【 一 言 余 談 】
… … 昨今、欧米では「人権侵害のスポーツウォッシュ」という言葉も使われる中で、日本チームの北京五輪総監督に決まった原田雅彦さん。 この21世紀に、五輪開催国の残酷な「人権侵害」という驚くべき状況について、どういうお考えで、どういうスタンスで のぞむのだろうか。
――― まさか、何も、考えないつもり ! ! ?… (※だからこの人??)
すでに 我が国も「人権侵害のスポーツウォッシュ(→ 運動場の泥のひどい汚れもきれいにおちる、という意味に重ねている)」に うまく加担しているようだ。
(AP NEWS / Broadcasters urged to cancel plans to cover Beijing Olympicshttps / 2021/09/07)
“All of your companies are at serious risk of being complicit in China’s plan to ‘sport wash’ the severe and worsening human rights abuses and embolden the actions of the Chinese authorities,” the open letter reads. “By broadcasting Beijing 2022 your companies will legitimize these abuses and promote what is being widely described as the ‘Genocide Games’.”
こうなったら、勝手な私案として、祝賀的な「開会式・閉会式」に 選手団は参加せず、国旗と役員だけで歩く、という(五輪を人質に取られた)抗議のスタイルで、すべての民主主義諸国が 足並みをそろえてはどうか?――― とも思うが。
さて、今回の記事は、前回の合作寺九層殿の話で出てきた「チベットの九層の城砦」について、少しだけ補足してみたいと思うのですが、外国のことですので、またまた例によって、海外サイトの画像の引用に頼らざるをえません。…
(※ 釈 明 → あまり天守と関係ない事を、ぬけぬけとやるな、とのご批判も聞こえそうですが、これは昨年末の記事 <木子家指図の最大の衝撃――「てんしゅ」は「殿主」と「天守」が上下に合体したもの、との解釈が実在していた> 以来の、なぜ天守は高層化したのか? という疑問の渦(うず)から、いまだに私が抜けられないためでして、何とぞご容赦ください)
【最初の参考例】
「チベットの九層の城砦」と言えば、見た目でそれを連想できるのは、まずは
グゲ王国(10~17世紀)の要塞 ツァパラン Tsaparang でしょうか?
!! これはまるで安土城… と、思わず私なんぞは色めきたってしまうのですが、ご覧のツァパランは、7世紀から9世紀にチベット高原を支配した吐蕃(とばん)が衰退した時、王族の一派が西チベットに建国した「グゲ王国」の王宮を囲んだ要塞都市だそうで、以前のブログ記事で紹介した ギャンツェ・ゾン よりも400年ほど前に創建され、15世紀に再建されたのが現状の遺跡だそうです。
現在のところ、ここが「九層だ」との言い方はされていないものの、麓からのおびただしい1000近くの洞窟や、それに加えて泥レンガで建てた300以上の住居、約400の僧房、28の仏舎利塔、58の望楼などがあって、その間を4本のトンネルが通じていて、最頂部に王宮、という見事な「階層」構造であった点は、やはり安土城を連想してもおかしくないように思われます。
ただ、地形的に注意すべきは、上記写真の「まるで安土城」と見えるのは、ある程度、遺跡に接近して見上げた場合のことらしく…
尾根の突端を利用して、背後を断ち切っていた。後方には脱出用トンネルも
洞窟は領民の住居等で、最頂部へはトンネル内の門を通らねばならなかった
細長い最頂部の王宮跡は、むしろ「岐阜城」のようにも見えて来るもので、
警固の兵の指令所や兵舎は王宮の背後の方にあったらしい
(※ドローン写真は まとめサイト「网易首页」からの引用です)
といった地形でありまして、周囲の村や山すその洞窟に領民の住居があり、要塞の入口を入った所にマルポラカン(赤い寺院)とカルポラカン(白い寺院)の二つの礼拝堂が建ち、そして山の斜面には僧房が積み重なり、山塊の中の曲がりくねった幻想的なトンネルの石段を登りつめると、最頂部に王宮(比高150~180m)がある、のだそうで!… まことに魅力的な要塞都市だと言わざるをえません。
この遺跡も文化大革命では紅衛兵による破壊があったものの、
マルポラカンやカルポラカンにはまだ多くのフレスコ画などが残っている
中央部分が「幻想的な」トンネルの入口
斜面に張り付いた僧房の様子。部屋から部屋へと渡り歩く形だったのか…
イエズス会神父 アントニオ・デ・アンドラーデ
そして奇遇なことに、1624年(=我が国では寛永元年)にポルトガル人の神父アンドラーデがここ(すでに滅亡まぎわの王国)にたどり着き、またたく間にキリスト教改宗者を集めたものの、肝心の王国じたいがラダック王国に攻められて滅亡していったため、アンドラーデらの努力は水泡に帰したと言うのですから、そんな点もまた、岐阜城や安土城を連想させる遺跡なのではないでしょうか。
【補足情報】そのラダック王国のレー宮殿も 九階建て!だそうで…
【第二の参考例】東チベットの石碉(せきちょう)楼/別称「ミラレパの塔」
さて、チベットの「九層」建築をさぐるためには、別の次元の “迷宮” を潜り抜ける必要がありそうでして、例えば東チベットの村々に普及した、監視・防衛・貯蔵の多目的な塔「石碉楼」がそれであり、上記写真の中国・四川省のチベット族の村・丹巴(たんぱ/だんば)が有名ですが、地元では今、これらを「ミラレパの塔」と呼んでいるそうです。
何故そう呼ぶのかと言えば…
有名な仏教者のミラレパ(=チベット仏教の四大宗派・カギュ派の開祖)は若い頃、師匠から「石造りの多層階の塔を一人で建てよ」と命じられ、途中まで完成させると「それを解体して材料を元の場所に戻せ」と命じられる(※現代では有名な虐待テクニック!)が「9回」も続き、さらにパワハラや村八分のごとき仕打ちまで受けて、ついに自殺を図ろうとすると、その虐待はすべてミラレパの前半生の悪業を浄化するための試練だったと告げられ、晴れて奥義を伝授されることになった…
という「ミラレパ伝説」に基づいて、村の九階建て石碉楼を「ミラレパの塔」と呼んでいるそうなのです。
しかし、しかし、こうした呼び方は、前回ブログの合作寺九層殿も、地元の宣伝では「米拉日巴(ミラレパ)仏閣」と呼んでいることを考え合わせますと、十中八九…… 現在の中国共産党の支配下での “許容範囲” としての解釈(→ しかもチベットに過酷な試練を与える諸政策の正当化 ! ! ? )とも思われてならないものです。
現に、東チベット各地の石碉楼は、九層だけでなく、二層、三層のものや、もっと高い十三層といった事例もあるそうですし、しかもミラレパが生きた時代(1052年-1135年)よりも前に、「九層」の原点と思われる建物が、ちゃんと存在していたようでありまして、それがすなわち…
【第三の参考例】
チベット初の統一王国「吐蕃(とばん=チベットの中国名)」を樹立して、
東の隣国・唐帝国に対する 軍事的優位 を保った国王 ソンツェン・ガンポ王 が、
ラサに築いた「原ポタラ宮」の王妃の 九層宮殿
(大岩昭之著『チベット寺院・建物巡礼』2005年刊より)
チベットが、伝説と神話の時代を経て、歴史的にもはっきりとしてくるのは七世紀頃からである。当時のチベットは吐蕃(とばん)と言ったが、ヤルルン渓谷の小国から、七世紀前半、ソンツェン・ガンポ王はチベットを統一した。
(中略)
ソンツェン・ガンポ王はラサに遷都するが、現在のポタラ宮の以前に、この場所、マルポリに王によって建てられた 原ポタラ宮 があったと言われている。
文献によると「宮室は千あり、……王妃の宮殿は九層」とある。現在のポタラ宮に画かれている壁画にも原ポタラとして、搭状の宮殿が画かれている。
ポタラ宮の壁画の鏡に映った「原ポタラ宮」
(マルポリの丘に建つ王宮と、チョクポリの丘に建つ王妃の宮殿=九層)
このチョクポリはチャグポリ(Chokpori、Chagpori)とも呼ばれ、マルポリを含むチベット中心部の四つの聖なる山(→ ちょうど我が国の大和三山にも通じる山々)の一つですが、そこに「九層」の原典たる 王妃の宮殿 があったとされているのです。
で、上記の絵を見るかぎり、その宮殿は全体で「宮室は千あり」というのですから、ひょっとするとチョクポリは、冒頭のツァパラン風に、山の斜面をも使った宮殿の最頂部に「石碉楼」が建つ形になっていて、それらの合計で「九層」になっていた?… とも読み取れるのではないでしょうか。
そして、さらにソンツェン・ガンポ王が建てた9階建て(と伝わる)修道院・パボンカ寺の洞窟には、現在、王と二人の妻(ネパールのブリクティ王女と中国の文成公主)の像が安置されていて、彼には他にチベット人の妻も四人いたため(文成公主が有力と言われるものの)だれがチョクポリの宮殿の主かははっきりしていない、とのことです。
8世紀の吐蕃(チベット)と周辺の国々
(※唐の領域は朝鮮半島に達したとする地図でも、吐蕃は大きい…)
1859年作成の地図(1645年から再建された現状のポタラ宮がある)
→ 左側の丘がチョクポリ。原ポタラ宮ともども失われた後の状態
加えて、ご参考までに、その後の無残なチョクポリの現状を、写真でご紹介しておきますと…
1938年に撮影したチョクポリ / この当時は医療研究所になっていた。
しかし1959年のラサ蜂起の際に、人民解放軍の砲撃でここは完全に破壊されて…
中国共産党の完全支配下にある現状では、なんと、電波塔!―――
このように現状はかなり悲惨な姿ですが、ここまでの経緯をまとめて振り返りますと、チベットの「九層」建築というのは、どうやら「祝福の願意」が込められた建て方なのだ、という風に言えそうでありまして、したがって「九層」はミラレパ伝説(=苦難の数の9)に直結したものではない、と言い切って構わないのでしょう。
1900年に撮影した現ポタラ宮
1994年の撮影
(※ここからはサイト「AN ARCHITECTURAL CURIOSITY : THE THANGKA WALLS OF THE MAJOR TIBETAN MONASTERIES」が
まとめた写真や日記を引用しながら続けてまいります)
さて、現在のポタラ宮は、ご覧の17世紀の絵とはかなり姿が違っていて、その後に、正面の壁が山腹までせり出すように増築されたことが分かるのですが、ちょうどその部分は、写真のように巨大な「タンカ」がかけられる場所になっています。
タンカというのは、チベット仏教の仏画の掛軸(素材は絵画や刺繍やアップリケ製)ですが、チベットで最初にタンカを描かせたのもソンツェン・ガンポ王であると伝わり、代々のダライ・ラマの治世では、各地の寺が夏の祭りでそれぞれの大タンカを開帳し、それを一家総出で参拝することが、チベット人としての連帯感を共有する場であったと言います。
そこで…
【第四の参考例】タンカの壁/通称「キク・タムサ」
大勢の参拝客に大タンカを見せるための「壁面だけ」の大建築が造られるようになり、
例えばラサ近くのセラ寺のタンカの壁は…
ギャンツェのペンコルチョーデ修道院のタンカの壁
シガツェのタシルンポ修道院にも見えるタンカの壁
チョンギェーのリウォデチェン修道院のタンカの壁
――― かくして、我が国の山腹に築かれた天守(萩城天守とか、鳥取城の御三階櫓とか)も ちょっと圧倒されそうなスペクタクル感がありますが、これらを目撃した20世紀初頭の旅行者達の日記においては…
(ウィリアム・ケアリー『チベットの冒険』1901年より)
タシルンポで最も興味深い建物は、キク・タムサと呼ばれる建物です。高さは9階建てで、くさびのように、または手斧の広い刃のように上向きに先細りになっています。
(サラト・チャンドラ・ダス『中央チベットのラサへの旅』1902年より)
キク・タムサと呼ばれる石造りの建物にたどり着きました。長さは約60歩、幅は30歩で、9階建てです。築200年以上ですが、まだまだ整備が行き届いています。
!! なぜ、タンカの壁も、わざわざ「九階建て」なのでしょう。
――― ここには前回ブログ記事の「破風」とまったく同様に、九層という多層構造で建物を建てること自体に!「祝福の願意」が込められた可能性を感じるわけで、これらを眺めたチベット人が(何を偉そうに!という反感とは180度 真逆の)深い安堵感や信服感を得ていたなら、それはきっと、我が国の江戸時代以降の天守とも相通じるものでしたでしょうし、チベットは、今なお、そういう本質的な答えを(※中国による歴史の封殺を乗り越えて)我々に教えてくれているように思えてならないのです。…
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