望楼型って何? 高欄廻り縁は、昼夜を問わぬ領国監視を見せつけたアドバルーンか
【比較】法隆寺の金堂 →高欄廻り縁は “見せかけの意匠” で実際は使えない
…… 前回の記事でちょっとだけ触れた、望楼型天守の目印ともされて来た「高欄廻り縁」というのは、いったい何のためだったのか?
最近、そんな疑問を感じることが多くなりまして、歴史上、数多くの天守に高欄廻り縁が設けられ、それらはおなじみの三浦正幸先生の解説によれば「いつの時代にあっても、廻縁は高貴な建築の象徴であった」とのことで、廻り縁は「城主の品格を示すために必要だった」と説明されています。(『よみがえる日本の城23・24』)
このこと自体には疑問はなく、冒頭写真の例もそうですし、例えば毛利輝元の広島城・萩城天守や織田信雄の清須城天守など、父祖の代からの領国の居城の天守に設けた高欄廻り縁は確かに「高貴さの表現」と受けとめていいのでしょうが、しかしそれ以外の城の高欄廻り縁は、本当に「高貴さの表現」だったのか?…という疑問が、とりわけ 移封による新領地での築城との関係 を見ていくと、私なんぞはかなり怪しく感じてしまうのです。
と申しますのも、移封による新領地での城主の立場というのは、今で言えばおそらく、国政選挙で出身地ではない選挙区に(中央政界の命令で)立候補した “落下傘候補” のごときもので、領国民の目から見れば、どこの馬の骨か分からんが天下人の代理人でもあるので従っておこう、という面従腹背(めんじゅうふくはい)の心理がうずまいていたでしょうから、そこで「高貴さ」を訴えても、どれだけ領国民に響(ひび)いただろうか… と心配にならざるをえません。
それよりはもっと別の、露骨で、実利的な効果をねらった高欄廻り縁だったのでは?? という風に考えた方が、層塔型天守においても “見せかけ” にしてまで設けた(…結局は望楼型・層塔型を問わずに設けた)高欄廻り縁の目的が、よりはっきりと見えて来るのではないでしょうか?
(※ちなみに歴史上のすべての天守で、どの程度が高欄廻り縁を備えたか?と考えてみますと、実際は調べようがないものの、例えば、推定復元の類いも含めて、姿形が城郭ファンの記憶に残っている天守のうち、その三分の一ほどが高欄廻り縁ありで、残り三分の二が高欄廻り縁なし、といった印象が私にはあるのですが、いかがでしょうか)
松山城大天守(層塔型天守)の高欄廻り縁 → 実際には望楼型の目印でもなかった
で、こうなりますと逆に、望楼型天守って何?という「定義」の方が気になりますが、これもまた三浦先生の解説では「望楼型の利点は、ゆがんだ平面に入母屋造の屋根で見切りを付け、それより上部を矩形平面に整形できたこと」であり、間口と奥行の極端な差(=妙に細長い天守台)にも対応できたため、その「極端な例である岡山城天守では」「層塔型での建造は絶対に不可能であった」という風に、望楼型でなくては建てられなかった代表例として挙げた岡山城天守(慶長2年=関ヶ原合戦前の建造)は実に、高欄廻り縁が、ありません。!!
岡山城天守の古絵図『牙城郭櫓実測図』(ウィキペディア)より
つまり高欄廻り縁の存在は、望楼型かどうかの「定義」自体には全く関係がなかったことになるわけで、したがって現在のところ、天守の高欄廻り縁そのものについての “総括” はされていない状態にあるようでして、今回の当ブログ記事は、そのあたりの “総括” にも踏み込んでみたいと思うのです。
高欄廻り縁の存在が確実だった広島城天守
(広島県立文書館収蔵の絵葉書-昭和18年消印-から拡大)
【図表】高欄廻り縁の存在が確実な天守と御三階櫓(低層階での付設はのぞく)
さて、ご覧の図表は、上記の広島城天守のように、歴史的に高欄廻り縁の存在が確実であった天守を挙げてみたものですが、特に色分けで、その天守を築いた城主(藩主)が父祖の代からの領国内で築いたのか、それとも、軍事的併呑(へいどん)や移封で得た新領国で、その天守を創建したり高欄廻り縁を付設したりしたのか、という区別を示してみました。
すると例えば、白石城の城主を代々務めた片倉氏の十一代目城主・宗景が、初代城主以来の天守(=おそらくは豊臣秀吉の奥州仕置による蒲生氏郷の建造)が火災で焼失したのを受けて、4年後の文政6年(1823年)に再建した天守(片倉氏は大櫓と呼称→現在の復元天守のモデル)など、代々の領国内で建造した天守が、全体の半数を占めたことが分かります。
ところが、その「代々の領国内で建造した天守」も、下の表で茶色い帯で示した事例にご注目いただきますと…
という風に、厳密にはそれぞれの初代藩主が、領国を得た直後に創建したり改築したりした天守が(以前に)存在していて、その意匠を踏襲しつつ再建は行なわれた、との伝来のあるものが、いくつも含まれているのです。
ということは、それらの天守は、元来は「新領国で創建・再建・改装した天守」の方に近い部類になるのでしょうから、そうした点で上記の図表を書き直しますと…
という結果になりまして、ご覧のとおり、高欄廻り縁のある天守は「城主の移封」という観点から見直しますと、実は “かなり際立った傾向をおびた” 天守群であったことが浮き彫りになるのです。
(※これは、前述のごとく高欄廻り縁を備えた天守が、歴史上の天守の三分の一程度であったとすれば、異常なまでの高確率の “傾向” になります)
すなわち、高欄廻り縁のある天守というのは、実は(望楼型・層塔型を問わずに!!)大半の事例が、新領国を得た初代城主(初代藩主)によって造形されたものであった――― という、誠に、まことに意外な結論が出て来るわけなのです。
こんなことは今の今まで誰も指摘しなかった事象だと思いますが、そうなりますとやはり、高欄廻り縁というのは、天守の歴史にとって何だったのか? という冒頭からの問い掛けが、かなり根源的なテーマになるのかもしれません。
そこで私なんぞの勝手な推論をまず申し上げてしまいますと、例えばご覧の高知城天守のごとく、初代藩主・山内一豊の入国時の最大の懸案事項は、浦戸一揆を起こした長宗我部氏の旧臣「一領具足」の領民らをいかに押さえ込むか、にあったことを思えば、高欄廻り縁とは、見てのとおりの、昼夜を問わぬ領国監視の「目」を領民に意識させるためのツールだったのでは? と見えて来てならないのです。
きっと当時は一豊本人にしてみれば、とても「高貴さ」どころではなかったでしょうし、それよりは、我が新城には天守があり、廻り縁も付いていて、いつでも「見ているゾ!!…」という圧迫感を、城下に与え続けることを望んでいたのではなかったでしょうか。
そのように天守の高欄廻り縁とは、大半が、露骨で実利的な効果(=建築的な美観ではなくて、新たな領国民への警告)をねらった意匠(アドバルーン)であった、というのが私の勝手な推論なのですが、このこと自体をはっきりと証明できる材料や文献は、現状ではなかなか見当たらないため、最後に【逆説的な傍証】をご紹介して、皆様のご判断をあおぎたいと思います。
【逆説的な傍証1】高欄廻り縁が無かった岡崎城天守を、別の視点から見れば…
(ネット上にある岡崎城天守の復元CG/三浦正幸先生考証)
さて、ご覧の天守は、徳川家康が生まれた岡崎城において、家康の死の翌年(元和3年)に徳川譜代の本多康紀(ほんだ やすのり)が建造した天守ですが、CGのごとく最上階に高欄廻り縁が無かったことは古写真で明らかです。
こうした意匠について、CGを監修された三浦先生は「各重の逓減(ていげん)が規則正しい新式の層塔式天守の系統に属すが、一重目の屋根は南北棟の入母屋造となっていて古い時期の望楼式天守に似せている」(『CG復元 よみがえる天守』)という風に、この意匠には何らかの意図が介在した可能性を示唆しておられます。
で、そんな意匠の天守に “高欄廻り縁が無い” ということ(→家康出生の城なのに「高貴さ」は必要なかった!??…)は、これまた何らかの意図を踏まえたものだと推論しますと、それは前述のごとく、神君家康公ゆかりの岡崎の領国民に「見ているゾ!!…」などという態度は取れず、しかもかの有名な大樹寺から岡崎城を望む眺望(ビスタライン)に天守再建で貢献した張本人(!)としての本多康紀の立場を、逆説的に、表明した “意匠” だったのではないでしょうか。
大樹寺から岡崎城を望む歴史的眺望(岡崎市HPより)
この有名な眺望の由来については、故・新行紀一先生のレポート <岡崎市内の「歴史的景観」の維持のために> をご参照いただくと分かりやすいのですが、ふつうは三代将軍・徳川家光の事績と言われるものの、なんと最晩年の徳川家康も自ら進んでこれに関与していたようで、その過程で家康は本多康紀を岡崎城に訪ねたと言いますから、言わば “神君肝いりのプロジェクト” であったようなのです。
そして本多康紀の天守再建は、まさに家康一周忌に合わせた事業だったと言うのですから、これはもう康紀の側としては「神君家康公が逆にこちら(私)を見ている!!…」 そんな深層心理が働いた結果、高欄廻り縁なし、という天守意匠にならざるをえなかったのだと思うのですが、どうでしょうか。
【逆説的な傍証2】同じく高欄廻り縁が無い岡山城天守を、別の視点から見れば…
(前出の岡山城天守の古絵図『牙城郭櫓実測図』から拡大)
さらに前出の、三浦先生が望楼型の代表例として挙げた岡山城天守ですが、これを創建した宇喜多秀家は、もちろん父親の宇喜多直家が謀略のかぎりを尽くして(?)奪い取った備前・岡山の地に、この金箔瓦の天守をあげて新たな豊臣の治世を印象づけたものの、そんな秀家と領国との関係を考えれば、その後に起きた「宇喜多騒動」を思わずにはいられません。
ご承知のように宇喜多騒動とは、秀家を豊臣一門に準ずる地位に引きあげた豊臣秀吉の死後に、国もとの重臣らの間で勃発した内紛でありまして、その実態はまだよく判っていない部分があるものの、やはり謀略を得意とした父・直家の重臣をふくむ家臣団を(豊臣秀吉の威光が消えうせると)とても秀家一人ではまとめ切れなかった、ということなのでしょう。
そんな秀家の立ち位置を踏まえて、“高欄廻り縁の無い” 岡山城天守を改めて見直しますと、そこには人間臭い配慮や恐れの感覚がにじみ出してくるようであり、はっきりと申せば、秀家の心理として、金箔瓦の天守で領国の侍どもを幻惑することはたやすく出来ても、そこに(秀吉のごとく)高圧的に見おろす高欄廻り縁を設けることは、重臣ら一人一人の顔が脳裏にチラついて、とうとう踏み切れなかった、という風にも感じてしまうのですが…。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。