弾道シミュレーションから見た 小堀遠州の破風配置

 
 
弾道シミュレーションから見た 小堀遠州の破風配置

前回ブログより / どちらが城主自身にとって有り難かったか?

前回、出窓(張出し)は層塔型天守にとって死活的な措置であったはず、との推測を申し上げましたが、仮にそうであった場合、話題の津軽家伝来「江戸御殿守絵図 百分一ノ割」に描かれた江戸城天守は、どの程度の “防御効果” を期待できたのでしょうか?

と申しますのは、津軽家古図の天守は「出窓」と言っても、会津若松城天守のごとくに、軒先ギリギリまで張出したタイプではないため、どこまで天守直下に弾幕を張りめぐらすことが出来たのか、やや心配になるからです。
そこで試しに、古図に弾道を書き加えますと…

という風に 具体的に書き加えてみますと、やはり出窓があった方が、天守のより近くまで弾幕を張ることが出来たのだと分かりますし、初重の壁面に並んだ銃眼などと合わせて、かなりの防御効果を上げることが出来たようです。

初重の西面に描かれた銃眼、及び石狭間とその真上の「窓」

しかしこれほどであっても、やはり会津若松城のタイプの方が、天守直下をねらうという目的では、ずっと有利であったことは動かしがたく…

効果てきめん! ! 会津若松城天守の、軒先ギリギリの張出し(出窓 兼 石落し)

(※藤岡通夫先生の立面図を使って作成)

こんなにも違うか、と思うほど、みごとに天守台石垣のすそまでカバーできたわけでして、『会津若松史』第二巻(1965年刊)で会津若松城を論述した藤岡通夫先生は、こうした張出しについて「幕府に提出した明細書」には「懸出し四ヶ所二間に三間づつ。但上より四重目南北、五重目東西、外一ヶ所」と記されたことを紹介していて、会津藩はこれを「懸出し」!と呼んだそうなのです。

(※追記 / 重数の記述について申せば、上から数えた点は古風ですし、四重目・五重目という数字を考えると、この天守は高欄の下あたりに「屋根裏階」が存在し、また東西南北が90度ずれた形だったのかもしれません。もしくは、それが蒲生氏郷が創建した「七重天守」の状態だとすれば、四重目・五重目という数字は 当ブログの復元案 の方向性が正しかった!ことを示しています…)

「懸」という字は「懸(か)け造り」にも使われた「懸け」の字ですから、まことに言いえて妙な呼び方だと感じるのですが、京都の清水寺の舞台よろしく、軒先の突端まで張り出した「懸出し」……というイメージをふくらませますと、いきおい、冒頭の津軽家古図からの連想として、そんな会津若松城天守の「床を張った位置」はどこだったのだろうか? という疑問が強くわいて来ます。

天守東面の戊辰戦争後の古写真

そこで諸書を確認しますと、この天守は戊辰戦争で大破したあと、そのまま明治7年に取り壊されてしまったため、指図や測量図の類いが一切、残っていないようで、確認不能の状態であり、もはや藤岡先生が作図した立面図の上で「床の位置」をさぐるくらいしか、手は無いのだと分かります。そこで…

かくして「懸出し」のある会津若松城天守は、ひょっとすると津軽家古図と同じく、“低い位置” で床が張られていたのではなかったでしょうか?

真相はよく分からないものの、この天守も「各階の床を、下の階の軒桁の高さに張った旧式な構造」という三浦正幸先生の指摘が当てはまる可能性が、無きにしもあらず、のようであり、私なんぞは、こうした傾向が、実は層塔型天守にある程度、広まっていたのではないか と感じております。何故なら―――
 
 
 
<弾道シミュレーションから見た 小堀遠州の破風配置>
 
 

例えば名古屋城天守の破風が、より外側に設けられたのは、何故だったのか

私の勝手な想像をかき立てるのが、木造再建の話題がさらに続く「名古屋城天守」です。

――― この天守の破風はどれも、他の天守に比べて、いちじるしく外側に張り出すようなデザイン(→軒先まであとわずか)になっていて、望楼型(塔屋型)天守の大入母屋屋根の破風部分が、逆に内側に引っ込む場合が多かったのと比べれば、まことに対照的なデザインだと申せましょう。

その結果、この天守の破風板と妻壁は(会津若松城の「懸出し」にせまるほどの)外側の位置に一体化して設けられていて、これは果たして何のためか? と問えば、城内で天守以外にここまで外側に設けた破風は一つも無いようですし、いずれの解説書もそんな「目的」に関する指摘はありませんから、単なる美観のための造形としか とらえられて来ておりません。しかし、しかし…

【邪推の、邪推(じゃすい)】


実際の名古屋城天守は、こうはなっていなかったものの……

!――― 思い切った仮定の話で恐縮ですが、ご覧の「仮定の床面」を空想しますと、ちょうど会津若松城の「懸出し」のごとくに、名古屋城天守の「破風」そのものが「隠し石落し」のように機能した可能性が、頭に浮かんで来てならないのです。…

これはあくまでも、現実の名古屋城天守はそうではなくて、図の「実際の床面」のとおりであったわけですから、何かの「名残り」だとしか申し上げられない話ではありますが、こんな名古屋城のデザインこそ、一部の層塔型天守は “低い位置” に床が張られていたのでは?? と私なんぞが邪推してしまう要因の一つなのです。
 

幕藩体制下の新たな “美” を創造した小堀遠州(頼久寺蔵の肖像画)

そして名古屋城天守の破風の配置をデザインしたのは、おそらくは小堀遠州だったのでしょうから、年度リポートに引用した内藤昌先生の…

(駿府城再建天守は)家康の隠居城にふさわしく、実に華麗なデザインがなされ、材質も金・銀をふんだんに使った贅沢な意匠であったことが偲ばれる。そしてそのデザインは、駿府城の天守奉行小堀作助(のちの遠州)であり、御大工頭が中井正清であったことからも、名古屋城の様式に受け継がれたものと考えられる」
(『城の日本史』)

という内藤先生ならではのロジックを信奉してきた私としては、徳川将軍の巨大層塔型天守に対して、徳川特有のおびただしい「破風」配置を施してみせた遠州の「真意」とは、時代が求めた美観もさることながら、そこに「隠し石落し」を巧みに忍ばせることだったのかもしれない!? という風にも夢想しておりまして、そうして低い位置の床をあわせ持ったエポックメイキングな原点の天守は、「駿府城再建天守」に違いない、と私なりのジグソーパズルを思い描いているところです。…
 

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