ビスカイノの報告=駿府城天守にも「御上の階」が…

ビスカイノの報告 = 駿府城天守にも「御上(おうえ)の階」が…

徳川家康の「花色日の丸威胴丸具足」

前回に申し上げた、昔の日本人は太陽を「金色」と見ていたという話の一方で、おなじみの日の丸(真っ赤な太陽)は、源平合戦で源氏が「白地赤丸」の旗を使ったことから、その後の武家政権では代々の将軍が源氏の末裔と称し、日の丸は天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれたのだ… とも言われております。

その点で申せば、羽柴(豊臣)秀吉は藤原氏を名乗っていたうえ、征夷大将軍にもなれなかったのですから、太陽の色としては、やはり「金色」を選ばざるをえなかったのかもしれません。

ですから仮定の仮定の話として、もしも秀吉の「見せる城」が、「真っ赤な太陽」から取って「真っ赤っ赤な城」になっていたら…… などと心配するのは馬鹿げたことでしょうが、もう一つ別に、秀吉が「金色」を選んだ理由の中には、外国人の影響もあったような気がいたします。

例えば秀吉の頃からやや時代は下るものの、スペイン人の探検家で貿易商人のセバスティアン・ビスカイノ Sebastián Vizcaíno の『ビスカイノ金銀島探検報告』という本にわかりやすい事例が載っています。

これは当時、スペイン人航海士らの「日本の東の洋上には金銀を大量に産する島がある」との話が本国に伝わり、事の真偽を確かめるため、メキシコ副王サリーナス侯爵が探検家ビスカイノに白羽の矢をたて、なおかつ、遭難して救助されたフィリピン総督ドン・ロドリゴの一件の「答礼使」を兼ねて、ビスカイノを日本に派遣したことによるものでした。

慶長16年、日本に到着したビスカイノは、スペインの儀仗兵など30名を率いて江戸城で将軍・徳川秀忠に謁見し、さらに駿府の大御所・徳川家康にも謁見すべく、駿府城に登城したのですが…

(村上直次郎訳『ビスカイノ金銀島探検報告』より)

我等は昼の十二時に城並びに王宮に着きたり。
堅固にして巧妙なることは世界に存する最良なる城の一にして、二つの甚だ大なる堀あり。水底より十尋以上にして、幅は五十歩なり。
婦女等の居室の棟は純金を以て造り、其両端に金を以て造れる甚だ大なるグリフォ(半鷲半獅子の怪獣)二頭あり。
第一門に入る前
警固の士 武器を携へ 之を指揮せる隊長等と共に出迎へ、武器 国旗及び太鼓は此処に留め、王旗のみ最後の門まで登りたり。
此城の広大なること 並びに城中に在る兵士に付きてはここに述べず。但し誇張する所なくメキシコ市の住民全部の二倍は城内に住むことを得べし。

(※補足/「十尋」=60尺、約18m)

ご覧の文面は、二つの意味で、本当に興味深いのですが、まずは中程の「婦女等の居室の棟は純金を以て造り…」の行の「純金を以て造り」「金を以て造れる甚だ大なるグリフォ」という部分であり、要するに、ビスカイノが日本の城を見る観点は、堀や石垣などの堅固さを見たあとは、すぐに「黄金」に目が行ってしまうわけで、こうした西欧人のいつわらざる興味の示し方こそ、豊臣秀吉の「色彩戦術」に大きく影を落としたように感じるのです。

当サイトの駿府城天守の推定イラストより

しかも、まったく同じことが家康とビスカイノとの関係でも言えるのかもしない、と私なんぞは感じておりまして、それは以前の記事で申し上げた、平川新先生の『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』にこんな指摘があったからで…

「家康は、江戸湾の入り口にある相州三浦郡浦賀を国際貿易港にしようとしていた。家康の外交顧問となっていたイギリス人のウィリアム・アダムス(日本名、三浦按針)に、三浦郡逸見に領地を与えたのも、そうした構想があったからだろう。この構想を実現するために家康は、フィリピン総督に何度も関東への来航を求めていた。だが、難所の多い日本列島沿いの航路は海難の危険が高く、船長たちは行きたがらなかった」

という風に、「関東」の航路上の「不利」に家康が悩んでいた事情が紹介されておりまして、それまでポルトガル船・スペイン船は東南アジアから九州に達する南方航路ばかりを行き来していたため、関東は圧倒的に不利であった(→秀吉の策略!?)ところを、なんと、ビスカイノの船はメキシコのアカプルコを出航し、太平洋を横断して、真っ直ぐに常陸の久慈浜(くじはま)に漂着したのですから、家康の金箔瓦は、ようやく念願をかなえてくれた、と感じられたのでは…… と私なんぞは勝手な想像をめぐらせているのです。

(※さらに私のゲスな勘ぐりとして、冒頭の「金銀島」の話は「日本の東の洋上」ということですから、ひょっとしてひょっとすると、家康か伊達政宗があえて、スペイン航海士らに流したデマだったのでは……とも。)

 
 
<ビスカイノの報告…駿府城天守にも「御上(おうえ)の階」が?>
 
 
 
そして二つ目の注目点―――こちらがむしろ今回の記事のメインテーマになるのですが、上記とまったく同じ部分の「婦女等の居室の棟は純金を以て造り、其両端に金を以て造れる甚だ大なるグリフォ(半鷲半獅子の怪獣)二頭あり」というのは、つまりは <<駿府城天守>> のことだったのではないでしょうか。!!…
 

【ご参考】典型的なグリフォン griffon の絵


半鷲半獅子の鷲(わし)の部分=頭や翼は伝説上は「金色」だとも。となると…


【ご参考】安土城跡で出土した金箔押鯱瓦の復元(滋賀県HPより)


……それともビスカイノは、下の「ヴェネチアの獅子(Leone di Venezia)」
をグリフォンと勘違いした中で、鯱瓦と見間違えたのか?

ご覧いただいたとおり、ビスカイノの「其両端に金を以て造れる甚だ大なるグリフォ(半鷲半獅子の怪獣)二頭あり」というのは、もしも駿府城天守の鯱瓦が、安土城跡で出土した鯱瓦と同じく、部分的に金箔を張ったものであったと考えますと、そうした瓦をグリフォンと見間違えることは十分にありえたのではないでしょうか。

しかも問題の文章は、なぜか家康夫人の御殿が、表御殿や家康自身の御座の間などを差し置いて、金箔押しの鯱瓦を掲げていたというのですから、これはどうも理解できない話ですし、そのうえ問題の建物は、記録文の順序として「第一門に入る前」から見えたようですから、城外から見えるほど、ひときわ高く、頭を出していたと考えて良さそうです。…
 
 
で、私なんぞは、それより何より「婦女等の居室…」と書かれた時点で、天守なのでは!? と想像してしまう方でありまして、当サイトは、織豊期の天守には二重目などに「御上(おうえ)」の階=御台所(みだいどころ)の居室があったはず、というテーマについて、例えば 岐阜城の四階建て楼閣豊臣大坂城天守 など、同様のケースの存在を度々、取り上げてまいりました。

ですからビスカイノの報告は、図らずも、家康の駿府城天守もまったく同じ構想で建てられたことを証言したものであり、そこには家康夫人(阿茶の局なのか、それともお梶・お亀・お梅・お奈津・お六ら愛妾の方なのか)の部屋があったと感じられてならないのです。





当サイトの年度リポートでは、ご覧の駿府城天守は、織田信長の「立体的御殿」から出発した天守の、本来あるべき姿の、最終的な “決定版” が目指されたのでは―――などと申しましたが、それは「天下布武の版図を示したモニュメント」という政治的な機能を別にすれば、建物じたいの物理的な機能は <<財宝と奥方をしまっておく建物>> であったのかもしれません。!…

そんな観点から申せば、これも当ブログで申し上げた「大久保長安の進言」=駿府城の本丸火災の後に、天守を再建するにあたっては、長安が家康に対し、天守とは別に「御金蔵を四方に造ったほうがいい」と進言した意図は何だったのか? 改めて気になるところです。

大久保長安はご承知のとおり、生涯に七十万両を私的に蓄財したほどの幕府草創期の “金庫番” でしたし、なおかつ無類の女好きとされた人物ですが、そんな長安にとっても <<財宝と奥方をしまっておく建物>> という昔ながらの天守のあり方は、やや時代遅れの感が生じていて、だからこそ、あえて家康に進言を試みたのではなかったのかと。
 

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