城構えの継承…『江戸始図』の本丸北辺の「巨大な石塁」は、実際は絵図以上に目立つ強烈な存在だったのかも

【 あ然… 】
 岸田家は日本の憲政史上、最も「ゆるい」総理一族なのか

「私的スペース」とか「忘年会に使える・使えない」とかは問題じゃありません。「どういう使い方をしたか」が大問題であって、今や、この写真が世界を駆け巡っています。!…
 
思いますに、息子や一族も、増税しか頭に無い財務官僚も、傍若無人な駐日アメリカ大使も、好き勝手にさせながら、非自民支持層のうわべの支持を得て保身をはかる、という、始末に負えない「岸田文雄“ゆるキャラ”政権」の本質が見えるかのようです。



で、やはり!総理夫妻“公認”でした。ならば、何故、息子だけが辞職??


一説には、この忘年会の呼びかけは総理夫妻、との観測もあるそうで、
そうなると「この夫妻」は、息子の首を差し出して、なおも
官邸の主でいたがっていることに。
言語道断の!「ゆるい」一族がそこに居るようです。…………。

 
 
【 LGBT法案で緊急追記2 】
結局、この方は、「強行採決」になるのはイヤだ、と言い出して維新・国民案を丸吞みへ。 だったら、自民党内のあの紛糾は何だったのか、というスッタモンダに。
もはや「岸田文雄」という人物は、間違いなく精神のバランスを崩していて、あのイージス・アショアやコオロギ食やマイナ保険証でめちゃくちゃを引き起こした「河野太郎」に負けるとも劣らない<超トラブル・メイカー>に化けているのではないでしょうか。
 
何の経験もない息子を首席補佐官にしたのは、それを隠すための、バッファ(緩衝地帯)だったのでは…… という気がしてならないのですが。

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【 はじめに 】6年前の記事の
<家康が本当に好んだ天守の姿から問う、『江戸始図』解釈への疑問点> より



徳川家康時代の江戸城の慶長度天守は、
自身の二条城天守に似た「複合連結式」。

赤丸の範囲には「櫓」は見当たらず、おそらくは「塀」で囲っていただけ…

ご覧のように当ブログでは、当時、話題になった『江戸始図』に関しまして、図で示された天守の形式は、姫路城天守などの「連立式(環立式)」ではなくて、岡崎城や松本城などの「複合連結式」の天守にしか見えないはずでしょう、と明確に申し上げました。

ですが、赤丸の範囲が「塀だけ」というのは、ちょっと無用心ではないのか?との疑問の声もありましょうから、ここで改めて、そこに「塀」以上の防備の必要性はまるで無かった事情を、ご説明してみたいと思います。

【 その前提となる、馬出しの通路等は「平坦」であったこと 】
諏訪原城ビジターセンターのジオラマ写真に「赤い弾道」を加筆してみました。
→ → 馬出し両側の通路等は、傾斜や起伏が無い方がいい、と良くわかります。

このように「馬出し」というのは、両側の通路を含めて、高低差はあまり付けずに築くものだった、との前提をご確認のうえで、もう一度、『江戸始図』の3重(3連)構造の丸馬出しの周辺をご覧いただきますと…
 


 
↓        ↓        ↓
 

 
↓        ↓        ↓
 

(※上記の絵図内のキャプションを繰り返しますと、
 まず1.の緑文字のごとく、3連の丸馬出しは、ほぼ高低差が無かったものとしまして…
 2.の細線で指し示した辺りが、もしも絵図の下方の「白鳥堀」と同程度の高石垣であれば、当然、その間にある曲輪は、急斜面で下る形になってしまうでしょう。
 したがって、この城の曲輪の「高」「低」のおおまかな分布は、次の図のようになっていたはず、と分かります。
 そうであれば、赤く表示した「巨大な石塁」とその上にあったであろう多聞櫓は、実際には、強烈な印象を放つ、非常に目立つ存在だったのか!?…と思えて来るわけです)

…… ということであり、冒頭の「赤丸」部分は「塀」だけでも決して無用心ではなく、天守曲輪の防備はしっかりとなされた事情をご納得いただけるはず…(※NHK「ニッポン不滅の名城 姫路城スペシャル」の再放送をもう一度見て、思わず追記。 姫路城や松山城の連立式天守は、天守曲輪が敵勢に囲まれてもなお援軍を待つための「連立式」であったわけですが、幕府の本拠地・江戸城の場合、天守曲輪が敵勢=倒幕軍に囲まれてしまった状況では、もはや、誰も助けに来てくれないのが「江戸城」の宿命ではありませんか?… )と思うわけですが、今回の記事で新たに申し上げたい中心テーマは、本丸北辺の「巨大な石塁」の方なのです。

上図の「赤い」石塁は、これまで、ほとんど語られて来なかった存在、と申し上げてよろしいのでしょうが、これが天守曲輪から続く形で築かれた点に着目しますと、江戸城以外でも、いくつかの城で踏襲されたスタイルのようにも思えてまいりまして、今回の記事ではこれを<<城構えの継承>>という観点でチョットだけ触れてみたいのです。
 

< 天守から続く本丸の一辺を、特に強固に防備した「石塁」の類例 >
 
清洲城跡
(春日井郡清須村古城絵図より)


広島城(安芸国広島城所絵図より)


福岡城(福岡城絵図-写-より)

このように、天守から続く本丸の一辺を、特に強固に防備した「石塁」は、各地に点在していて、家康自身が関わった中においても、発掘された天正期の駿府城は、本丸の北側の石垣にかなり大ぶりな石を使っていて、これも同じ発想によるものかもしれません。

駿府城跡
(2020年2月の見学会より / 小天守台の北面石垣 → 上部が失われた状態)


豊臣大坂城(宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』1984年刊 / 表紙と裏表紙)

そして勿論、これらの手法の直接の「祖形」は豊臣大坂城だったのでしょうが、ならば江戸城はどうなのか?と考えますと、ちょっと違った事情が見えて来そうです。

では、徳川家康時代の江戸城は…

初めにお詫びを申すべきは、ご覧の略画は、以前のブログ記事「1600坪 ! ! …ものすごいボリューム感だったか、家康時代の天守曲輪」でお示ししたものですが、これはちょっと私の認識が甘かったようでして、3重構造の丸馬出し周辺を、現在の二の丸庭園よりも高い標高(海抜12m程度)で描いてしまいました。

そこで、前述の各曲輪の「高・低」の分布のとおりに、3重構造の丸馬出し周辺は「低」の範囲に含まれる形にして、例えば、現在の皇宮警察のある地面(海抜4m)と同じ標高とした場合、どう見えただろうか? といったシミュレーションを、新規の略画でご覧いただきたいのです。

こんなにも違う「石塁」の見え方 ! ! ! ――― こちらの画も、上空の高い位置から見下ろした形であり、手前が大きく見えるパースペクティブは特につけておりませんので、問題の石塁の巨大さがストレートに感じられるでしょう。

そして3重構造の丸馬出し周辺がもっと高ければ、それだけ問題の石塁は低くなる仕組みにありますから、この画はあくまでもシミュレーションに過ぎないものの、こんな画を見ておりますと、思わず私なんぞは、あの「絵」の方を連想してしまうのです。…

(右は谷文晁の『道灌江戸築城の図』より)

谷文晁の絵も本丸北辺の堅固さが強調されていて、つまり江戸城の本丸北辺というのは、太田道灌以来の!城構えの見栄えの頂点であり、必ずしも豊臣大坂城は関係なかったのかもしれない…という風にも思えて来ます。

それはひょっとすると、現在にまで直伝されていて、合わせて数世紀を超える「城構えの継承」が我々の目の前に=本丸北辺の「北拮橋門」から続く高石垣の連なりに、生き続けている?かのように感じるのですが、いかがでしょうか。

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