ベルクフリートはやはり天守ではなく「大櫓」か「千貫櫓」に相当か

ベルクフリートはやはり天守ではなく「大櫓」か「千貫櫓」に相当か

今回のお話は前回の補足になりそうですが、まずは前回のラストで、我が国の城の【機能の復活】などと、やや物騒なことを申しまして、その意図がちゃんとお伝えできたのか心配になって来ました。

そこで初めに、レプリカか否かという話題で申し添えますと、ちょっと強引な例えで恐縮ですが、ご覧の零戦の実物大模型を例にとれば、私が申し上げたかった「境界線」を説明できるのかもしれません。

零戦の実物大模型(三沢航空科学館)

と申しますのは、ご覧の零戦はそもそも映画の撮影用に造られたものだそうですが、もし仮に、部品の一点一点まで、可能なかぎり正確に復元したものを、一生懸命に組み立ててみたとしても、それが飛行不能で「機関砲」も無ければ、どこまで精密にやっても複製品(実物大模型)と言われ続けることでしょう。

しかし、もし仮にその機体が飛行可能で、しかも実弾の込められる「機関砲」を搭載したとなれば、いかに旧式であっても、本物の零戦とは言えなくても、それは「まごうことなき現役の戦闘機である」という点では、ちゃんと世界中の人々が認めるはずであり、そこがレプリカか否かの(新たな/ある種の)境界線になるはずだろうと申し上げたかったのです。

では、そんなものをわざわざ造る必要があるのか?という疑問もございましょうが、「城」の場合でお話をし直しますと、「城」はやはり仏像や神社仏閣とは違って「軍事機能」を前提にした歴史的遺産ですが、現在のような「文化財」一本槍のとらえ方においては、その軍事機能は当然ながら、完ぺきに排除されておりまして、そういう意味での正確な復元(再建)は永遠にできない運命にあります。

その点でドイツの19世紀ロマン主義の再建城は、中世の状態どおりの学術的な正確さはなくても、また実際の防御力は中世にはるかにおよばなくても、まごうことなき「本物の城」になりえただけ、ラッキーだったな、と私なんぞには感じられてなりません。

これはおそらく、どうやっても「文化財」と「軍事機能」が並存できない戦後日本の社会のあり方にもよるのでしょうが、言葉を変えれば、GHQの占領政策の延長線上に「日本の城」は今なお、からめとられたままじゃないのか? その最たる典型(お手本)が「コンクリート天守」なのか…… という風に申し上げてみたかったわけです。

ですから、我が国もはやく「軍事文化財」とでも言うべき存在を、ちゃんと公正に扱えるようになればいいのに(=我々の社会の基盤を直視すること)という風にも思うのです。

【ご参考】フランス国立軍事博物館 Musée de l’Armée のスナップ写真より

さて、前回に紹介した古城ホテルのラインフェルス城も、かつては
巨大な主塔(ベルクフリート)が城の中央に! ! その高さ54m

そして次はご覧の「ベルクフリート Bergfried」に着目してみたいのですが、これは皆様ご承知のとおり、ドイツ語圏など中央ヨーロッパの城において数多く普及したキープ(城塔)の一種であり、ご覧の円筒形や四角柱、三角柱の形など、いくつかのバリエーションがありました。

ちなみにベルクフリートという名前の語源は Berg(=山)fried(=平和)という風に、どうもはっきりしないようでして、そのせいか日本では「主塔」と訳される一方で、無造作に「天守」と訳してしまうことも多い存在です。

しかし、しかし、<ドンジョンと天守は全くの別物> と当ブログで何度も申し上げて来たのと同様に、これも天守とは明らかな “別物” でありまして、その証拠には、ダブルタワーキャッスルとして知られるいくつかの城では、円筒形のベルクフリートが二本… まるで以前にご紹介した「チェコのトロスキー城」のごとくに築かれた例が、ドイツを中心に各地に点在しているからです。

ミュンツェンベルク城 Burg Münzenberg

ザーレック城 Burg Saaleck

トゥラント城 Burg Thurant

そしてやや変り種の、グライフェンシュタイン城 Burg Greifenstein

このように、二つのベルクフリートが並んで建っていたのですから、これらは望楼や観測塔 Wartturm の役目が第一であり、また接近した敵兵に最上部からボーガンなどを射かける役目もありましょうが、これらベルクフリートの内部は大半が(入口と最上部をつなぐ)らせん階段で占められていて、窓もわずかしか無いため、この中を城主らが詰める戦闘指揮所にするのは大変な無理があります。

ベルクフリートの断面図(ドイツ語版ウィキペディアより)

(※城郭研究者の故オットー・パイパー Otto Piper の作図)

したがって <石造りの堅牢な物見台 兼 ボーガン櫓> というのがベルクフリートの実態でありまして、これを我が国の天守と比べますと、例えば織田信長の安土城で、書院造りの御殿を縦に重ねた「立体的御殿」として天主(天守)が建造されたことを踏まえれば、両者は100% 別物である、と言わざるをえないでしょう。

(※ただ一部の学説によりますと、ドイツの考古学者 ヨアキム・ツーネ Joachim Zeune は、日本の天守を参照したのかどうか知りませんが、ベルクフリートもまた城兵の最後の避難所であろうと〔…城兵らは切腹はしなかったものの〕主張しているらしく、これはちょっと驚きですが、でも、そうしたツーネの学説はドイツでも主流の考え方ではないようです)

そこであえて申し上げたいのは、以上のごときベルクフリートを、日本の城に引き当てた場合、何にいちばん似ているのか? とあえて問いますと、その答えはきっと、鎌刃城の「大櫓」や石山本願寺城の「千貫櫓」ではないかと感じるのですが、どうでしょうか。

米原市教育委員会編『戦国の山城・近江鎌刃城』2006年の表紙とイラスト

現存の大阪城の千貫櫓(左側/元和6年築造)

上記の本は、7年前の当ブログ記事(鎌刃城「大櫓」は本当に天守の発祥なのか)で話題にしたものですが、イラストの「大櫓」は、山頂の本丸からのびる尾根の先端(大規模な堀切の手前)に築かれた巨大な櫓であり、一方、下写真の千貫櫓はご承知のとおり、その名の由来になったのが、石山本願寺攻めの織田軍をさんざんに苦しめた強力な櫓(千貫櫓)でした。

両者ともに、本丸からかなりの距離の櫓ではありましたが、敵の真正面に立ちはだかって、城の防衛や監視を一手に引き受けたかのような姿は、ベルクフリートそのまま!… と思えてならないのですが。
 

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