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どうも気がかりで急拠UP <佐賀城天守も天守台上に「空地」がめぐっていたのでは…>という心に消えない疑問



<佐賀城天守も天守台上に「空地」がめぐっていたのでは…>という心に消えない疑問

(一昨年の佐賀新聞より)
天守台跡の礎石配置から三浦正幸教授らが作成した1階部分の復元図

当ブログでは何回か前の記事から、階段の付け方、表と奥・ハレとケの使い分け、といった観点から、名古屋城や岐阜城を例にあげつつ、天守の原形「立体的御殿」の内部の構造について、何か見えて来るのではないかとアレコレ申し上げて来ました。

そうした中では、一昨年、天守台の発掘調査に基づく三浦正幸先生の興味深い復元案が示された「佐賀城天守」は、一階に書院造りの部屋が並んでいたという驚きの内容もあって、何か関連で申し上げられるのではないかと感じていました。

で、そんな風に思っていたところ、しだいに三浦先生の復元案そのものについて「…ちょっと待てよ」と、ある疑問が頭に浮かび、予定では今回の記事も岐阜城の話の続きのつもりでいたのですが、どうにも佐賀城天守への疑問の方が気になって仕方なく、急拠、こちらの方に(今回だけ)話題を変えてみたいと思うのです。
 
 
復元案の発表は一昨年ですから、概略はご記憶のことと思いますが、まずは当時の報道内容をもう一度なぞって、思い出していただくことにしましょう。

佐賀城天守は書院造り 礎石から構造推測 (佐賀新聞 2013年01月07日更新)

 佐賀城天守台跡(佐賀市城内)を調査した城郭研究の第一人者で広島大学大学院の三浦正幸教授(文化財学)は、天守1階部分が「武者走(むしゃばし)り」と呼ばれる廊下が部屋を二重に囲み、内側には広い縁側が付いていた可能性があるとの研究をまとめた。三浦教授は内部構造について「豪華な書院造りだった」とみており、来年以降に著書『天守閣(仮称)』で発表する予定。
 佐賀市教委が実施している現地調査で、柱を支えたとみられる礎石が多数見つかっており、三浦教授は、複雑な礎石の配置から、部屋の間取りを割り出したという。
 それによると、武者走りは幅1.5間(約2.7メートル)で、籠城の際に兵が動きやすいように二重になっており、さらに外周側と内周側との境には、上層の階を強固に支えた柱があったと推測。また、部屋の両側には幅1間(約1.8メートル)の広縁があり、2.5間幅の部屋など「半間」という寸法が多用されているとみて、「部屋に床の間や違い棚を設けた書院造り」と結論付けた。
 三浦教授は「書院造りは安土城や大阪城でみられる。佐賀藩主が大阪城を訪れた際、城作りの参考にしたのではないか」と話している。
 佐賀市教委は来年度にも天守台跡の保存・活用策を検討する委員会を開く予定で、三浦教授の見解も参考に「埋土保存や部分展示など、どんな方策が最適かを見極めたい」と話す。

 
 
というものでして、その後、佐賀市教育委員会から現地説明会用の資料がPDFで出ていて、冒頭の図と同じことですが、その一図をご覧いただきますと…


(※資料「佐賀城天守台発掘調査」から引用)

ご覧のような驚きの間取りが示された中で、私の疑問がふくらんで来たのは「二重の武者走り」でして、これは天守が天守台石垣いっぱいに建っていたのなら、その範囲に天守一階の間取りの折り合いをつける必要があるため、そういう結論になったのかもしれません。

つまり <佐賀城天守は天守台いっぱいに建っていたはず> という事柄は、これまでどなたも疑問を差し挟んだことは無かったようですし、この度の発掘調査においても、例えば天守台上に、それらしき雨落ち石は発見されなかったとか、何か理由が挙げられるのかもしれませんが、それにしても、本当にそうなのか… という部分が私の「疑問」の出発点なのです。

そこで私の「疑問」を順序だてて申し上げますと…
 
 
疑問の論点【1】

一昨年の復元案では、礎石列の解釈方法から、天守の一階に「二重の武者走り」があったとしていますが、二重の武者走りとは一体、どういう使い方になるのか、(上記の報道文では「籠城の際に兵が動きやすいように二重に」とありますが)よくよく考えますと、どうも私なんぞには戦闘時の具体的な様子が頭に浮かんで来ません。

その逆に、実際の戦闘では、かえって混乱の元になるのではないかという心配もありそうですし、むしろそれは、三浦先生がよく指摘される「江戸軍学の机上の空論」から生まれた設計であった… というのであれば、解らないでもない、といった印象なのです。
 
 
疑問の論点【2】

そこで礎石列の解釈方法について、復元案とは違う考え方として、今回発見された礎石の範囲内だけに天守の建物は建っていて、天守台石垣のきわまでいっぱいには建っていなかった、という風に、解釈の方向性を変えてみますと、「二重の武者走り」というような復元を無理に行う必要は無くなります。

疑問の論点【3】

そしてご覧のようなスタイルは、まさに天守台近くの有名な「鯱の門」や、他の城では会津若松城の天守など、石垣上の建物の周囲に「空地」(犬走り)がぐるりとめぐっていた様式として、全国的にいくつも類例がありますし、とりわけこうした解釈方法であれば、以前から懸案の「佐賀城天守は五重か?四重か?」という大問題の決着にも糸口が見えて来るのかもしれません。

左:佐嘉小城内絵図         右:寛永御城并小路町図
 

(論点3のつづき)
すなわち、前出の会津若松城天守のケースでは、その空地の外側・石垣のきわには「土塀」(狭間塀)がぐるりとめぐっていて、これが外観上、天守のひとつの階のようにも見えたことは、城郭ファンなら誰もが知る事柄だからです。

ちなみに上記の左右二つの絵図のうち、特に左側の絵図を見ますと、見た目の初重と二重目にだけ「窓」の類いが描かれていて、この初重が実は土塀だったとしますと、そうとうに特徴的な(例えば金沢城の石落し付きの土塀のような)防御性を高めたものだったのか、その正反対に(一階の書院造りに呼応するような)優雅な透き塀がめぐっていたのか、新たな興味もわいて来ます。

しかも絵図のとおりなら、見た目の二重目は、そんな土塀の上から堅格子の武者窓をのぞかせて周囲を威嚇していたようですから、土塀の高さとの兼ね合いで、天守の初重は内部が二階建てになっていて、その二階が「見た目の二重目」だったのかもしれません。
 
 
結局、話題の佐賀城天守は、図らずも会津若松城天守に似た手法(構造)を選択しつつ、初重の内部は「一重の武者走り」に囲まれた書院造りと広縁であったように感じるのですが、いかがでしょうか。
 

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