海側も「丈間」! ? 順天城天守は注目すべき御成り天守だったか

「第二次世界大戦の終結後、40年間は朝鮮半島を国連の “信託統治” にすればいい」
… 米国ルーズベルト大統領が抱いた 勝手な夢想!


President Franklin D. Roosevelt with an 800-pound globe that was installed near his White House desk, January 4,1943.

【冒頭余談】 8月15日を韓国では光復節などと呼んでいますが、1945年(昭和20年)の当日の朝鮮半島は、日韓併合による日本の「統治」が突然にして消えた日、と言った方が実態に近かったようであり、現地においては政治的な準備が一切、出来ていなかったと言います。

そして大戦の勝者・ルーズベルト大統領は、ひたすらアジアでの日本の勢力圏を縮小させることに夢中で、それはポツダム宣言に現れ、そのために膨大な数の「引き揚げ者」の悲劇も生まれ、そんな過程で生じた「北方領土」問題(→ソ連は当初、日本人の居住にはこだわっていなかった…)はアメリカにも責任の一端があったと言えそうです。

そのうえでルーズベルトは、日韓併合前の大韓帝国を復活させるのでもなく、朝鮮半島は40年間、新たに組織する国際連合の「信託統治」にすればいい―――といった程度の、半島「軽視」が見え見えの発想でいたらしいのですから、現在に至る朝鮮半島や日韓関係のゴタゴタの おおもとの原点の 原点は、ルーズベルトの頭の中の「空白地帯」にあったのかもしれません。…


2018年4月27日、板門店にて。
文(ムン)は右側のカメラに気をとられ、あろうことか、こんな写真を撮られてしまう

結局のところは「日韓関係ほどほど論」が長い長い歴史の教訓から学んだ大正解なのでしょうが、当面の問題において申せば、文(ムン)政権のごとき “夢遊病的” 左翼政権は、何も結果も生まない試行錯誤の混乱でしかなく、そもそもは、北も、南も、

<大戦後の朝鮮半島じたいが もう限界に差しかかりつつある>

という大局観が成り立つのではないでしょうか?

※          ※          ※

と、またもや冒頭からの【余談】になって恐縮ですが、ここからは、朝鮮半島つながりの「天守」のお話を、是非とも申し上げてみたく存じます。

順天城の攻防戦などを描いた「征倭紀功図巻」の天守の描写


2011年度リポートより / 豊臣秀吉の死去時の天守(朝鮮半島と九州付近)

(※倭城の在番武将は戦況に応じて度々変更され、図には推定が含まれます)

さて、ご承知のように朝鮮出兵時に築かれた倭城群=特に半島の南岸にずらっと並んだ城のうち、最も西側の重要拠点が「順天城」だったと言われます。

で、ご覧の絵巻の順天城天守は、一見すると三重の天守のごとくに見えるものの、初重の白い壁面には(右から)「五層望海楼」と書き込まれていて、やはり海辺の山頂主郭には「五層」天守がそびえていたのでしょう。

(→ ちなみに絵巻のタイトル「征倭紀功図巻」の「征倭」は、絵巻の所有者だった中国系アメリカ人が、描かれた主人公を15世紀の「倭寇」を追い払う中国人の武将、と思い込んで名付けたのが始まりらしいので、注意が必要でしょう)
 
 
そして描写の仕方はやや異国風の描き方でありながらも、実態は豊臣大名らが築いたわけですから、国内の天守とそんなに違ったはずもなく、そうした事情も手伝って、余計に、どんな姿の建物であったのか? 強い興味がわいて来る天守です。

例えば、城郭談話会の堀口健弐さんは国内の天守との比較から「岩国城天守」に言及されたそうですが、かく申す私もまた、絵巻の天守と岩国城天守との類似性が(→ とりわけ「唐造り」は本来、意匠なのか? 防御装置なのか?/2015年5月2日記事 という観点から)たいへんに気になって来た一人です。

「唐造り」の事例の中でも特徴的な 岩国城天守
古図に基づく藤岡通夫先生の作図(『城-その美と構成-』1964年より)

(当ブログ記事より)

いくつかあった(唐造りの)事例の中で、いちばん興味を引くのは、ご覧の岩国城天守ではないでしょうか。
小倉城や高松城のように最上階にではなく、中層の三階と四階も「唐造り」の構造になっていて、ご覧の藤岡先生の図にあるように、その部分の下の階が「ほらの間」と呼ばれていたことは注目せざるをえません。…

といった辺りの構造が、朝鮮出兵という激戦地の天守にも採用されていたのだ、となれば、その意図や使い方がますます気になって来て、そこで手始めに、現地に残る天守台の礎石から、天守初重の様子をさぐってみたいと思い立ちました。

順天城天守台のドローン写真(この写真では右下が北方、左下が海側になる)

(※現状の石垣はご承知のとおり、2007~2008年に、日本の石垣積みとはかけ離れた現地流の修復がいったん始まり、指導役の高瀬哲郎先生がそれらを全て解体させたうえで、再び石垣修復をやり直した、という経緯で有名です)
 
 
 
<海側も「丈間」! ? 順天城天守は注目すべき 御成り天守 だったか>
 
 



1998年刊行のこの本には、高田徹先生・福島克彦先生の連名の寄稿「順天城の縄張り」にご覧の「天守台平面図」が載っておりまして、一見して分かることは、天守台石垣上端のへりの想定線と、主要な礎石列を四角く結んだ細線との「角度」が微妙にズレている! という点に他ならないでしょう。

(※ただし中央の約3m四方の点線の石列は、後世の石碑の台座跡らしい)

こうした図示は当時、石垣の上端がまだ修復前の欠けた状態だったのでしょうから、あまり「角度」の正確さを問えないのかもしれませんが、しかし現状の修復後の礎石列を見ますと、若干の「角度」のズレは残っているようです。

――― ということで、ご覧の平面図の方を大前提に申し上げるなら、この天守台上にはかつて(会津若松城天守などと同様に)天守木造部分との間に「空地」が設けられていた! と考えても良いのではないでしょうか。

そしてその場合、図のスケールから単純に換算しますと、空地の内側に建っていた天守の初重は、梁間が9.25mほど、桁行が11mほどとなりますが、ではその天守は、どういう柱割りで建ち上がっていたのか?… と考え始めますと、やや困った状況におちいります。

と申しますのは、まずは梁間を京間(6尺5寸間/1間が1.97m)で柱割りしてみますと…

ご覧のように中央部分が6尺5寸間=1.97mの4間、その外側に半端な0.7mずつ、という風にも柱割りできますので、さらに桁行を見てみますと…

と、かなりイイ線で柱割りが出来そうですが、少しだけ難を申し上げると、中央付近の大きな礎石が外れてしまう点でありまして、これを解決する手はないものかと思い、例えば6尺3寸間や田舎間(6尺間)で割り付けても、決してかんばしい結果にはならず、そこで……

2011年度リポートより / 秀吉自身の天守は十尺間(丈間)を含んでいた!

(※当図は上が東 / 左が北方で玄界灘が広がっている)

当時の佐賀県による発掘調査の結果を図示してみたものですが、このように肥前名護屋城天守では、入口側の面に十尺間(丈間)が使われたことが判明していて、これを踏まえますと、ひょっとして順天城も? という可能性が頭をよぎります。

そこでためしに、順天城天守も十尺間(丈間/1間が3.03m)を含んでいて、そのうえ松本城天守などと同様に、もっと「ひしゃげた平面形」だったのではないのか? との仮説を立ててみますと、まことに意外なことに…

!! この方がはるかに、平面図に示された礎石群をすべて、自然にフォローした形での柱割りになるようですし、しかも6尺5寸間のように両端に半端な柱間(0.7m)を考える必要はなく、さらに驚いたことに、桁行も同じ「丈間」で柱割りできてしまうのです。

つまりこの天守は、東面(図では右側)の海側に向けても、「丈間」の建物であることを示す意図があったのかもしれず、そういう観点で申せば、天下人・秀吉の肥前名護屋城天守をも上回る “周到さ” が施されたのかもしれません。

ちなみに、現地の天守台上の礎石列だけを取り出して、この図に当てはめると…

このようにして見ますと、いちばん北側の0.75mの柱間は、実際は存在しなかったのかも? という風に見えますし、丈間での柱割りがいっそう徹底されたことになりそうなのです。
 

かつての順天城の全体図右側の山頂主郭の北端(上端)に天守台
(前出『倭城の研究 第2号』からの引用)

(『宇都宮高麗帰陣軍物語』より)

今順天と申城ハ、四国・中国衆秀吉公御意を以て取立たる城故、天守有、矢倉等も数多有之、如何にも能平地山城也、小西摂津守殿家来本丸ニおかれ、摂州ハ船入に出丸を拵、不断住宅被成候

という風に文献には、在番の将・小西行長は船入の出丸を日常的に使っていたとあり、山頂の主郭は家来に守らせたというのですから、以上のごとく入口側・海側ともに「丈間」の可能性が出てきた順天城天守とは、まさに秀吉本人のための「御成り天守」だったのでは!… と思えて来てならないのですが、いかがでしょうか。

(次回に続く)

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