米子城――並び立つ天守の、思わぬ因果応報

米子城――並び立つ天守の、思わぬ因果応報(および前回の訂正記事)

山陰歴史館に展示の、米子城の大小天守の復元模型

(※ご覧の写真は「大山王国ホームページ」様からの引用です)

米子城と言えば、日本海に突き出た湊山の山頂に、大小の天守が建ち並んでいた姿がたいへんに特徴的で、多くの城郭ファンの人気を得てきた城です。

かつての雄姿は城絵図やイラスト、CGで数多く描かれて来ましたが、上記の復元模型は、例えば松岡利郎先生の復原図などと比べますと、大天守の最上階がかなり大きめで、かつ入母屋屋根や千鳥破風の配置も異なっていて、おそらく鳥取県立博物館蔵『四重御櫓絵図面入』の「御天守 東北側」絵図面の描き方に “真っ正直な” 姿で復元したもののようです。

で、ご覧の大天守がまことに興味深いのは、ご承知のとおり、この大天守の方が、後から!付け加えられた、という点でありまして、小天守は天正19年に伯耆国を領有した吉川広家が初めて築いたもので、その後、関ヶ原戦の結果、広家が岩国へ移封になると、駿府城(府中城)の中村一忠(かずただ=当時11歳/中村一氏の子)が入封し、間もなく大天守を築いたと言われます。

奇(く)しくも前回ブログで、小天守が先にあって… と、駿府城の中村一氏時代の(層塔型)天守について、そんな形の「並び立つ天守」のお話を申し上げたばかりですが、米子城は並び立つ天守で人気を得て来たものの、私なんぞはむしろそこに、ある種の因果応報(いんがおうほう=良い行いをすれば良い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるという仏教用語)を感じざるをえませんで、それは何故かと申せば…


(※伯耆米子之城図をもとに作成)

湊山の中腹に「内膳丸」という大きな曲輪がありますが、これは中村家の筆頭家老・横田村詮(よこた むらあき=横田内膳)という人物に由来した曲輪であり、この横田内膳なる家老が、実質的に、米子城の大天守を築いた(付け加えた)張本人だと言われております。

横田内膳の肖像(ウィキペディアより)

では、いつもとちょっと趣向を変えて、池波正太郎の短編小説にある横田内膳の描かれ方を引用する形で、この人物をご紹介してみましょう。

(池波正太郎「武士(おとこ)の紋章」より)

横田内膳は、単なる家老の一人ではない。
もとは阿波・高屋の城主、三好山城守の家来であった彼が、主家ほろびて後、この中村家へつかえるようになったのは、いつごろのことか不明であるが、
「内膳あればこそ、中村家も立ちゆくようになったのじゃ」
と、これは徳川家康の言である。
三年前の、あの関ヶ原大戦の直前に病死をした先代の殿さま、中村式部少輔一氏は周知のごとく豊臣三中老の一人であって、
「式部少輔には、いささかの油断もならぬ」
関ヶ原の戦いにのぞむ徳川家康の、中村家のうごきを見る眼はきびしかった。
だから、中村一氏がすばやく決意し、款(かん)を家康に通じ、
「それがし、すでに病勢すすみ、再起の望みなし。わが子、一忠もまた病弱なれば……なにとぞ、なにとぞ、わが家の後事たのみまいらせる」
必死に嘆願をしたものだが、それでも尚、家康の疑惑はとけなかった。
この家康のうたがいをとくためには、横田内膳の文字通りの東奔西走の活躍があり、ついに家康のこころをとくことができたのである。

中村一氏                徳川家康

このころの内膳は六千石の老職となっており、主人・中村一氏の妹を妻に迎えているほどだ。
当時、中村一氏は駿河国で十七万五千石を領し、もとは徳川家康の城であった府中城(静岡市)へ入り、江戸の徳川を押さえるための一つの拠点として、故太閤秀吉が封じたものであった。
そうした、むずかしいところにいて、家康のうたがいをとくことは非常な困難をともなったことはいうまでもない。
それだけに、横田内膳の功績は大きかったといえよう。
中村一氏が死に、関ヶ原戦が終って徳川の天下となったとき、駿河から無事に伯耆十八万石へ封ぜられたのも、
「内膳あればこそじゃ」
と、いうことになる。これは家康がじきじきにいったことだけに、少年の殿さまの後見役として、横田内膳の威望は天下のみとめるところだ。

         横田内膳       少年の殿さま(木像は没年20歳の中村一忠)

かくして横田内膳は、晩年の中村一氏に徳川家康への接近を具申したとも言いますから、豊臣政権下で徳川に圧力をかける役目を負っていた中村家の、窮地を救った重臣だと言えるでしょう。

以下は23年も前の米子城跡のアナログ写真で恐縮ですが…


現地案内板の「弘化四年 絵図」の右側の中段が内膳丸


山頂の天守台から見下ろした「内膳丸」の様子

ご覧のとおり天守台から内膳丸を見下ろしますと、こんなに良く見えるわけでして、ということは、逆の方向で、内膳丸からかつての大天守を見上げた場合にも、非常に良く見えたことは間違いありません。

横田内膳は、内膳丸から見上げた側の山頂部に「大天守」を加えたことになる…

さらに付け加えるなら、内膳丸から山頂を見上げたとき、中村家の入封時にすでにあった小天守は、ちょっと見づらい位置にあったのかもしれず、そのあたりをもう一度、現代の測量図でご確認いただくと…

図は上方が北、左上が内膳丸、大天守の右下(内膳丸の反対側!)に小天守

(※ご覧の測量図はサイト「しろたん」様からの引用です)

!! ここまでをご覧いただいた上で、私が是非とも強調したい事柄は、このようなプランを推進し具体化したのは、横田内膳その人に他ならぬ… と考えざるをえない状況証拠でありまして、これほどまでにして「大天守」を山頂で並び立たせたのは、内膳の隠れた「意図」が働いた結果だったのではないでしょうか?…

同じ「唐破風天守」としての、米子城「大天守」と、二条城の創建天守(宮上茂隆復元案)

当サイトは10年前のスタート時から、天守が望楼型から層塔型に移りかわる過渡期に登場した、言わば第三の型として、仮称「唐破風天守」の可能性を提起させて頂きたい、と申し上げて来ました。

そして幾度となく、家康のトレードマークでもあった「唐破風天守」=二条城の創建天守などと、米子城の大天守が似ているのでは? という話を申し上げて来たのですが、その中に駿府城「小傳主」も含まれていたなら、横田内膳は、そんな唐破風天守が並び立つ駿府城を見ていたうえで、移封先の米子城でも、まるで同じ形(否!! むしろ逆に、唐破風天守の方が上に立って見おろす形での)大小天守を実現してみせたのではなかったか… と申し上げてみたいのです。



この真逆に。 真意は中村家の “罪ほろぼし” を天下(家康)に示すこと??


(※松岡利郎先生の米子城復原図/『探訪ブックス 山陰の城』1989年より)

先ほど横田内膳の隠れた「意図」などと申し上げたのは、こういうことでありまして、つまり米子城のシンボル「並び立つ天守」とは、私なんぞの目から見ますと、実際には、中村家が伯耆米子の地で生きながらえるための、切実な、横田内膳の「釈明」であったと、見えてならないわけです。…

ところが、ところが、歴史的にはその後まもなく「横田騒動」という事件が勃発し、なんと前出の「少年の殿さま」中村一忠が、側近の安井清一郎・天野宗杷らの甘言によって横田内膳を城内で暗殺してしまい、これに反発した横田一族の蜂起を、隣国・堀尾氏の加勢まで得て鎮圧する、という一大騒動を起こしたのでした。

なにやら日産のゴーン騒動を連想しそうな展開ですが、この事件を聞いて当然ながら激怒した(フランスのマクロンならぬ)江戸の家康は、中村一忠の側近をのきなみ切腹させたものの、一忠本人については謹慎の後、おかまい無しとしました。

おそらく家康の底意としては、まだ14歳の一忠はそのまま放置しておいても大過は無いと判断したのだと思いますが、案の定、慶長14年に一忠が20歳で急死するや、一忠には3人の子がいたにも関わらず、領国の安堵は許さず、さっさと中村氏を改易にしてしまうのです。

――― きっと徳川家康は、かつての自らの居城・駿府城において、こんな嫌がらせを受けていたのか… と想像した場合、その腹にためこんだ怒りは、慶長14年当時、まさに駿府城の大改築を諸大名に行なわせてみても、どこか晴れないものが残ったのかもしれず、横田内膳の必死の「釈明」だけはそれとして受け取りつつも、やはり中村一氏の仕打ちが、いく度となく家康の脳裏にぶり返していたのかもしれません。


(※ご覧の写真はyoutube「2017年10月28日 ドローン 米子城天守之大掃除」からの引用です。
この動画では天守台の礎石の配置がよく分かります)

 
【前回の訂正とお詫びと新知見/駿府城で公開された金箔瓦について】

 ■ 新発見の金箔瓦は「天正期」の石垣の脇から。しかも焼けた痕跡は一切無し。
 ■ → 金箔瓦を一括廃棄したのは、関ヶ原合戦後に入府した内藤信成か?

公開日にはわざわざ出土地点を示したカラーコーンが……






計330点の金箔瓦はご覧の「天正期」の本丸石垣の脇から出土。


330点はすべてこうした箇所から発見された。

前回ブログで申し上げた「金箔瓦」の件ですが、金箔の状態のあまりに良過ぎる写真がマスコミ報道にのったため、それはひょっとして『当代記』等にある徳川家康自身の金箔瓦か? などという記事を書きましたが、その後の報道や上記写真でお分かりのとおり、330点はすべて新発見(天正期)天守台から続く本丸石垣の西側の一箇所から、まとまって出土したものでした。

したがって、前回ブログの「徳川家康自身の金箔瓦」は間違いの可能性があり、この場で、訂正とお詫びをさせていただきます。

※※※】ただし上記写真のとおり、金箔瓦の出土地点は意外に「浅いレベル」であったようで、ということは、この地点は必ずしも「堀底」ではなかったのかもしれず、もしそうであれば、本丸石垣の西側の地面を整地したのは、いつのことなのか? その整地後の帯曲輪?に瓦の廃棄用の穴を掘ったのならば、さらに時期の特定は難しく… といった重大な検討事項が発生しているのかもしれません。

ですから、金箔瓦の廃棄は、もっとも遅い時期で考えれば、前々回にお見せした慶長12年秋の!! 徳川幕府による二之丸石垣の天下普請の時点でも可能だったことになります。



現地をまた訪れて、330点の金箔瓦片には焼けた痕跡が一つも無い(→つまり慶長12年末の火災の前に廃棄されたもの)という説明員のお話を聞くことができましたし、発掘現場の方では、中村一氏時代の天守台と本丸石垣は、上図のように南西側や東側にさらに石垣の構築物が接続していたらしく、金箔瓦はその南西側に屈曲した石垣下の隅角に(目立たないように)捨てられたようです。

ということは、この隅角に穴を掘って金箔瓦を一括廃棄した “容疑者” として、真っ先に名前が挙がるのは、関ヶ原戦の結果、中村一忠に替わって駿府城に入った家康の家臣・内藤信成、ということになるのでしょうか。…

そしてその時、中村時代の天守の木造部分や他の瓦がどうなったか(解体されて流用されたか)は皆目、分かりませんが、もしも内藤信成が天守台だけ残して天守木造部分をまるごと解体したのなら、私の想像(天正の徳川時代は大天守もあったのか)も含めて申せば、駿府城は歴史上、ほとんどの時代に、大天守を欠いたままの城であった(→大天守の存在が確実視できるのは中村時代1590~1600年と、家康が再建した1610~1635年の、計35年間だけ)ということになるのかもしれません。

それだけに、駿府城を語るとき、やはり家康の「小傳主」は、欠くことの出来ない存在だと重ねて感じるのですが…。
 

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