる、昭和以来の、広く信じられて来た「単純な進化論」
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その一方で、望楼型天守は<<後追いの工夫形>>だった、と仮定すれば…
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前々回からの宿題になっております、<後追いの工夫形>としての望楼型天守…についてご説明を再開してまいりたいのですが、このように大それた言説
(=我が国の城郭研究の定理ともなった、望楼型天守から層塔型天守への「進化論」を、ここであえて否定してみる、という不届きせんばんな言説)
を申し上げるのは、ひとえに、近年の丸岡城天守の調査で生じた“ちゃぶ台返し”のような深刻な問題=望楼型天守が寛永年間!に再建されていたと判明し、望楼型は(江戸中期の高知城天守など)江戸時代を通じて建てられた可能性も出てきて、もはや天守の「古い築き方」とは言い切れなくなった中で、こういう新たな事態に城郭ファンはどう向き合えばいいのか?…という対処法への一策に他なりません。
ですが、そもそも、<後追いの…>といった状態が割り込める時間的余裕が、天守の歴史において、ありえたのか否か?については、まずは私の方からその可能性をさぐってみなくてはならないでしょう。
( 2009年度リポートより )
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ただし当サイトでは、重要な安土城天主は天主台上の周辺部に「空き地」が廻っていたはず、との復元案を申し上げていて、そんな考え方を大前提とした場合、<後追いの工夫形>としての望楼型天守は、いつ頃からいつ頃までに出現すれば、歴史どおりに全国的な普及に至れたか?と想像してみますと…
1.その出現はまず、安土城天主の完成(天正7年)以降として…
2.また豊臣秀吉の大坂城創建天守は、天守一階のまわりの天守台上には若干の「空き地」があり、しかも天守一階の直下には高さ5尺のわずかな石垣もあったため、これは<後追いの…>や完成形の望楼型天守に完全には至っていない過渡的な(または発展途上の)事例だったのかもしれず…
3.その一方で、ゆがみや凹みの少ない整然とした矩形平面に、一段の高石垣で築き上げた天守台の始まりを考えますと、おそらくは蒲生氏郷の松坂城(天正16年築城)や会津若松城(文禄元年築城)あたりがそれに当たるのでしょうし…
4.そして慶長2年の完成と言われる岡山城天守は、もはや完ペキに<後追いの工夫形>としての望楼型天守に該当するため、この慶長2年までの間に、<後追いの…>を全国的に普及させるだけのインパクトを持った、「原典」のごとき望楼型天守が出現したはず、と申し上げてよいのではないでしょうか。
したがって、安土城天主が完成した天正7年(1579年)から、岡山城天守が完成した慶長2年(1597年)までの、18年間が、<後追いの…>が “天守と天守台石垣とがぴったり合った” “敵に一分の隙(すき)も見せない ! ! ” “鮮烈な印象とともに” 諸大名らの前に出現した時間的範囲か…と思うのです。
『信長の城・秀吉の城』2007年刊より
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そこで、ここからは、考えを進める手がかりとしまして、かつて木戸雅寿先生が平成18年のシンポジウム講演の採録「天主から天守へ」(上記『信長の城・秀吉の城』所収)に掲載された「文献に現れる天主・天守一覧」表が、たいへん参考になりまして、今回の記事ではこれを大いに参照させていただくことにします。
で、この一覧表は、木戸先生が安土城以前から以後までの文献上に「天主」「殿守」「天守」などと書かれた事例をピックアップして、表にまとめられたものでしたが、先生の意図としては、安土城以前・以後に「天主」等と書かれた建物は江戸時代の固定観念ではとらえられなかった建物のはず、との論点から作成されたものでしたが、これは逆に、黎明期のより自由な「天守」建築の“解釈”が許される城郭群の「範囲」を決めてくれる一覧表とも言えそうです。
そこで、いま改めて、この一覧表に登場した天主・天守等を(城名だけザザッと)羅列させていただくことにしますと…
1.清洲城(初出:弘治4年11月2日)
2.堂洞城(初出:永禄7年9月28日)
3.坂本城(初出:元亀3年12月24日)
4.高槻城(初出:元亀4年3月11日)
5.二条城(初出:元亀11年5月7日)
6.小木江城(初出:元亀元年11月21日)
7.若江城(初出:天正元年11月4日)
8.安土城(初出:天正4年3月4日)
9.信貴山城(初出:天正5年10月10日)
10.片岡城(初出:天正5年10月1日)
11.大矢田城(初出:天正6年11月28日)
12.神吉城(初出:天正6年7月25日)
13.伊丹城(初出:天正7年10月24日)
14.井戸城(初出:天正7年10月晦日)
15.郡山城(初出:天正11年4月22日)
16.北庄城(初出:天正11年4月24日)
17.山崎城(初出:天正12年3月25日)
18.長浜城(初出:天正14年正月13日)
19.石垣一夜城(初出:天正18年5月14日)
20.淀城(初出:文禄3年3月18日)
ということになり、このうち前述の天正7年から慶長2年までに該当するのは、13番目の伊丹城から20番目の淀城までで、それらの
< 伊丹城、井戸城、郡山城、北庄城、山崎城、長浜城、石垣一夜城、淀城 >
といった城郭群が、まずは着目すべき対象なのではないでしょうか。
< 続いて「形状」からのアプローチ。→ 望楼型天守の築き方というのは、
「築城現場の地形的な条件に合わせる」といった受身の手法に留まらず、
高石垣と連続した天守台上に、ぴったりと天守の木造部分が建つ、という
「隙(すき)の無さ」! ! を来襲した敵勢に見せつけるための、積極的かつ
攻撃的な“デザイン”の始まりだったのかもしれず、そういう志向性が、
後世の整然とした矩形平面の天守台につながったのかも、
という風に、思い切って天守の歴史を見直すならば…… >
【 仮想シチュエーション 】
敵が来襲する方角(仮想敵の方角)と、<後追いの…>との関係性
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【 そして<後追いの…>の典型とも言える、岡山城天守は 】
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さて、ご覧の岡山城天守は、かつては、安土城天主に似ているとか、豊臣大坂城天守に似ているとか言われて来たものの、「天守台」に関してだけ申せば、その位置や形状は安土城や大坂城とはまるで異なるもので、少しも似てはおりません。
なにしろ不等辺五角形 ! ! の天守台ですし、望楼型天守の天守台と言えば妙に細長いものとか台形のものもあった中で、不等辺五角形というのは、本丸石垣の鈍角を含む一隅に片寄せて天守台を築いたための結果でしたから、その点で申せば、天守台の位置や形状が良く似ていた城は、もっと別にあって、例えば木戸先生の一覧表の中から挙げてみるなら…
2.堂洞城(初出:永禄7年9月28日)

(※ご覧の縄張り図はサイト「久太郎の戦国城めぐり」様からの画像引用です)
→ 美濃斎藤氏の家臣・岸信周(のぶちか)の堂洞城は、織田信長に攻められて落城したものの、本丸北端の天守台のような土盛の上に「天主」と記録された大櫓があったのなら、それはきっと織田勢の印象に強く訴えたのではなかったでしょうか。
15.郡山城(初出:天正11年4月22日)

→ ここで言う郡山城は、上記絵図の豊臣秀長時代や江戸期の状態ではなくて、はるかそれ以前の筒井順慶時代の郡山城ですが、順慶は天正11年に「天主」「テンシュ」を完成させたわけで、もしもその位置が秀長時代以降と同じだったとすれば、それは堂洞城と同様に、攻め込んだ敵勢に見せつけるように突出した土塁と土盛(か石垣)の上だったのかもしれません。
17.山崎城(初出:天正12年3月25日)
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(※ご覧の縄張り図はサイト「京都府教育委員会 文化財保護課」様からの画像引用です)
→ 山崎の戦いに勝った羽柴秀吉が、激戦地まぢかの天王山山頂に築いたのが山崎城でしたが、この山崎城については、15年前の当ブログ記事「秀吉の“闘う天守”が出現した天王山」で、私なんぞの「豊臣秀吉の天守位置は“次の攻略目標”を指し示した」との持論からやや先走った記事を書いたごとくに、この天守台跡も仮想敵の京都方面から柴田勝家の領国に向けられていて、規模は一般に「東西35m南北20m」と言われます。
で、このうち前述の「時間的範囲」に当てはまるのは<郡山城と山崎城>なのですが、ここで試しに、その山崎城の方を、<後追いの工夫形>としての望楼型天守…の典型である岡山城と並べて比較してみますと、たいへんに面白い現象が見て取れるのです。
岡山城の中枢部分
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<< 同方位&同縮尺で並べてみた山崎城と岡山城 >>
この両城の本丸周辺は、非常によく似た、相似形の縮小&拡大版なのでは ! ! ?
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!!――― ということで、ここまでの結論をあえて申し上げれば、まず木戸雅寿先生の「文献に現れる天主・天守一覧」表を重要なガイドラインに見立てつつ、私の思う「時間的範囲」に当てはまるなかで、<後追いの工夫形としての望楼型天守>の典型・岡山城天守と非常によく似た天守台をもつのは、羽柴秀吉の山崎城だった、ということになります。
しかも、前述のように<後追いの…>を全国的に普及させるだけのインパクトを持った、「原典」のごとき望楼型天守が出現したはず、と考えるなら、羽柴秀吉が天下に範を示した形になる山崎城天守であれば、その役目に申し分は無かったと申せましょう。
さらに当ブログでは、一昨年の記事「妄想。姿形がナゾのままの石垣山城天守は、秀吉の成功体験を積み重ねた「吉兆の移築専用天守」だったと仮定すると…」において、羽柴(豊臣)秀吉はその築城スピードを「移築専用天守」で高めていたのかも、といった暴論を申し上げていて、その始まりは山崎城を想定しております。
(想定した移築順:山崎城→近江八幡城→石垣山城→淀古城→指月伏見城)
したがって、仮定の上に仮定を重ねた話で恐縮至極ではありますが、私が申し上げている<後追いの工夫形としての望楼型天守>は、始まりは厳密には限定できないものの、少なくともそれを全国に広めた「広告塔」は、天正12年に解体・移築の記録がある山崎城天守=羽柴(豊臣)秀吉の移築専用天守ではなかったか、と考えている次第なのです。
(※次回に続く)
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