試案/天守の“塔化”進行プロセス …二重天守から巨大層塔型まで

試案/天守の“塔化”進行プロセス …二重天守から巨大層塔型まで

九州一帯の膨大な数の信者を前提にした、未完のキリスト教国「日本」の総天守…
幻の福岡城天守とは?

前回にご覧いただいた福岡城天守の独自復元イラストは、一見して奇妙キテレツと感じられたかもしれませんが、しかしこれは荻野忠行著『福岡城天守と金箔鯱瓦・南三階櫓』の口絵ページに、下記のごとき“正体不明”の絵葉書の写真が載っていたことも、心理的な後押しになったものでした。

このように天守の形態というのは、まだまだ解らない事が多いと思いますし、むしろ近年は「その謎」が大きくなって来たのではないでしょうか?

と申しますのは、最近の当ブログ記事の中でも、一時期は現存最古の望楼型天守と言われた丸岡城天守が、実は当初、高欄廻り縁が無かったと確認された件などでしょう。

――― ご覧の丸岡城天守が、当初は最上階の高欄廻り縁が無く、そこには代わりに二層目の葺き下ろし屋根があり、全体としては三重天守だった、という状態を是非とも想像してみて下さい。

そうしますとこの天守は、初重の屋根が入母屋屋根になってはいるものの、建物の構造じたいは、整然とした矩形の平面の階が、一階から二・三階へと大きなゆがみも無く逓減(ていげん)していて、むしろ層塔型の天守に近いようにも見えて来ます。

さらに先々月の松山城「古本壇」の話題においては、いちばん西側に突き出した建物(=二重天守か)の様子が…

ご覧の小牧山城の復元イラスト(絵:富永商太/監修:千田嘉博)の描写に、驚くほど似ていることに気づかされました。

こうした新たな知見は、どのようにして天守が誕生して発達したのか?という点で、古くから言われて来た【望楼型から層塔型へ】という変遷(へんせん)モデルだけでは、どうにも説明しにくい状態に、我々を置き去りにしているように感じるのです。

そこで私なんぞは、仮に、こんな変遷モデルを頭に描いてみました。

試案/天守の“塔化”進行プロセス

といった風に仮定してみますと、前述の“現存最古”の丸岡城天守は、明らかに「段階3」の新しいタイプの天守だということになりますし、段階的には松山城「古本壇」や飛騨高山城、そして何よりも織田信長の小牧山城がもっとも古い「段階1」にしっかりと位置づけられることになります。

そうして二重天守から層塔型の巨大天守までを総括的にくくることが可能になりますし、是非ご注目いただきたいのは、この変遷モデルでは <天守と天守台との関わり方> が大変に重要なポイントを占めていることでしょう。

こうした見方が出来るようになったのは、何といっても小牧山城本丸の発掘成果(あの特異な三重の石垣)が大きかったと言うべきでしょうが、このプロセスの中で画期的なのは、「段階1」から自ら!!「段階2」の「立体的御殿」=安土城天主を創造した織田信長その人である、ということにならざるをえません。

この信長の創造が無ければ、そもそも我々日本人は「天守」「天守閣」についてこれほどの関心を持つことも無かったわけでしょうし、垂直の階層化という画期的なアイデアそのもの(=「御殿」機能との統合そのもの)が、果たして信長のオリジナルだったのか、それとも松永久秀の多聞山城や明智光秀の坂本城が先にそうだったのかは不確定なものの、多聞山城や坂本城の縄張りから考えれば、やはり信長自身のオリジナルであったと申し上げていいのではないでしょうか。

そしてその後、天守は天守台とともに「塔化」が進行し、現代人がイメージしやすい形の天守に洗練されたのだと仮定しておりますが、そんな変化は、おそらくは多くの模倣を繰り返すなかで、学習効果による「効率化」が図られた結果でしょうし、もう一つには、城下町に囲まれた近世城郭の政治的要請から「四方正面」の徹底があったのでしょうが、そのどちらの場面においても、籐堂高虎の役割が大きかったように感じます。

さて、以上のごとき仮説の最後に、今回の変遷モデルにちょっとだけ補足しますと、変遷は決して段階1から3への一方通行では無かったし、123の同時進行=復古調の手法も頻繁(ひんぱん)であったことの、一つの事例として、豊臣秀吉の天守を挙げてみたいと思うのです。

やや先祖返りした?? 豊臣秀吉の天守

ご覧のとおり豊臣秀吉の大坂城は、信長の安土城に比べれば格段に広い本丸を築き、そこにより多くの御殿を建てて、近世城郭のスタイルを切り開いたことが特徴とされますが、これ、よくよく見れば、「段階1」への先祖返りの要素がまぎれ込んでいる… のではないでしょうか??

つまり、大坂築城のころ、すでに段階3の天守も出現しつつあった中で、秀吉はやや先祖返りをして、段階1と段階2の間の、言わば「段階1.5」の天守や御殿を大坂城本丸に築いてしまったと考えますと、ある種の合点がいくのではないかと申し上げたいのです。

たしかに秀吉の大坂城は「規模」に関してはあるゆる点で史上空前の規模であったものの、個々の手法は以前からあったものの焼き直しか、むしろ先祖返り(ある種の退行)であったと見直しますと、秀吉は何にエネルギーを集中させたのかがよく理解できるように思うのです。

しかも当ブログでは秀吉の大坂城天守について、必ずしもすべての階が「宝物蔵」だったわけではなく、例えば「御小袖の間」と伝わる四階(天守台上の二階)はいわゆる「御上(おうえ)の階」にあたり、ここに正室・北政所らの部屋があって、フロイスが最上階から「種々の階段から降り始め」ると「かなりの人数の女たちが姿を現わした」という記録とも矛盾しないこと(!)を申し上げました。

つまり秀吉の天守には、まだ「御殿機能」が備わっていた可能性がありうるわけでして、これが「段階1.5」の五重天守であったとしても何ら不思議は無いように感じるのです。

(※ちなみに以上のモデルは歴史上の事柄ですから、変遷モデルと言っても、後の世から見て結果的にそうだった、という「時系列のまとめ」に過ぎないのは当然でありまして、ここで述べた“塔化”進行プロセスは、これを一貫して前進させた原理やメカニズムの類いは、一切無かったはず、と念のため申し上げておきたく存じます)
 

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