フィリピン総督の戒厳令 ←原田喜右衛門が見たマニラの「手薄な防備」

フィリピン総督の戒厳令 ← 原田喜右衛門が見たマニラの「手薄な防備」

(平川新『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』序章より)

「朝鮮出兵という、日本による巨大な軍事行動は、スペイン勢力に重大な恐怖心を与えたのである。のちに詳しく論証するが、フィリピン総督はマニラに戒厳令を布いて、恐怖に怯(おび)えたほどだった。アジアでもヨーロッパでも日本は一挙にその知名度をあげ、アジアの軍事大国として世界史に登場することになった」

豊臣秀吉の朝鮮出兵計画は、事前にフィリピンのマニラまで鳴り響いていた…

(※スペイン統治時代のマニラ「イントラムロス」=壁の内側という意味)

外国人の目線(感覚や思惑)を我々日本人が逆にのぞいて見る面白さ、というものがあるのは皆様ご承知のとおりで、例えばパブロ・パステルス神父が20世紀初頭、膨大なフィリピン関連文書をもとに執筆した『フィリピン史』のうち、かの松田毅一先生が日本・スペイン間の文書だけを抜き出して翻訳した労作が、下記の『16-17世紀 日本・スペイン交渉史』です。

パブロ・パステルス著 松田毅一訳『16-17世紀 日本・スペイン交渉史』

この本の面白さを知らせてくれたのも、やはり平川先生の『戦国日本と大航海時代』ですが、パステルスの本には、当時の外国人が日本をじっと見ていた「目線」を感じさせる話がいくつも載っていて、例えば、キリシタン大名の小西行長が、なんと、スペイン国王のために、明国出兵を快諾していた!!?… などという書簡が本の冒頭で紹介されています。

どういうことかと申せば、第6代のスペイン領フィリピン総督 サンティアゴ・デ・ベラ Santiago de Vera(在任1584-1590)が、1587年(天正15年)に平戸の松浦鎮信が送って来た使節との交渉について、スペイン国王とメキシコ副王に報告書を送っていて、その中に小西行長の話が出て来るのです。

(上記書第1章「平戸の松浦氏がフィリピン総督に書状を送り、大村領のキリスト教徒らマニラを訪れる」より)

… 日本から来た船長は、平戸国王の甥で、風采も良く理解力もあり、かの地の主だった者の一人である。臣は彼と幾つかの問題を交渉したが、彼は次のように語った。
『自分たちが(フィリピンに)来たのは貴殿らを識り、かの地から当諸島へ来る道を拓くためであるが、主たる目的は、平戸国王 及び同国の人々が、陛下への奉仕を申し出るためである。
それ故、陛下、又は当諸島総督が兵士を必要として通知されるにおいては、平戸国王、並びにその友人であるドン・アグスティーノ(小西行長)なる他のキリスト教徒の国王は、求められた人員、並びに兵士を良く武装し、かつわずかの経費をもって、ボルネオ、シャム、モルッカ、又は自分たち(日本人)の敵である大シナへ派遣するであろう。
これはただ陛下に奉仕して名誉を得ることのみを目的としているからである。私は五百名の優れた兵を配下に有しその隊長であるが、大いに喜んで来るであろう』と。
これらの言葉は理路整然としており、戦闘に関する思慮と実際の経験がある人物として、彼はかの地から良く組織された軍勢六千名を容易に連れて来るための情報と計画を臣に示した。

 
 
といった文面の報告書で、これはちょうど豊臣秀吉の九州攻めが終わった頃に書かれたものですから、この段階(※直後には秀吉のバテレン追放令)で小西行長が、スペイン国王やフィリピン総督の「通知」があれば、松浦鎮信などキリシタン大名と連合して、喜んで明国に出兵しましょう、と応えていた!? というのは本当ならば驚きです。

考えてみれば、秀吉のバテレン追放令の対象になるのは、当然ながら(既に日本に来ていた)ポルトガル系のイエズス会でしょうし、それまでイエズス会と密接だった長崎の大村純忠に対して、平戸の松浦鎮信は、スペイン系のフランシスコ会宣教師の乗った船が来航して “喜んでいた” 矢先のことですから、そんな微妙な “相関関係” が、鎮信の使節の口をすべらせてしまったのでしょうか。
 
 
それはフィリピン総督の側にしても、まだバテレン禁止令の衝撃は受けておらず、キリシタン大名の「奉仕」は大歓迎だったはずで、国王や副王に向けてはもちろん、ローマ教皇へのアピールにも好都合と受け取っていたのかもしれません。

しかも使節の代表者の船長が「平戸国王の甥(おい)」というのは、実は「甥」ではなくて、松浦鎮信の家臣・吉近はるたさ ではないのか… との見方が諸先生方の間にはあるそうで、例えば的場節子著『ジパングと日本 日欧の遭遇』には「一五八七年スペイン報告書中の吉近バルタサルは、豊後出身のキリスト教徒で平戸領主松浦氏に仕えていた」という風に「バルタサル」の洗礼名をたよりに船長は吉近だとしていて、そうなると「平戸国王の甥」という肩書きは、使節の「格」をあげるための方便だった可能性もありそうです。

そんな疑いをいっそう感じてしまうのは、以下でご紹介する「原田喜右衛門(はらだ きえもん)」の場合には、逆に、原田をことさらに貶(おとし)める形で応対したのが、実はフィリピン総督の側の “したたかな作戦” だったからです。…
 
 
 
<秀吉の使者・原田喜右衛門らを「不審な使者」と決め付けたのは、
 フィリピン総督による「時間かせぎ」作戦だった。
 では何故、それほどまでに「時間かせぎ」が必要だったのか??>

 
 
 
長崎商人の原田喜右衛門と言いますと、弟の孫七郎とともに、文禄元年と同2年(1592年と93年)の二度にわたり秀吉の使者としてマニラに渡航し、フィリピン総督と交渉したものの、その前年の91年に、すでにマニラの手薄な防備を見て「征服する方が容易だ」と秀吉に進言していた人物として知られます。

歴史ファンの間では「どこか胡散(うさん)臭い男」とのイメージがあったものの、近年はネット上に
「スペイン統治に反抗するイスラム系の原住民や中国人(海賊リマホンなど)による蜂起とマニラ襲撃があったなかで、そこにたまたま到着した原田喜右衛門が、スペイン側に加勢して蜂起軍を一掃してしまった…」
との話が出回っているようで、人物像が混乱しておりますが、これは事実と推理がごちゃまぜになったもののようです。

と申しますのは、前出の的場節子著『ジパングと日本』においても、「フアン・ガヨ」なる日本人船長(イスラム系原住民への武器の供与者)がいて、前出の吉近はるたさ も同じくイスラム系原住民と接触したことから、「ガヨと吉近は同一人物か?」との議論が起きていて、そんな議論の余波で、ガヨ=吉近=後述の侍シオコや原田喜右衛門、という飛躍が生じたのではないでしょうか。
 
 
原田喜右衛門はハッタリをかますのが好きで、言動にやや問題があったのは確かな事実のようですが、それにしても、喜右衛門が豊臣政権の正式の使者である(ということは事前にヴァリニャーノからの情報がマニラに伝わっていた)にも関わらず、ぞんざいな扱いを受け、しかも喜右衛門の弟・孫七郎が届けた秀吉の書状が―――

「… 服従を申し出るのに暇どるにおいては、予は直ちに処罰を増大するであろう。汝等後悔することなかれ。これ以上の通告は不要である。天正十九年陰暦九月十九日、日本国関白」(パステルス著書の翻訳のまま)

という風に高圧的にしめくくる、事実上の宣戦布告のごとき服属勧告状であったのに、なぜフィリピン総督は孫七郎を「極く通常の貧しい人物である」とか「彼が殿下及び本官を欺(あざむ)こうとしているのではないか」などと妙な難癖(なんくせ)をつけて、のらりくらりと対応できたのか、ちょっと不思議に見えてなりません。

第7代 フィリピン総督 ゴメス・ペレス・ダスマリーニャス

しかしその裏側には、秀吉の軍事力におびえる新総督のダスマリーニャス Gomez Perez Dasmariñas(在任1590-1593)による、冷や汗ダラダラの「時間かせぎ作戦」があったことが、やはりパステルス著書の総督の書簡から読み取れます。

(パステルス『16-17世紀 日本・スペイン交渉史』より
 1592年5月31日付の国王宛て/孫七郎がマニラに到着した日付のもの)

噂によれば、朝鮮を攻撃するために、それぞれ五万の兵から成る三軍団と強力な艦隊を準備していると言う。しかし朝鮮はシナに接近した強大で険阻な地であり、勝利を博することは極めて困難であるから、彼が朝鮮に対する戦さであると公表しているのは、実は(偽りで)その真に意図しているのはマニラを襲撃することに他ならぬとの疑惑は大いに根拠がある、と言うのである。日本からの消息はこうした疑いを確認させるものがあるが…
 
 
(6月11日付の国王宛て/秀吉の書状を見た後の、秀吉への返書と同日付のもの)

(日本の来寇は)もはや疑いなく、彼(太閤)が本年の十月か来年の初めを(進攻の時期として)待っていることは明白なので、信仰を重んじ、その名において諸修道会(の代表者)を召集して報告し…
(中略)
陛下は臣の書簡によって、日本に対し(当方が)使節を派遣し、彼(太閤)の書状に回答する目的を良く御諒解いただけると思う。それはただ(日本人の侵攻に対する)準備と、城砦が完成し、臣が待っている救援(軍)が到着するまで彼を牽制しておくためであり、又、(彼の使節を帰国させず、当方の者を派遣するのは)彼の使節を通じて当地の情報が先方に漏れるのを防ぐためである。
 
 
【補足】上記の書状がどういうタイミングで書かれたかをお分かりいただくため補足しますと、朝鮮出兵の第一陣(小西行長ら)の釜山上陸は、グレゴリオ暦の同年5月24日のことでした。→ 書状のほんの数日前! ちなみに日本・マニラ間の航海日数を申しますと、原田兄弟は通訳アントニオ・ロペスに「20日間」と豪語したものの、例えば喜右衛門が93年に渡航した際には(安定した季節風をねらって)五ヶ月以上もかけています。…
 

【マニラの防備についてのご参考】
約70年後(1665年)に描かれたマニラ / 画:ヨハネス・ヴィングブーンズ

(※イントラムロスを囲む石造りの城壁が見える)


1734年のイントラムロス地図(左側の小さな三角部分が有名なサンチャゴ要塞)


絵葉書になったサンチャゴ要塞(中央に見えるのが三角形の突端/19世紀末か)


現在のサンチャゴ要塞(イントラムロス側の門)

ご覧のとおり、その後のマニラは堅固な城壁都市になったのですが、これはあくまでも、総督ダスマリーニャスが急がせた工事の完成後のことでありまして、そうなると、総督が冷や汗ダラダラの「時間かせぎ」をしていた頃のサンチャゴ要塞とは、いったいどういうものだったのでしょうか。

その当時を描いた絵画資料は存在しないらしく、ただ「最初の要塞はヤシの丸太と土台から成る構造でしかなかった」との伝承があるだけです。

ただ一点、その防御力をおしはかる材料になりそうなのが、1571年に初めて建設されたサンチャゴ要塞は、1574年に、スペイン統治に反抗する中国人海賊リマホン(林鳳)又はリム・アホン(林阿鳳)なるリーダーに率いられた3000人の軍勢(→この中には先程の話とは真逆に、シオコ Sioco と名乗る斬り込み隊長らのサムライ集団が加勢)による襲撃があり、サンチャゴ要塞は木製の柵を突破され、やがて撃退に成功したものの、要塞はそうとうなダメージを受けたと伝わります。

リマホン(林鳳)と フアン・デ・サルセード

この時、要塞で迎え撃ったのが、指揮官サルセードと600人の兵士(半分がメキシコ人とスペイン人、半分がフィリピン人)だったそうで、撃退の翌年には、逆にサルセードがリマホンらをフィリピン北部のパンガシナンに追いつめ、三ヶ月間の包囲の末にリマホンを捕縛したそうです。

で、元々の出処がよく分からないのですが、外国のサイト等に「リマホンの砦」Limahong fort として出回っている画像がありまして、これがちょうど、ヤシの丸太で築いた砦のようであり、一つのヒントになるのではないでしょうか?

!!… … … ひょっとして最初のサンチャゴ要塞というのは、こんな現地の手法をとりあえず採用しつつ、現地人を大量動員しながら築いた “要塞もどき?” であった、という風に考えてみるならば、リマホン軍に柵を打ち破られた、という話も大いに納得できますし、防備の程度はご覧の「リマホンの砦」と大差の無い代物(しろもの)であったようにも思えて来るのです。

そんなヤシの丸太で築いた砦は―――

ご覧のアヤラ博物館(Ayala Museum)で フィリピンの歴史をジオラマで紹介する展示物の中にもありまして、その様子を写真に撮ったサイト「Pinoy Toy Soldiers (フィリピン人のおもちゃの兵隊)」を見つけましたので、参考までに「サルセードが海賊リマホンを撃退するシーン」Here we can see Salcedo repelling the Chinese Pirate Limahong.の写真を引用してみましょう。





さて、以上のごとく見てまいりますと、原田喜右衛門が思わず秀吉に進言した「マニラの手薄な防備」というのは、まさに、原田兄弟がマニラを訪れた時期(1591年、92年、93年)が、石造りの城壁工事の真っ只中であったことになり、それは93年に一応の完成を見た(→ ただし突端のサンチャゴ要塞だけ?)とされています。

ですから、フィリピン総督の焦(あせ)りは十二分に理解できるものでしょうし、城壁完成までの「時間かせぎ」が急務だと考えたのも正解だったのでしょうが、そのため、ことさらに「不審な使者」とされた喜右衛門らの無念さが、ちょっとは思いやられまして、その一方で、もしも秀吉が、喜右衛門の「進言」を真に受けていたならば!……… と考えるのは余計なことでしょうか。

もしそんなことがあったなら、豊臣軍はご覧のごとき砦の類いは半日で落とせたでしょうし、その結果、日本はやがて来るオランダやイギリスと覇権をあらそう海洋国家へと変貌し、その後の歴史は、アメリカが米西戦争でフィリピンを植民地化することもなく、すると当然ながら、日本軍の南部仏印進駐がきっかけになった「太平洋戦争」も起こらずじまいで… 等々と、妄想にキリが無くなってしまうのです。

しかし「世界史」はそうとうに違っていた(アヘン戦争もあったかどうか… )でしょうし、悔やまれるのは、ひとえに、喜右衛門が城攻めの専門家たる「武家」ではなくて「商人」だったことが、「進言」の説得力を 欠いてしまったのでしょうか。…
 

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