逃げ場のない石落し銃撃の場か… 天守台上の「空地」が激烈な戦地でも採用された理由とは

前回に引き続いて順天城天守の話題になりますが、その前に「順天」と申せば、
この旗をご存じでしょうか? もちろん話題の「旭日旗」ではなく……

【冒頭余談】 答えは なんと 韓 国 陸 軍 の前身である「南朝鮮国防警備隊」第14連隊の連隊旗でありまして、その第14連隊の反乱事件(=麗水・順天事件)の鎮圧後に連隊旗が捕獲されて、同警備隊の軍事顧問だったアメリカ兵らの “戦利品” として撮影された写真(LIFE誌)なのです。

反乱軍(第14連隊)によって虐殺された遺体を見守る現地の女性たち


同じ女性たちが軍事顧問のアメリカ兵に状況を訴えている様子

麗水(れいすい)・順天事件とは、日韓併合が終わった直後の朝鮮半島の混乱ぶりを物語る凶悪事件の一つ、と申し上げていいのでしょうが、前回記事でルーズベルトの “夢想” 云々と申し上げたとおり、1945年8月に朝鮮半島に進駐した連合国は、「信託統治」を予定していた朝鮮半島には中央政府を設けず、南部はアメリカ軍が、北部はソ連軍が、それぞれに軍政(占領行政)を開始しました。

――― そんな軍政下の南部朝鮮では、早くから共産党系の「南朝鮮労働党」が工作員を浸透させていて、それはアメリカ式の軍隊創設をめざした「南朝鮮国防警備隊」の内部にまで及んでいたと言います。

そして1948年、米ソ対立が深まるなか、もともと朝鮮半島では少数派に過ぎなかった「李承晩(り しょうばん)」をアメリカが、「金日成」をソ連が押す形で(→この二人はずっと朝鮮外での活動家であり、要は、米ソがコントロールしやすかった人物。その後の二人の政治権限が強大になったのも、そのためで…)韓国と北朝鮮が建国して分断国家になると、李承晩はさっそく、済州島で勃発していた「済州島四・三事件」を弾圧すべく、南朝鮮国防警備隊(途中で韓国陸軍に改編)を差し向けます。

韓国の建国式典でのマッカーサーと李承晩

この時、問題の「第十四連隊」は、反乱の直前まで連隊長だった呉東起中佐(オ・トンキ中佐/以前は中国共産党配下の朝鮮人部隊)らの扇動により、済州島への出動命令を拒否して蜂起し、約2500の兵で麗水・順天の町を次々と占拠して立て籠もり、鎮圧されるまでに約600名の住民・警官らを「虐殺する」事件を起こしたのでした。

最近の文(ムン)政権下の韓国では、この第14連隊の蛮行を「なんとか言い訳したい」との左翼政権側の思惑が(裁判所を巻き込みつつ)動き出していますが、いずれにしても、正規軍が統制の甘さから敵方の思想集団に乗っ取られてしまう恐怖を示した歴史的事件、という点では間違いは無いはずです。


(※旗の下部には「제五랴단 제十四연대」=第五旅団 第十四連隊とある)

現在の韓国社会の「反日」は、すべてが初代大統領の李承晩が仕掛けた反日政策に始まると言われますが、現にこうして、建国前に発足していた「南朝鮮国防警備隊」がご覧のとおりの連隊旗を使った――― ということは、まぎれもない歴史の証言の一つと言わざるをえません。
 
 
 
<逃げ場のない石落し銃撃の場か…
 天守台上の「空地」が激烈な戦地でも採用された理由とは>

 
 



【前回ブログより】天守台上には木造部分との間に「空地」があった可能性あり。


同ブログ記事の <「丈間」仮説> をまとめて表示してみた図

さて、前回は「順天城天守」が、現地に残る礎石列から「丈間(十尺間)」で建てられた可能性を申し上げまして、それは太閤・豊臣秀吉本人の「御成り天守」としか考えようが無く、これだけでも建築史の定説に照らせば “かなりの不協和音” を(→もちろん「丈間」は天皇や公家の邸宅の柱間なので)起こしてしまうのですが、そればかりでなく…

日韓併合時代の順天城の天守台写真(台上に例の石碑が見える)
→ → 現状の修復後にある「上段への石段」は、当時は無かったことが明白。


こちらの、台上に石碑が無い状態の古写真においても「上段への石段」は存在しない…

という実情がありまして、天守台上に「空地」があったとしますと、ご覧の古写真から想像できることは、築城当時は、下段からは付櫓か何かで上段に上がる構造であったにも関わらず、そこにまた「空地」がわざわざ巡らせてあった(→例えば会津若松城天守の南面にそっくり)ということであり、その意図が、たいへん気になって来るのです。

何のための「空地」だったのか…

類似した会津若松城天守も含めて、どうしてこんなデザインが出現したのか? しかも朝鮮出兵という激烈な戦地でも採用されたのだとなると、当サイトがこれまでに申し上げてきた「天守台上の空地は “立体的御殿” に由来したもの」という解釈だけでは納まらない、重要な「変質」や「進化」があったのかもしれず、今回はこの点に是非とも注目してみたいのです。
 

そして順天城天守に「唐造り/南蛮造り」があったとなると、さらに重大問題が。

【その1】 唐造りは基本的に「層塔型天守」に用いた手法だったので…


ご覧の岩国城天守や高松城天守、そして小倉城天守など、唐造り(南蛮造り)で知られた天守はどれも、層塔型で建てられた、という事実が厳然とありまして、しかもそれらは慶長後期の徳川の世になってから登場した天守ばかりであり、順天城天守が「唐造り」というのは、まずは <層塔型天守の出現時期の問題> に触れてしまうことになります。

で、なぜ唐造りは層塔型でしか用いなかったか? については、当ブログの「唐造りは本来、意匠なのか? 防御装置なのか?」2015年5月2日記事で申し上げたごとくに、本来は防御装置(直下の銃撃または監視用)と仮定しますと、そこから撃ち下ろす銃撃や監視の「邪魔」になる大入母屋屋根=すなわち望楼型天守とは、物理的に “そぐわない関係” だったからでしょう。

【ご参考】そうした鉄則を無視したデザインの、小倉城コンクリート復興天守

ですから、唐造りの「層塔型」順天城天守が、秀吉の朝鮮出兵時にすでに築かれていた= <豊臣時代に層塔型天守は出現していた> ということになりますと、おなじみの三浦正幸先生の、層塔型は丹波亀山城天守か その前身の今治城天守に始まるもの(=早くても慶長9年以降の出現)という、今ではすっかり定説化した学説と、まっこうから衝突してしまうわけです。
 

【問題その2】絵巻の描写 →初層の大入母屋屋根と直交する角度の最上階屋根。
いかにも望楼型天守のように見えるが、これも「唐造り→層塔型」と矛盾する

こちらは後述する「空地」の件と総合して考えれば、やはり絵の描写の一部に間違いがあったらしく、初層の大入母屋屋根は「大型の張出しの切妻破風」の描きまちがいかと思われ、さらに天守入口が「妻入り」という現地の状況からも、おそらく順天城天守は、ちょうど “岩国城天守と高松城天守を足して2で割った” ようなデザインだったのではないでしょうか? すなわち……

という風に三重五階の層塔型天守として考えるのが、きわめて順当な推論のように思われますし、しかも絵の描写で非常に特徴的な屋根上の「置き破風」?の類いは、十中八九「隠し石落し」のための構造物なのだと思えてなりません。その結果…

と、こんな想像を膨らませておりまして、天守台上の「空地」は、敵兵にとって “逃げ場のない” “銃弾を頭から浴びるだけの場所” になっていたのではないかと。

それと申しますのも、天守台の高さは約6mあり、ちょうど2階建て家屋の屋根と同程度ですから、飛び降りるにはちょっと怖い高さであって、緊急時でも一瞬、躊躇(ちゅうちょ)する 絶妙の?高さなのではないでしょうか。

ですからひょっとすると、天守台上は狭間塀などが無い方が恐怖感が増したのかもしれず、天守台上の敵兵は、思わず足がすくんだ瞬間に銃撃のエジキになったのでは… などと想像しているのです。

そして「唐造り」は本来は防御装置、という仮定で付け加えると…

 

【ここで追記】同じ意味でこれも「唐造り」か?… 嶋原城廻之絵図に描かれた天守


島原城天守についての画期的な復元案(復元:宇土智恵)

(※ご覧の立面図は島原市HP「ふるさと再発見 島原城天守」からの引用です)

――― と、ここで目線を九州の島原に移してみたいのですが、今回の記事は、言わば「唐造り」と天守台上の「空地」との組み合わせ、というお話でもあったのでしょうから、それと同じ意味で、島原城天守の実像が大いに参考になるかと思うのです。

と申しますのは、近年、ご承知のごとく広島大学・文化財学分野4年(当時)の宇土智恵さんが、「普請方記録」(昭和29年『島原半島史』所収)にある天守の柱の数の分析から、新たな島原城天守の復元案を示されましたが、そこでは「天守台が土塀を掛けた低い壇状の石垣上にある」という、現状の復興天守とは大きくかけ離れた姿を想定されました。

で、そうした復元と、上記の城絵図(唐造り?)も踏まえて、思い切った推測をさせていただきますと、天守台上の「空地」というのは、豊臣政権が九州や東北へと版図を広げるなかで用途の変質が起こり、それまでの「格式」を表現した場から、敵兵をさそい込む「銃撃の場」へと意味合いを変えていて、そんな発想が「倭城」天守にも適用されたのだ、と考えれば、色々なことが腑(ふ)に落ちるようでありまして、今回の話題にのぼった天守はどれも、版図の最前線「仕様」なのだ、と。…
 

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