門井慶喜という人は、天守を語るセンスも知識も無いようだ

門井慶喜という人は、天守を語るセンスも 知識も 無いようだ

著書『家康、江戸を建てる』が直木賞候補になった門井慶喜さんという(歴史小説にも触手を伸ばす)ミステリ作家の方がいらっしゃいますが、以前に雑誌「サライ」で、おなじみの千田嘉博先生との対談があった時は、千田先生はよくこんな方との対談をOKしたものだなあ、リップサービスも ほどほどにしないと―――と感じておりました。

で、案の定というか、門井さんの新刊の新書本『徳川家康の江戸プロジェクト』を拝見して、とりわけ「天守」に関わる第四章において、例えば次のような文章があって、ええええっ!! と絶句してしまいました。
 
 
(門井慶喜『徳川家康の江戸プロジェクト』より引用)

日本の城で最初に天守閣が築かれたのは、織田信長の安土城です。天守閣を造ったのがこの信長だけであれば、変人説でも済むでしょうが、その後も続けて戦国大名たちが天守閣を造っています。それはなぜだったのか。
 
 
この文章は、後に続く門井さんの江戸城の話題に進むための、軽い前フリのつもりだったのかもしれませんが、仮にも、織田信長が創始した安土城天主について「変人説でも済むでしょうが」と言えてしまう感覚が、これはもう、看過(かんか)できない、と思い立ちました。

(※特にこういう方が、江戸城に関わる本で直木賞候補になったり、それがNHKで番組化されたことで、今後、社会的な「悪影響」が広まる前に、一度は指摘すべきだろう、と思い立った次第です)

まずもって感じるのは、門井さんという方は、天守とは何だったのか、どうして信長がそんな “珍奇な?” 建造物をわざわざ創り出したのか、という動機や意図について、ほんの一時間でも真剣に考えたことがあるだろうのか… いや、無いのだろうな、ということが(上記の「変人説でも済む」との言葉使いから)容易に想像できますし、基本的に、城に天守を築くことは、変人のしわざ、と心の奥底のどこかで感じている方なのでしょう。

そして江戸城に関する本で直木賞候補になったにも関わらず、今回の新書本では、肝心の江戸城について「家康が建てた江戸城の天守閣は、三階(三層)建てでした」(101頁)と平然と書いているのは、全国のお城ファンが ゲゲゲッとのけぞる!! ほどの知識不足です……。
 
 
奥書のプロフィールを見れば、門井さんは私より一回り年下のようですが、そもそも何故、「平和」などという言葉が、天守や城を語るうえで真っ先に出て来てしまうのか?

しかも「白色」を平和の象徴だと短絡的にとらえて(→例えば建築家の藤森照信先生は「高くそびえるくせに白く塗られている」天守は「世界のどの国のどの建築にもルーツがない」と見事な指摘をされましたが)鉛瓦の白っぽい屋根しか文献上は確認できない江戸城(慶長度)天守について「平和の象徴である」と早合点してしまう、平和ボケ、としか受け取れない門井さんの感性が、私には到底、理解できません。

そこで、例えばの話ですが…

【ご参考】朝鮮出兵時に豊臣大名が朝鮮半島に築いた「倭城」
その一例、『征倭紀功図巻』に描かれた「白い天守」の順天城
(→文献記録の詳細は後述)

(※模写:中村仁美)

豊臣秀吉による朝鮮出兵において、諸大名が激戦の合間をぬって築いた城、いわゆる「倭城」は、確認されている三十の城の殆どに「天守」が建てられ、それらはかつて朝鮮半島の南東岸にずらっと並んだ形になっていて、それぞれを目撃した朝鮮側の記録も残っております。

当サイトの2011年度リポート「そして天守は海を越えた」より


(※倭城の在番武将は戦況に応じて度々変更され、図には推定が含まれます)

そして倭城天守のいくつかは「白い天守」だった / もう一例:釜山城
山頂に母城の本丸石垣。写真の1956年に南麓はすでに住宅が密集状態

釜山城は至近の子城(通称:小西城)にも、もう一つの天守が建っていた

 
 

で、ご覧の織豊期城郭研究会編『倭城を歩く』2014年に所収の論考、戸塚和美先生の「倭城の天守」を拝見しますと、こうした倭城の「白い天守」の朝鮮側の記録が紹介されていて参考になります。

例えば上記絵巻の順天城は、陳景文の『曳橋進兵日録』に「作五層望楼、塗以白土、蓋以瓦、状如飛翼傍列」という風に白漆喰壁の五層天守だったとありますし、

釜山城(※上記写真)も李舜臣の『壬辰状草』に「面其中大舎段、層塔粉壁有若仏宇為白有臥乎所、原其所為、極為痛憤」という風に、粉壁(白漆喰壁)の仏殿のごとき天守を建てていて忌々(いまいま)しいと書かれ、

さらには金海竹島城も『宣祖実録』に「三面臨江、周以木城、重以土城、内築石城、高台傑閣粉壁絢爛」とあって、やはり最高所の天守だけは白漆喰壁の「絢爛」な「傑閣」だったと記録されています。

いまもなお日韓の間は、深刻な価値観の衝突(→国際的に通用しない「日韓併合不法論」に固執する韓国内の言論)が進行形の真っ只中ですが、各地の倭城や天守の遺構は、現地では多かれ少なかれ「抗日」のキーワードとともに語られる存在です。
 
 
もちろん初期の白い天守は、これら倭城天守だけに限ったことではなく、すでに国内にいくつもの事例が(早くは多聞山城など)あったわけですから、門井さんの「城が白になったのは、江戸時代に入って以後のことでした」(『徳川家康の江戸プロジェクト』100頁)というのも、単なる初歩的な認識不足です。

(→おそらく西ヶ谷恭弘先生の著作などの不正確な聞きかじりが基になったのでしょう)
 
 
ですから、門井さんには、こうした天守の実態や詳細をこれ以上アレコレと申し上げる時間もありませんので、是非とも、以上のような「白い倭城天守」が、何故あの日明(日朝)激突の戦地に築かれることに至ったのか??だけでも、その理由や原因について、一分や二分でも結構ですから、想像してみて下さい。

そうすれば、「江戸城の天守閣は平和の象徴」だとか「天守は平和の色(白)であるほうがいい」とかいう言葉は、二度と口に出来ないはずだと思うのです。
 
 
その場合、間違っても、江戸の天守だけは別で… といった言い訳は通用しません。

何故なら、以上のごとく「白い天守」はすでに天下統一戦と海外派兵の最前線で多数が存在したわけですし、しかも江戸の天守を城下から見上げた諸国の武士の過半は、いまだ朝鮮出兵の記憶も新しい人々だったからで、そんな彼等の視線を無視した「平和の押し売り」は、空々しいばかりのパフォーマンスにしかならないからです。

私が思いますに、徳川家康の江戸城天守というのは、幕府のお膝元の関東全域を「威圧」するとともに、西国に偏重していた天守の分布を、一気に東国に引き寄せるほどの圧倒的なボリューム「巨大さ」の実現を、第一目的として築かれた建築物(まさに「力の象徴」)だったのだと確信しております。
 
 
 
【追伸】秘史、村山艦隊の台湾遠征 → 家康は「平和」など考えていなかった

今回の記事は【追伸】がコロコロと変わって恐縮ですが、現在、私は平川新先生の新書本『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』(中公新書2018年)を読んでいる真っ最中ですが、これが実に面白い。
私のいまの関心事のど真ん中を射抜いたようなテーマの本でして、この中に、たまたま元和二年の「村山艦隊の台湾遠征」の話が出て来ます。(→司令官は長崎代官・村山等安の子、村山秋安で、総勢13隻から成る艦隊)

これは元和二年と言いますから、当然、家康の存命中から企図されたことでしょうし、時期的に言えば、大坂の陣が終わって、豊臣家の始末がついたとたんに、家康自身は「さあ、これからだッ」とばかりに南方への海外派兵に!! 着手していた――という驚愕(きょうがく)の秘史です。

いずれ、もう少し自力で調べた上で、当ブログで紹介してみたいと思っておりますが、このように家康自身は、戦後日本の感覚でいう「平和」(専守防衛など)はまるで考えていなかったし、二代将軍の徳川秀忠もそれに同意していた、というのが現実の有り様のようでして、残念ながら『家康、江戸を建てる』最終章の最後のシーン(=家康と秀忠が江戸発の「平和」を思いつつ天守から城下を眺めるシーン)は、完全な “絵空事だ” と申し上げざるをえないようです。…
 

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