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続・熊本城天守は徳川系か! 「四方正面」の最先端に変身していた?



続・熊本城天守は徳川系か! 「四方正面」の最先端に変身していた?

前回に引き続き、熊本城天守の複雑な位置づけ(境遇と変遷)について申し上げたいのですが、今回はガラリと雰囲気を変えて、純然たる “天守の構造面” のお話をさせていただこうと思います。

その本題の前に、前回に写真をお見せした「唐破風」の件にチョットだけ触れておきますと、当サイトはスタート時から、天守の最上重屋根の唐破風は徳川が覇権をにぎる時期にそのトレードマークとして盛んに設けた可能性があり、例えば下写真の三天守はどれも「徳川将軍の娘婿(むすめむこ)」の天守であった可能性を申し上げました。

加納城御三階 / 姫路城天守 / 大坂城の豊臣秀頼再建天守(当サイト仮説)

そして前回写真の三天守も同様であり、加藤清正もまた、結果的に徳川将軍の娘婿(むすめむこ)になっていたことを忘れるわけにいきません。

徳川家康の二条城天守 / 結城秀康(家康次男)の福井城天守 / 熊本城大天守

清正の正室(継室)は清浄院(しょうじょういん)という女性で、この人は家康の叔父・水野忠重の娘であって、豊臣秀吉の死去の翌年に、家康の養女として清正と結婚しました。

そして彼女は関ヶ原合戦の直前に熊本城に入ったと言いますから、ちょうどその頃、大天守が完成しようとしていたわけで、どうにも問題の唐破風とは浅からぬ縁があったように思われてなりません。
 
 
ただしこの唐破風は、熊本城の大手が歴史的に東か西であったと言われる点では、大天守の南北面に据えられていて、大手を向いていない点がやや不審です。

―――この点では、同じく軒唐破風ではなく「据唐破風(すえからはふ)」だった福井城天守(写真中央)も同様の位置関係であり、これには何か理由があったのかもしれません。

―――さらには、今日に伝わる熊本城を描いた屏風絵の多くが、南か、北から描かれていて、したがって熊本城の絵の描写は城の大手とは関係なく、結果的に大天守の唐破風を正面にして描かれ続けたことも、また何か理由がありそうで、気になる点です。
 
 
 
<今回の本題――
 北野隆先生が紹介した “小天守なき城絵図” が物語る、大天守の重大な転機>

 
 

さて、熊本城の大小天守は、天守台の築き方も含めて、大天守と小天守の建造の手法がまったく違うことでも知られています。

そして小天守台の石垣が大天守台に覆い被さる構造が確認されてからは、現状の小天守はあとから付設されたものであり、その後、宮上茂隆先生や北野隆先生の指摘によって、関ヶ原合戦後の慶長年間に「宇土城」の天守を移築したものと考えられるようになりました。

ですが前回も申し上げたとおり、これもまた北野先生が紹介されたように、はるか以前の文禄年間に“小殿守の広間が完成”云々と記した清正の書状があり、これが「古城(ふるしろ)」ではなく熊本城(新城)のことならば、大小天守はそうとうに入り組んだ経緯を経て出来上がったことになります。

そのあたりの出来事を箇条書きにしますと…

文禄3年(1594)  清正書状「小殿守ノひろま出来」次第に2階3階の工事を命ず
            【小天守の完成時期 第1案】
慶長4年(1599)  ※熊本城内で「慶長四年」銘の瓦が出土
            清正書状「おうへ(御上)の小殿守のなおし所」の工事を命ず
慶長5年(1600)  9月、清正らの軍勢、宇土城を攻めて開城させる
            10月、清正書状「天守之作事」を急がせ、畳を敷くよう命ず
慶長6年(1601)  【この年か前年の末に大小天守ともに完成か 第2案】
慶長12年(1607) 清正書状「天守之井出」(小天守の井戸か)の出来具合を問う
            【小天守の完成時期 第3案】
慶長13年(1608) ※宇土城跡で「慶長十三年」銘の瓦が出土/清正隠居所に改修か
慶長16年(1611) 清正、熊本で死去
慶長17年(1612) 幕府が宇土城など三支城の破却を命ずる
慶長18年(1613) 宇土城の破却が始まる(この時、天守を熊本城に移築か)
            【小天守の完成時期 第4案】

 
 
考えられる小天守の完成時期を【第1案~第4案】で示してみましたが、結局、どこまでを「古城」の話と考えるかで結論は違って来ますし、また慶長4年に熊本城(新城)のすべての築城が始まったとする「慶長4年説」に立つ場合も、これまた様相が違って見えるでしょう。

ですが、仮に【第1案】の小天守が「古城」のものとするなら、それはそれで、古城にもすでに「大天守」が(少なくとも4階か5階の規模で)存在していた可能性が生じてしまい、古城の意外な完成度や、その大天守はどこへ行ったのか? ひょっとして… という、またやっかいな話にも発展しかねません。

この複雑怪奇なパズルを解く “道しるべ” の一つとして、ある城絵図が、北野先生によって紹介されています。

谷川健一編『加藤清正 築城と治水』2006年

※左ページの城絵図は「肥後熊本城略図」(山口県文書館蔵)とそのトレース画

(北野隆「加藤時代の熊本城について」/上記書所収より)

萩藩では慶長一六年(一六一一)一二月二六日の毛利秀就(ひでなり)の初入国と藩内巡視にあたり、九州諸藩の動向を探る内偵が行われた。
内偵が行われたのは、肥後藩を中心にして北であり、
(中略)
小倉藩、佐賀藩、熊本城では縄張図、各建物の姿図が描かれており、「肥後熊本城略図」は肥後藩の本城である熊本城の縄張図と各建物の姿図を描いたものである。
 
 
ということで、まさに清正が死去した慶長16年当時の熊本城について、驚くべき状況が萩藩の内偵で報告されていた、というのです。

トレース画の中心部分(上記書の掲載画より/当図は上が東)

なんと、ご覧のように本丸には大天守しか描かれておらず、当時は、小天守があるはずの大天守左側(北側)は通路(帯曲輪?)が通っていたようなのです。

しかも逆の本丸右側(南側)はかなり曲輪の配置や形が現状と異なり、ちょうど東竹ノ丸のあたりを突き抜けるようにして、通路が屈曲しながら本丸の東部分に達していた、と示されているのです。

この城絵図の解釈について、北野先生は同書のなかでこう結論づけておられます。

(北野隆「加藤時代の熊本城について」/上記書所収)

本丸には独立式天守(現在の大天守)がそびえ、本丸へは東竹ノ丸の南から東に廻って入れるようになっていた。本丸は東向きであった。
独立式天守の北側は、不開門(あかずのもん)から西へ伸びる通路になっていた。現在の小天守の位置である。
清正代には小天守はなかったことになる。

 
 
と、同書では、北野先生は清正の時代を通して「小天守はなかった」と結論づけておられ、つまり「築城400年」の築城年(完成年)にも小天守はまだ無く、その年に清正が書状でわざわざ出来具合を問うた「井戸」も古城のもの(…?)ということになりますが、そうした点について同書はそれ以上の特段の言及はありません。

現れては消える “神出鬼没の” 小天守の話はこの辺でいったん止めにして、それよりも今回の記事で是非 申し上げたいのは、一方の「大天守」はその間、どうなっていたのか? という観点なのです。
 
 
―――で、北野先生が紹介された城絵図が真実の報告だとしますと、その時点の大天守を画像化すれば、おそらくこうなるわけです。(!)

これぞ「四方正面」の最先端にして究極形!?――独立式の頃の大天守を推定

(※北西側から見上げた様子/この左側に小天守が付設されたことになる)

どうでしょうか? このようにして見直しますと、この大天守が東西南北の四面にほぼ同大で(しかも上下二段に重ねて)設けた「千鳥破風」の意図が、いっそう明確になって来るのではないでしょうか。

しかも初重の特徴的な「石落し」は、グルッと四面にわたって周囲を威圧していたことになりそうです。

これらの点は明らかに、この天守が「四方正面」の意匠を極めようという意図をもって建てられたこと、またそれは時期的に見て、徳川の天守に特徴的だった「四方正面」を先取りしたか、または追い抜こうとした意気込みを物語っているのではないでしょうか??

結局、小天守がいつ存在したかで話は変わるものの、最大限に見積もれば清正晩年の10年余り、少なく見積もっても数年間は、こうした当時最先端の姿を見せていた可能性があるのです。
 
 
 
<この時期に「天守」の意味が変わったか
 天下布武の版図を示した革命記念碑から、各領国の中心を成すモニュメントへ。>

 
 
 
当サイトは一貫して、同じ天守建築であっても、織豊期と徳川期の天守は質的に(建造の目的が)まるで別物ではないかと申し上げて来ました。

そのことは3年ほど前の記事(天守の「四方正面」が完成するとき)でも詳しく触れたとおりであり、織豊期と徳川期の天守を見分ける外観上の目安の一つが「四方正面」であったように思われます。
 
 
どういうことかと申しますと、織豊期の天守には明確に「正面」が存在していて、それに対して天守の「四方正面」とは、徳川幕藩体制に移行すると共に、天守が各藩の分権統治の象徴として “城下町の中心に” 屹立するようになって、初めて意識的に導入された手法ではなかったか、という考え方に基づくものです。

その点では、ご覧の清正の独立式天守は、まさに時代の最先端を突っ走っていたわけで、そうした措置の背景には、もちろん清正の情勢判断や政治的志向が働いたはずでしょう。

秀吉の死後、清正が家康に急接近したのは、よく言われる豊臣内部の吏僚派との確執もあったでしょうが、そもそも清正の農本主義的な統治手法から言えば、政治的路線としては秀吉よりも、むしろ家康の方にシンパシーを感じていたのではなかったでしょうか。…
 
 
そして冒頭の「唐破風」の件でも、清正の対応はすばやく、関ヶ原合戦の前にそれを行っていたことになります。

―――この点では、いずれ年度リポートでも取り上げたい重要なテーマとして「徳川はなぜ唐破風を重視したか」という問題があるのですが、そうした意匠の深意(新政権の哲学)についても、するどく清正は見抜いていたようで、それならば「四方正面」を先取りすることも十分に可能であったように思われるのです。

そんな究極の「四方正面」を実現したにも関わらず、清正の死後、わざわざ小天守を付設(再付設)して、せっかくの形を崩してしまったのは、二代目の加藤忠広とその重臣らだったということになりそうです。
 
 
で、私なんぞには、おそらく清正は、実際はどこかの時点で最初の小天守をあえて壊し、その上で急遽、大天守を新時代(分権統治の世)にふさわしく、破風の改装などを進めたのではないか… と想像されてなりません。

ですから、そうした清正の意図的な独立式天守(とその後の増築建物)を、なおも “豊臣の天守” と解釈することには、どうにも強い抵抗を感じざるをえないわけなのです。

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