家康を静勝軒「継承」に向かわせた動機。江戸城は“荒れ果てたまま”ではなく“降伏前後に城下が炎上し丸焼け”の可能性

茨城県の「鹿島神宮」御手洗池

(※ご覧の写真はサイト「NICO STOP」様からの引用です)

関東と江戸の前置き余談2 】
旧石器時代の日本人は、3万8000年前に
「太平洋」を渡ってきた人々なのか?……

後々の鹿島神宮や香取神宮の不思議な立地をふまえると。

 
ご覧の地図は、前回に引用した日本旧石器学界の「旧石器時代・縄文時代草創期の全遺跡/文化層」図のうち、注目の「関東」など本州の中央部分を切り抜かせていただいたものですが、やはり、どうして「関東」が、旧石器時代の地球上において、他の大陸や地域を圧倒するほどの隆盛を極めたのだろうか?…との疑問に、心が奪われてなりません。
 
で、ふと、冒頭写真の鹿島神宮や香取神宮は、伊勢神宮や出雲大社などと並ぶ、日本の古代史における位置づけが非常に重い両神宮だと言われるものの、その立地が関東の茨城県と千葉県、しかも現在の利根川河口にも近い突端の地 → → はっきり申せば、大和朝廷に始まる歴史観からしますと、とてつもない僻地(へきち)にある理由が、とんと分からない(※一説には両神宮の始まりは、朝廷が東国支配の拠点として祀(まつ)ったこと、との説もあるようですが、ならば何故この地に二つなのか?)という不思議さが気になります。
 
そこで是非ともご覧いただきたいのが、下記の引用地図でありまして、これは1万9000年前に始まった「縄文海進」という温暖化による海面上昇の時代に、その鹿島神宮や香取神宮の場所はどうなっていたか、という点について、フランク・ロイド様が投稿された地図・作図なのですが…

これを当ブログで使わせていただき、これに合わせて先程の日本旧石器学界の地図をダブらせたら、どうなるだろうか??と思い立ち、やってみました。 すると!…

なんと、なんと、「関東」をおおい尽くした旧石器時代の遺跡群は、大半のオレンジ色がずっと陸上であり続けた一方で、赤紫色が縄文海進の頃は水没してしまった範囲であり、また九十九里海岸などは遺跡群がスパッと切り取られていることから、海に流された遺跡もあったのか… と色々な発見があります。
 
そして何より興味深いのは、鹿島神宮と香取神宮の位置でありまして、両神宮はあたかも、太平洋の方から見れば、「関東」に入るゲートの左右の門柱!のような位置に当たり、これはひょっとして、上陸の記念碑だったのか、もしくは後続の人々のための航路目標の類いが造られて、それが両神宮の立地の原点になったのかも…といった感じがありましょう。
 
このことから、思わず私なんぞは、旧石器時代の日本人というのは(※寒冷地で遺跡の少ない中国大陸や朝鮮半島は全く関係なく!)実は3万8000年前に、暖かい「太平洋」の島々を(おそらくは漁労の延長線上で)何世代もかけて渡って来て、ついに「関東」平野に望外の新天地!を見つけた人々、の子孫ではなかったのか?―――などと思えて来てならないのですが。

 
(※※ちなみに彼らは、沖縄県内の旧石器時代の遺跡で発見された骨のDNA解析の結果、現生人類のホモ・サピエンス・サピエンヌであることが判明しております。 仮に、アフリカからスンダランド沿岸を経由して来たとすれば、ハンチントン『文明の衝突』の中で、「日本文明」の特徴は魚介類からタンパク質を採ったこと、とあったのも一つのヒントかと。 で、現に「世界最古の釣り針」も……。 ひょっとすると、日本人の根っこは「米」ではなくて「海洋」だったのかもしれませんし、我々は島国を“選んだ”民!なのかも、と。)

※           ※           ※
 
『東京の1万年』1990年刊より / イラストレーション:大川明
刊行当時、強い印象に残ったページ「武蔵野の原風景」平安~鎌倉時代

さて、今回のブログ記事は、江戸や江戸城についての「先入観」が大きなテーマになりそうでして、それと申しますのも、かつて一時期、徳川家康が入府した頃の「江戸」というのは、さびれた漁村が点在しただけの、非常にさびしい土地柄だった……なんていう、ちょっと極端な解釈の仕方が、一般誌にまで載った時期がありました。

しかしその後、ほどなくして、やはり江戸城は(太田道灌の死後も)後北条氏の重要な支城の一つとして、それなりの規模をもっていた、という風に論調が戻ったわけですが、今回、私が申し上げたいのは、それでもまだ不十分!?かもしれない、という疑念なのです。

実は、かく申す私も、過去に上記イラストレーションのような“江戸イメージ”で番組制作をしてしまった一人であり、太田道灌の有名な和歌「我が庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る」の背景画として、広い葦原のなかに多少の松林が見える風景を使いました。

その際に、風景ショットを撮影した、木更津の小櫃川(おびつがわ)河口干潟

(※ご覧の写真じたいはサイト「きさらづレポート」様からの引用画像です)

……といった前科もある私ですから、その反省も含めて今回の記事を書きたいと思うのですが、その前に(※話題の時系列が言ったり来たりで、たいへんに恐縮ながら)前回からの宿題の、徳川家康時代の江戸城・慶長度天守の復元案「C案」をご覧いただきたく存じます。
 
 
 

< 決定版のC案。
  これを四方切妻&四方唐破風の、層塔型「八棟」天守と見れば―― >

 
 

【C案】 いろいろと回り道をしたものの、これが決定版と考えております。


この「C案」をペーパークラフト風に略画で立体化してみますと…

という宿題の提出ですが、ご覧の案は、今までにご覧いただいて来た全ての要素を「統合」した案であるため、どこが変わったのか、ちょっと分かりにくいようですので、要点をまとめますと…

【1】「屋根裏階」の配置を、ちょうど松本城天守と姫路城天守を足したような配置にしたことで、下三階分が同大で建ち上がりつつも、天守全体は整然と逓減(ていげん)するプロポーションになり、『愚子見記』の記述としっかり合致するようになった。

【2】 そもそも『東照社縁起絵巻』に描かれた天守の「破風」配置は、小堀遠州の発案とおぼしき(名古屋城天守以降の)いわゆる徳川巨大天守の配置とは、明らかに異なる手法であり、それはむしろ、二条城の創建天守など、家康ゆかりの「八棟造り」天守に共通したものであることに留意した。

という風に、私のこだわりの根っこを改めて申せば、とにかく『東照社縁起絵巻』に描かれた天守の絵は、四方切妻&四方唐破風の「八棟」の建物に見えてならない、という点が第一でありまして、それはより技巧的な徳川巨大天守のやり方とは「別物」だろう、と強く感じることです。

そして駿府城と名古屋城は天才・小堀遠州が“立て続けに”造営に関わった城ですから、当然、駿府城天守は「徳川巨大天守の側」に含めるべきでしょうし、そこから外れた江戸城の慶長度天守は、逆に、家康ゆかりの「八棟天守の側」を代表する、エポックメイキングな存在だったのではないでしょうか。

ご覧のうち、左側に並んだのが米子城天守、淀城天守、尼崎城天守、熊本城大天守(!→ 豊臣風ではない)などの「八棟」天守であり、右側が当サイトの年度リポートで「唐破風天守」と仮称させていただいた、姫路城大天守、岡崎城天守、小田原城天守、加納城御三階櫓であり、これらのデザインの中心にあった天守こそ、『東照社縁起絵巻』にある、江戸城・慶長度天守であろう、と思っております。

――― ということで、上記C案の場合、ブログで申し上げて来た「三重目の縁」は、『愚子見記』どおりの「いっそう整然と逓減(ていげん)した層塔型」の造形の中に、より強力に取り込まれた形になっていて、その巨大さも手伝って、外観上は下層階の「同大」構造がまるで分からないほどだった… と考えた次第です。
 
 
 

< 徳川家康を静勝軒「継承」に向かわせた動機とは。
  その時の江戸城は“長年の風雪で荒れ果てたまま”ではなく、
  降伏の前後に“城下がまるごと炎上”…という可能性も。>

 
 

さてさて、ここからは、また江戸や江戸城の「先入観」に大いに関わる問題として、ご覧の野中和夫著『江戸城 築城と造営の全貌』の中から、いくつか引用をさせていただきたいのです。

(同書 P19より)

さきに、後北条時代の城代、遠山直景は、天正四年から五年にかけて、江戸城普請を大規模に行ったことを述べた。 いわば、リホームしたわけである。
その後、秀吉の小田原攻めで江戸城は、家臣の謀叛によって天正十八年四月二十二日に降伏することになる。 この歳月は、通常であれば、江戸城内の屋舎が廃墟に近い状況であることを想像することができない。 すなわち、江戸城降伏に至るまでに、激しい戦火が展開された可能性があるのである。
筆者は、残念ながら、それに関する史料にあたることができなかった。

 
 
とありまして、野中先生自身が「それに関する史料にあたることができなかった」と吐露された以上、「激しい戦火」を示す証拠の類いは、現状でも無いのでしょう。
でも「リホーム」と表現された改修工事は、同書によれば「塀」の修理を主体に「十日間に延四八二〇人をかけて行われた」そうですから、その13年後に、城がすっかり荒れ果てる?というのは、確かに、大きな風水害でも無いかぎり、ちょっと考えにくいのではないでしょうか。

その一方で、家康が入城した時点の江戸城のひどい有り様については、江戸中期の兵学者・大道寺重祐の随筆『霊巌夜話』や、川越藩の家老・石川正西の万治3年の記録集『聞見集』の中に、「悉く破損」とか「雨もり雫にて、畳敷物等もくさり果候」とか「城のやうにも是なく、あさましきを」とか「町屋なども茅葺の家百ばかりもあるか無の体」といった感じで、けちょんけちょんに書かれております。

ところが、ところが―――上記の野中先生の本には、家康の小姓だった内藤清成の日記『天正日記』を引用しつつ、小田原攻めの終了後には徳川家が関東・江戸に移封されそうだと知った家康が、急ぎ、清成に命じて、江戸城の下調べに向かわせた経緯が紹介されていまして、その『天正日記』六月の条にはこんな記述もあるそうなのです。

(『天正日記』より)
町かず、たて十二町、よこは三四町、所々にてさだまりなし。家かず、やけ後故たしかならず。

「やけ後(跡)」?……… つまり四月の江戸開城後の六月(※小田原降伏は翌月)に、家康の家臣が実際に見に行った江戸城は、城下の町屋の広さは分かるのに、「家」の数は数えられない、ということは、例えば…
<<約1.3km×400m弱の町屋や侍屋敷は、ほぼ「丸焼け」! ! だった>>
という可能性もあるのではないでしょうか。

これは勿論、焦土作戦としての城側からの焼き払いの可能性もありましょうし、また日付のまちがいが多い『天正日記』を“偽書”だと疑う向きもあって、江戸城の攻略に向かった浅野長政や家康家臣・戸田忠次の軍勢が、江戸城下を焼き払ったのだ、とまでは強く言いにくい部分があります。

しかし、それでも『霊巌夜話』や『聞見集』の書きぶりはちょっと極端すぎる感じがいたしますし、とりわけ「町屋なども茅葺の家百ばかりもあるか無の体」というのは、町屋の広さから見て、「百ばかり」は焼け残った方の数ではないのか、という気もして来ます。

そのうえで、私なんぞが注目したいのは、ご存知のとおりこの戦争では、後北条氏側が巨大すぎる本城・小田原城の籠城のために、各支城の兵力の主力部分を集めてしまい、その結果、各支城はドミノ倒しのように降伏開城して行ったわけですが、そんな中で、徳川家康の心理を想像しますと、家臣・戸田忠次が攻めた江戸城は「城下が丸焼け」と聞いた直後に、その江戸に自らが移封される!とも聞いた家康の、かすかな動揺………が見える気がしてならないのです。

すなわち、このことが、家康自身を静勝軒「継承」へと向かわせた動機になったようにも私は感じておりまして、果たして実態はどうなのでしょうか。

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