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補足… 肥前名護屋城天守の通し柱(四天柱?)は蒲生氏郷の手法か

さあ、次の、もろに「人権弾圧」国(=中国)が開催する冬季オリンピックに、協力するスポンサー企業やマスコミは、どこなのでしょう??

…… 先日、TBS「ゴゴスマ」のコメンテーター・石塚元章氏が、日テレ「ミヤネ屋」の宮根誠司キャスターの「テレビっていうのは こういう時、手のひら返すんですよ」とのメダルラッシュ後のストレートな発言を、批判した、という、ちょっとした騒動がありました。
 
この時、日刊スポーツによれば…
< 石塚氏は、組織が受ける評価と、そこにいる個々の人々の頑張りは 別である との持論を展開し「僕はあまり矛盾を感じない」。>
 
と、テレビ局の変わり身についてコメントしたそうですが、これは … … 今後を考えますと、「人権弾圧」国が開催する冬季オリンピックも、TBSが、後ろめたさも無く、正々堂々と、開き直って放送するための、石塚氏一流の「布石」なのかもしれません。
私には、宮根さんの方が、はるかに、潔(いさぎよ)い姿勢だと見えてなりません。 画面に出る方は、嘘(うそ)を忘れていると、いつか顔に出ますし。(宮根さんはそのあたりを… )

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さて今回は、ご覧の天守画イラストの修正シミュレーションについて、二三の補足を申し上げたいのですが、この画像自体は、肥前名護屋城の天守台中央に残る「四つの礎石」から建ち上がった「通し柱」の上に(礎石の四角形そのままに)極端に小さな望楼が載っていたのかも… と推定したものでした。

で、もしもこれが実像に近かったのなら、こうした天守の内部構造は、どこから始まったのか? との疑問が出てまいりましょうが、これについては、おなじみの建築史の平井聖先生が、20年以上も前に、答えを出しておられたようです。

歴史群像シリーズ15『会津若松城』1997年刊より

この平井先生の頁の作図が示している柱や穴倉石垣の位置を、天守の立面図の上に色づけで示せば、次のようになるのでしょう。

!――― ご覧のごとく、穴倉の下段から建ち上がった柱(通し柱?)は一筋に連なって最上階(五階)の側柱となり、一方、穴倉上段からの柱は四階の側柱になっていた、という構造でありまして、これはもう、冒頭の肥前名護屋城の修正イラストと共通した手法と感じざるをえないものでしょう。

もちろん会津若松城を築いたのは豊臣大名の蒲生氏郷(がもう うじさと)であり、9年前のブログ記事では、平井先生の指摘(→ その後、七重の下層階が省かれて五重になった可能性)に勇気づけられて、氏郷の七重天守を「逆算」で推定しながらイラスト化しました。

(七重天守を現状の天守台の上に再現してみた場合)

(※注釈 / ご覧のイラストでは、天守の位置は、現状の復興天守のような天守台上の北西寄りではなくて、台の東辺に沿った中央部分としました。
 その際、現状の穴倉石垣が天守台外面よりも「新しい石垣」に見えるため、きっと七重の頃は、二回りほど広い穴倉が、やや位置をずらして、ご覧の七重の最上階の「直下」にあったはず、と考えました。
 この点に関しては、平井先生は天守の位置に言及がなく、七重天守は現状の位置のままに建っていたとお考えであり、上記の作図もそうしたお考えに基づくものでしょう。当ブログのイラストも、決して 平井先生のお考えから 大きく外れるものではございません)
 
 
さてさて、ここまでは 確実な話 として申し上げられましょうが、その他で、こうした内部構造の直接のモデルになった建物は?? と試しに国内外から探してみますと、これがなかなかに微妙で、はっきりした事が分かりません。


例えばご覧の法隆寺金堂の場合で申しますと、一見して、一階の身舎を囲む柱が上層で側柱になっているようにも見えますが、よくよく見ますと、それらは「通し柱」というほどの一体感で支えた構造でもなさそうであり、これを福山城や肥前名護屋城の天守と同一視はしない方がいいのかもしれません。

そこで思い出されるのが、五稜郭に復元された函館奉行所の解説用のパネルなのですが、こんな構造であれば、一階から通し柱のように屋根上の太鼓櫓が支えられていて、類似の構想と言えそうなものの、ところがどっこい、いわゆる「寺院等の太鼓楼の類い」について他の事例を当たってみますと、必ずしも、一階から建ち上がっていたとは、言い切れない状況のようなのです。

(前回ブログより)

で、もう一つの可能性として、ご覧の天守台中央の「四つの礎石」は、あたかも五重塔の四天柱(してんばしら)の礎石のようでもあるため、五重塔などの「仏塔」との関係で申しますと…

ご覧の世界最古の木造五重塔・法隆寺五重塔もそうなのですが、結局、五重塔の「四天柱」というのは、福山城天守の場合とは違って、最上層でも内部にとどまる形(=側柱にはならない)という決定的な相違点があって、やはり充分ではないようです。

ちなみに中国の古い仏塔を見ましても、例えばご覧の仏宮寺の応県木塔(山西省朔州市応県/1056年造立)は世界で最大・最古の八角木塔と言われるものですが…

こちらはご覧のごとく、心柱が無く、四天柱にあたる8本の支柱が最上階まで貫いているものの、やはり側柱とはならず、全ての階に身舎を造って仏像を置く、という構想が貫徹されております。

――― かくして、福山城や肥前名護屋城、会津若松城の天守に類似した内部構造というのは、中国大陸などに歴史的には存在したはずだろうと思うものの、意外にも、ピッタリの古建築は現存しない?らしく、しかしもし仮に、中国大陸やヒマラヤ周辺の片隅にそういうものがあったとしても、それを16世紀末の蒲生氏郷が「参照」できたとは思えませんので、やはり、氏郷のオリジナル ! ! という可能性は濃厚なのかもしれません。



おしい!…という感じの 望江楼(四川省成都市/1889年造立)

 
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【ある驚愕の追記…】
 
――― そんな中で、是非とも申し添えておきたいのが、日本や中国の仏塔の通常の「四天柱」とは違って、むしろ福山城天守に近い!という、実に妙な四天柱の仏塔が、韓国に存在していて、驚きなのです。

韓国で唯一の現存木塔(!)の法住寺・捌相(はっそう)殿(1624年再建)


ご覧の「異形の」五重塔がある法住寺は、場所が現在の大韓民国の国土のほぼ中央になりますが、捌相(はっそう)殿は韓国では極めて特異な仏塔であり、なおかつ四天柱が五層目の側柱に(厳密に言えばややズレているものの)なっている、という東アジアでも特異な造りであって、思わず、福山城天守や肥前名護屋城天守との「関連性」が気になる存在です。

しかし記録によれば、この再建木塔の前身の塔は、6世紀に寺が創建して以来、幾度か姿を変えて来たらしく、そして最後の前身建物が朝鮮出兵の際に焼失したというのですから、その内部構造を日本の将兵らが「つぶさに見る」機会などありえなかったわけでして、そうなると――― 現状の再建木塔は、逆に、かの宇喜多秀家が漢城(現ソウル)に建造した「天守」の、その後の李氏朝鮮の人々による「写し」なのでは?? という風にも思えて来るのです。

で、そうした「写し」を引き起こした「漢城天守」とは、ひょっとすると、蒲生氏郷の会津若松城天守さながらの、破風の少ない七重の! 層塔型天守であったのかもしれない、とも思えて来まして、何故なら、それは当ブログで指摘した <<それぞれの政権の版図内の最も遠い天守は、七重で、築かれていた>> という現象と、ぴったりと符合するからなのですが。…

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