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福山城天守の「柱」構造が あの天守台跡の礎石配置に類似している、ということは…

前回のブログ記事では、当サイトの駿府城天守イラストが、一連の記事と「矛盾」しそうになって、どうにか『モンタヌス日本誌』の再点検で事なきを得た、という展開になりました。

で、今回もまた、似たような天守の内部構造、とりわけ最上階と入側の有無との関係に焦点を当てて「再点検」してみたいのですが、今回の結論では、逆に、過去の天守画イラストの一つを、大きく修正してご覧いただくことになりそうです。!…

と申しますのは―――

【ご参考】
中国新聞デジタル「焼失前の福山城内部を絵図に 史料で推測し再現」
に載っていた吉田和隆さん作成のイラストを引用。

一連のブログ記事で天守の内部構造を考える中で、ふと、ご覧のイラストをネット上で見つけまして、これはかつて、作者の吉田和隆さんが 著書で書いておられた内容と、密接につながるのでしょう。

(吉田和隆『近世城郭の掉尾を飾る城 備後福山城』​1998年刊より)

福山城天守は、昭和十四年に国宝に指定されたにも関わらず、各階の平面図が作成されておらず 写真も少ないため、各階の柱の配置や階段、部屋の位置などは不明である。
ただ部屋については、「福山城誌」によると二階に板囲いの部屋が一室と、三階と四階に床の間が一室づつ、それに五階の御調台の計四室があったと言う。 それらの部屋は、籠城の際の藩主とその家族、藩首脳等の居所として、かつては畳を敷き襖が入れられていたものだろう。
他の大部分の空間は、板張りの床に柱が並ぶだけの殺風景なものだった。 階段は古写真から、他の天守と同様に手摺の付いた急傾斜の物が各階に一基ずつあった。

 
 
といった吉田さんの問題意識(→ 内部の詳しい調査が無いままに米軍の空襲で焼失したこと)のもとで、冒頭のイラストは描かれたものと拝察しますし、福山城天守の構造は、私なんぞもたいへん興味のある事柄でした。

【ご参考2】
福山大空襲で焼け野原になった駅と市街(月見櫓跡の付近からの撮影)



焼失前に撮影された天守の内部写真の一例(福山城博物館蔵)

なぜ興味があるかと申せば、福山城天守とは、元和年間に完成した層塔型の天守でありながら、付櫓が南東側から「雁行して」天守に連なる点など、例えば豊臣大坂城とか、大和郡山城とか、どこか 豊臣の天守 のデザインを濃厚に受け継いだ印象がありまして、その点にはずっと注目して来たからです。

7年前の記事より)


ご覧の大坂城など豊臣の望楼型天守は、大入母屋屋根の建物の上に望楼をのせたものであって、一方の福山城天守は代表的な(頭でっかちの)層塔型天守なのですから、その内部の構造は興味の的なのです。

――― で、伝承としては、各階の支柱は二階分ずつの「通し柱」が通されていて、さらに二本の「心柱」が最上階まで貫いていた、と云います。

そんな構造について、例えば三浦正幸先生の監修本(『天守のすべて』等)は宇根利典さん(→ 広島大学工学部ご出身の宇根鉄工所社長で宜しいのでしょうか?)による復元の断面図等があり、それに三浦先生が「身舎(もや)の大きさをまったく逓減(ていげん)させない例は福山城天守だけ」といった解説をされていて、層塔型の五重天守としては、かなり特殊な造りであったようです。

【ご参考3】
→ サイト「ときめき夢見びと」様の「備後福山城」からの引用

ご覧の断面図が一目瞭然であり、各階の逓減(ていげん)は「入側」の幅の減少だけで行なわれていて、その中の身舎(母屋)は下から上まで全く同じ規模で積み上がり、最上階は身舎のまま(=「入側」無し)となっております。

このように天守一階の身舎がそのまま最上階に至っていた、という構造は、五重天守でなければ、層塔型でも全国にいくつか類例があったようで、例えば下記の安永再建の岡城「御三階」も同様でした。

(藤岡通夫『城と城下町』昭和63年刊からの引用)

ただ、ご覧の御三階には中央の心柱はありませんで、したがって天守台上の礎石はどうか?と申せば、最上階の三間四方のまま(身舎としては北側の一部が欠けた形で)支柱の礎石がすえられ、そのまわりに側柱の礎石が並ぶ形でした。

――― と、ここまで申し上げて来て、ふと、福山城天守や岡城御三階のような構造の天守は、いつ頃からあったのか? と考えれば、思わず私なんぞは、あの天守台跡の 礎石の配置が、頭の中をグルグルと駆け巡りまして、現在は天守北面の鉄板張りの復元が話題の福山城天守が、まるで別の存在(→ やはり豊臣のデザインの継承者?)のように見えてしまうのです。…

 
 
 
< 肥前名護屋城天守の最上階は、実は
 「京間の2間四方」だったのかも!?>

 
 

2008冬季リポートより
発掘調査で判明した 肥前名護屋城天守台の 礎石配置

さて、何度もご覧いただいた図ですが、これがここに来て、大きく別の意味を持ち始めたようであり、私はこれまでずっと「関白太政大臣」豊臣秀吉ならではの「丈間(十尺間)」の天守として注目して来たものの、いま非常に気になってならないのは、中央部分の 13尺四方で並んだ四つの礎石 なのです。!
 



しかし当サイトの肥前名護屋城天守イラストは、
最上階も「丈間(十尺間)」の2間四方であろう、と想定して描いた……



ちなみに諸先生方の復元も、ほぼ同規模になる、京間の3間四方などである
(※ご覧の立面図は西和夫先生の復元例)

――― もう、私の申し上げたい事柄にお気づきのことと思いますが、ご覧の「四つの礎石」は 完全に無視される 形で、過去の復元はすべて行われて来たと申し上げて良いのでしょうし、それで本当に良かったのか?… ひょっとして、肥前名護屋城天守と福山城天守は <内部構造が似ていた> という可能性は無いのか?? という疑問が、ガンガンと私の気持ちに訴えかけて来て、どうしようもないのです。…

で、もしも <内部構造が似ていた> のなら、つまり「四つの礎石」から建ち上がった四箇所の支柱は、そのまま最上階に至っていて、最上階の本当の広さは「13尺四方」= 京間(6尺5寸間)の2間四方 だった、ということになるのでしょう。

(これまでご覧いただいたイラスト / 2011年度リポートより)

いまなお秀吉の天守の最上階は「2間四方」と確信している私ですが、それは必ずしも「丈間」の2間四方ではなかったのかもしれない… という反省を、肥前名護屋城の天守台跡は、ずっと(私に)求めていたのに、それに気づかなかった!―――
いまはそんな思いにとらわれていまして、この際、イラストの修正をシミュレーションして、皆様にご覧いただこうかと思うのです。

下図は 従来イラストのスケルトン画の一種としてご覧下さい。
 

!!… 実に、床面積で半分以下、という新たな望楼(最上階)を想定することになり、それは四つの礎石から建ち上がった「支柱」=通し柱の連続に支えられ、四重目までの建物に対して、やや南側(イラストでは左側)に寄って建っていたことになりそうです。
(※もしくは四重目までの建物自体が、位置を調整しながら積み上がっていたのかもしれませんが…)

※           ※           ※

さてさて、こうしてみて、いちばん重要なポイントは、こんな手法(=下層階と望楼部分とで「一間」の長さが異なる)というのは、他でも見た気がする… という点でしょう。
それはまず、駿府城天守 であり―――

(『当代記』 此殿守模様之事より)

元段  十間 十二間 但し七尺間 四方落椽あり
二之段 同十間 十二間 同間 四方有 欄干
三之段 腰屋根瓦 同十間 十二間 同間
四之段 八間十間 同間 腰屋根 破風 鬼板 何も白鑞
      懸魚銀 ひれ同 さかわ同銀 釘隠同
五之段 六間八間  腰屋根 唐破風 鬼板何も白鑞
      懸魚 鰭 さか輪釘隠何も銀
六之段 五間六間  屋根 破風 鬼板白鑞
      懸魚 ひれ さか輪釘隠銀
物見之段 天井組入 屋根銅を以葺之 軒瓦滅金
       破風銅 懸魚銀 ひれ銀 筋黄金 破風之さか輪銀 釘隠銀
       鴟吻黄金 熨斗板 逆輪同黄金 鬼板拾黄金

 
そして徳川再築の大坂城天守も、最上階の「一間」=柱間は小さかった
(願生寺蔵の指図より)

このように駿府城天守は「七尺間」とことわりがあるのは「四之段」までで、その上は記載がなく、おそらくは「京間」などに変わっていたのでしょう。 また寛永度の大坂城天守も、四重目までは「七尺間」であったのに最上階だけが異なり、桁行の柱間は「六尺壱寸弐分半」、梁行は「五尺八寸弐分」であったと指図に書かれております。

こんな状況は、かつて宮上茂隆先生が言及された「移築」によるイレギュラーな状態と言うよりも、むしろこれらの方が、天守本来の <<原初的な手法>> であったのかもしれませんし、それは取りも直さず「殿主(主殿)と天守(天空を守る望楼)が上下に合体して…」云々の 天守発祥に さかのぼる話ではなかったのか、と。

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