工程の推理(3)-銃撃で敵をなぎ倒す詰ノ丸北西虎口の巧みさ-
宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』1984年/表紙と裏表紙
裏表紙の中ノ段帯曲輪(本丸西側)…詰ノ丸奥御殿より一段低く復元してある
前回も引用させて戴いた宮上先生の本ですが、ご覧のように表紙から裏表紙にわたって、豊臣大坂城の本丸を北から眺めた様子が描かれています。(イラストレーション:穂積和夫)
で、今回の話題は、ちょうど裏表紙の真ん中に描かれた、本丸西側の「中ノ段帯曲輪」(なかのだん おびぐるわ)についてです。
この部分、上記イラストは中井家蔵『本丸図』をごく素直に読んで、詰ノ丸奥御殿よりも一段低い高さで描いてありますが、実は、会津若松城との比較や、別の絵図(『大坂築城地口坪割図』)を踏まえますと、必ずしもこうではなかったのかもしれない、と思われるからです。
【仮説】本丸西側の中ノ段帯曲輪は、実際には詰ノ丸とあまり変わらない高さであり、そのため詰ノ丸の北西虎口は、城郭史上に特筆すべき堅固な「外枡形」(そとますがた)形式の虎口であったのかもしれない
詰ノ丸北西虎口(赤い部分)→ 敵勢に十字砲火を浴びせる “恐怖の外枡形” か
冒頭のイラストレーションとは異なり、このように中ノ段帯曲輪をより高く想定しますと、石段のすべてを囲い込む形が生まれ、これは例えば、安土城の伝黒金門(でん くろがねもん)の周辺にも似た「外枡形」形式の虎口になります。
これには『本丸図』の描線の情報をやや修正して「読む」必要がありますが、そうすることで、(類似性を申し上げている)会津若松城の天守から鉄門(くろがねもん)にかけての構造に似た形にもなり、その上、銃撃のための巧みな工夫が浮き彫りになるのです。
雁行(がんこう)させた鉄砲狭間は、撃ち手の利便性のためか
この石段を登りきった先の石塁が「雁行」状になっていることは、これまで全く注目されて来なかった点です。
しかし、こうして考えてみますと、雁行状の石塁とその鉄砲狭間は、銃身の長い「狭間鉄砲」(さまでっぽう)の撃ち手らに対して、限られた範囲でより広い稼動スペースを与えるための工夫だったのかもしれません。
しかも…
太線の弾道… 銃撃からの逃げ場を無くす、容赦ない石積み!
このように『本丸図』の描線のままでは意図が分からなかった、細かな石積みの狙い… 敵勢を容赦なく銃撃でなぎ倒すための仕掛けが、ここに隠れていた可能性も浮上してくるのです。
さて、問題の中ノ段帯曲輪が、通説よりずっと高い位置にあったと感じさせるもう一つの理由は、下の絵図の不思議な描写です。
毛利家文庫『大坂築城地口坪割図』(南を上にした状態)
これは豊臣氏の滅亡後に、徳川幕府が大坂城の大改修(二ノ丸石垣の再築工事)を諸大名に分担させた時の絵図ですが、中央の本丸については、まだ豊臣時代のままである可能性が指摘されて来た史料です。
そこで試しに、この図上で、詰ノ丸の範囲を色づけしてみますと…
同図の詰ノ丸の範囲(ブルー)
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ご覧のとおり、豊臣氏の滅亡直後の絵図では、詰ノ丸の範囲が広がっていることがお判りになるでしょう。
しかもブルーの領域はちょうど、問題の中ノ段帯曲輪と詰ノ丸を合わせて、一つの曲輪に造成したような形で広がっています。
ですが、もともと中ノ段帯曲輪と詰ノ丸が、冒頭の裏表紙イラストほどの段差があったとしたら、そんな土盛りを行ったうえに、石垣面をぴったり延長して嵩上げ(かさあげ)することなど、簡単に出来るものでしょうか?
それも豊臣秀頼らの主従が城内で生活を続けていた中で…
それよりは、もともと、一つの曲輪に造成しやすい高さがあって、秀頼時代に、その間にあった長い石塁をたんに撤去しただけ、と考えた方がずっと合理的ではないでしょうか。
中ノ段帯曲輪(本丸西側)と詰ノ丸の一体化を示した『大坂築城地口坪割図』
結論として、やはり中ノ段帯曲輪の高さは、必ずしも通説どおりではなかったのではないか…
そして実際の豊臣大坂城は、(秀頼時代の化粧直しの青写真である)『本丸図』のとおりに、すべてがそのまま施工されたとは限らないのでは…
二つの絵図を突き合わせると、そんな疑いも、無くは無いのです。