四段重ねの十字形八角平面とは… 福岡城天守の独自復元イラスト

四段重ねの十字形八角平面とは… 福岡城天守の独自復元イラスト

正月以降、欧州の城との比較をあれこれと続けたなかで、前回のベルクフリートやドンジョンは「天守とは100%別物である」と重ねて申しましたが、城に攻め寄せる敵勢に対し、これを迎え撃つ射撃の「死角」を少しでも無くしたいという願望は、洋の東西を問わぬ関心事と見えて、ご覧のアイルランドのトリム城 Trim castle には、写真のごとき形のドンジョンがあるそうです。

ドンジョンの内部構造の推定(現状は一部が欠損/英語版ウィキペディアより)

これを見て私なんぞは思わず、当サイトで安土城天主などで申し上げて来た「十字形八角平面」を連想してしまい、かすかに感じて来た “ある疑問” が頭の中によみがえって来ました。

ちなみに、1196年から1201年にかけて建設されたという、この三階建てのドンジョンが「十字形」の平面形であり、厳密には12個の出隅(20個の屈曲)を持っていたことは、アイルランドでもユニークな現象だと言われているそうです。

で、この形は、まずは射撃の死角を無くすための工夫だったのでしょうが、どうも私なんぞは、これは本当に、防御的観点だけで採用された形だろうか?… という疑問をいだかざるをえません。

と申しますのは、ずっと以前から、正直に申しまして当サイトの安土城天主の年度リポートを作った2010年よりも前から、下記の本が、東欧のアルメニア共和国にのこる数多くの古い教会堂は、のきなみ「十字形」の平面形だ、と伝えたことが気になって来たからです。

篠野志郎『アルメニア共和国の建築と風土』2007年発行

この本にモノクロ写真が載っている教会堂(跡)を、改めてネット上で探せば…

オシャカンの聖シオン教会 St.Sion,Oshakan

マスタラの聖ヨハネ教会 St.Hovhannes(St.John),Mastara

タリンのカトギケ教会 Katoghike,Talin

オズウォンの聖母マリア教会 S.Astvatzatzin,Odzoun

といった具合に、この地域で7世紀から10世紀ごろに建てられた教会堂は、押しなべて十字形の平面形を含んでおり、これらは改めて申すまでもなく、キリスト教の「十字架」をモチーフにしたのでしょう。

ご覧のものはアルメニアでの事例ですが、東欧には同様の事例が少なくなかったようで、ということは、前出のアイルランドのドンジョンもまた、それを築いた人々の意識のなかに「十字架」が全く無かったとは言えないのではないでしょうか。
 
 
一方、そんな西洋に対して、当サイトで申し上げて来た天守の「十字形八角平面」というのは、例えば安土城の完成を祝って禅僧・南化玄興が織田信長におくった「安土山ノ記」には、明らかに中国建築を意識した文言が使われておりまして、そのため中国建築特有の四方の小部屋(中国建築の用語で「抱廈/ほうか」)を張り出した手法が「十字形八角平面」の源流なのでは? と申し上げて来ました。

(※「安土山ノ記」の中国建築を意識した文言とは、安土城の意匠の出来栄えについて、中国の伝説的な名工=離婁/りろう、公輸子/こうゆし らの腕前になぞらえた箇所など。信長はこの「安土山ノ記」に満足して、玄興に黄金百両・小袖三重を贈ったと伝わる)

つまり、角が八つある十字形の建築は、城壁の角楼や苑内の亭など「眺望」に適した楼閣のデザインとして、中国大陸で独自に生まれて普及したものであり、その「抱廈(ほうか)」が日本の天守にも導入されて、望楼型天守の張り出し構造(→言わば第二の望楼)となって全国に普及したのではないか、と申し上げたわけです。
 

安土城天主の五重目と六重目か 静嘉堂文庫蔵『天守指図』より

……… ですが、こうした安土城天主などの事例の範囲におさまらない、まったく別の意味での「十字形」天守が、もう一つ、我が国にはあったのかもしれない… という気がして来るのは、下記の話題のおりに取り上げた天守なのです。

歌川貞秀「真柴久吉公 播州姫路城郭築之図」(江戸末期)

ご覧の浮世絵は、4年前の当ブログ記事で福岡城天守のお話を申し上げたとき(前篇:幻の福岡城天守と「切妻破風」をめぐる戯れ言をひとつ後編:続・幻の福岡城天守と「切妻破風」…空とぶ絵師は何を描いたのか)に引用したものです。

もはや一般に「福岡城天守」と言えば、佐藤正彦先生の望楼型天守の復元案があちこちでCG化されてすっかりお馴染みですが、それについて城郭史学界で西ヶ谷恭弘先生が「切妻の屋根や破風が一つも無いのは、どうも…」と控えめに発言されたことに対し、私もその席でいたく同感したため、やはり福岡城と言えば「切妻」でしょうから、“歴史上最も切妻を多用した天守が浮世絵にはある” !… ということでご紹介したのが、この絵でした。

例えば最上階の屋根は、平側だけでなく、妻側にも「切妻破風」が。

そしてこの絵、とても浮世絵とは侮(あなど)れぬ驚がくの「背景」をそなえていたことは、上記のブログ記事をご参照いただくとして、この絵の中心たる「天守の造形」についても、空とぶ絵師・歌川貞秀は何らかの “真実” を伝えたのだと仮定しますと、それはなんと「十字形八角平面」を縦に四回も重ねた! ! 構造になってしまいます。

切妻破風の下の出窓(張り出し)によって、冒頭のトリム城と同じ12個の出隅をもつ階が「四段重ね」でそびえ立つ、という慶長後期の層塔型の白亜の天守とは、どういう姿になるのか? 是非ともイラスト化してみたいと思い立ち、描いてみました。

幻の福岡城天守の独自復元イラストをご覧下さい。


――― ! ! 他にまるで類例のない形の天守が出来上がりまして、自分で作っておいて何ですが、私にはどうしても、これは「パライソ(天国)を仰ぐ天守」「パライソへの階段を登るための天守」と見えてなりませんで、これを築いた(はずの)黒田長政や父・黒田官兵衛が有名なキリシタン大名であったことを踏まえれば、妙な、まことに妙な取り合わせになります。

しかも長政本人はキリスト教を棄教し、のちに自らこの天守を取り壊した、とも言われることを加味しますと、歴史のミステリーが “新たな筋立て” のもとで説明できてしまうかのごとき様相も呈して来て、当初、黒田家が九州の北の玄関口、玄界灘に面した福岡・博多の地にこんな天守をあげた秘密の意図とは…… と考えますと、ちょっと鳥肌が立つような空想まで頭をよぎるのです。

――― これこそ、九州一帯の膨大な数のキリスト教信者を前提にした、未完のキリスト教国「日本」の総天守、などと。

(※なお天守の入口については、多聞櫓を通って穴倉に入るのが有力だとは思いますが、切妻破風の巨大な出窓下の石落しを考慮しますと、ご覧の名古屋城天守のごとき「橋台」の可能性もあるかと思い直し、そのように描きました)
 

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