続報・やはり聚楽第天守も「層塔型」か――さらに絵画史料を凝視すれば

【冒頭余談】話題の環境少女 グレタ は 絶対に「中国」を批判しない のだとか。
そのうえ、プラスチック容器にも無関心のようで……  

あ… やっぱりね、という感じでしょうが、昨今は「印象だけ」で巨額マネーが動いてしまう時代ですから、物事は裏側まで確認しておかないとダメ、と自戒を込めて当ブログを更新しますと…

続報・やはり聚楽第天守も「層塔型」か――
さらに絵画史料を凝視(ぎょうし)すれば

【三井記念美術館蔵「聚楽第図屏風」について / 過去の当ブログ記事より】
豊臣秀吉時代の前半は天守台だけ?天守台だけでも遠くから見えていた!?…

前回ブログでご覧いただいた聚楽第「御三階」の略画イラストは、二代目の豊臣関白・秀次の時代に向けて建造された天守(御三階)との想定で描いたものでしたが、それはあくまでも「聚楽第天守は初代の秀吉時代の前半が天守台だけ?」という当ブログの一連の記事(仮説)が大前提でした。

しかも当サイトの「秀吉自身の天守は 丈間(十尺間)で建てられたはず」という もう一つの主張にも沿った描き方でしたので、初重が「9間四方」という想定では、建物の規模が豊臣大坂城天守を上回ることにもなりました。ですから例えば…

【別案イラスト】建物が「丈間」ではなくて「七尺間」だった場合

という風に、丈間と七尺間では、建物のボリューム感がそうとうに違うわけで、豊臣大坂城天守はこの両者の中間に当てはまるサイズだと言えるでしょう。

で、これほどの聚楽第「御三階」の巨大化というのは、前々回から申し上げた「石落し銃撃の場」としての「天守台上の空地」=狭義の天守台の「肥大化」という問題が、その後の徳川幕府による巨大層塔型天守の出現とも、決して無縁ではなかったように感じるからでした。と申しますのも…

一昨年に話題になった豊臣大名・中村一氏の時代の駿府城天守台跡

ご覧の中村時代とされた天守台跡は、実に南北37m×東西33mもの規模で出土しましたが、これほどの天守台が、豊臣家臣の一大名(※ご承知のごとく当時の中村一氏は豊臣秀次の宿老)の城に築かれた「理由」は何だったのか、いまだに強力な説得力ある説明はなされていないようですから、ここはむしろ、こうした天守台の肥大化(→ 中央に層塔型天守、その周囲に「空地」がめぐる形)はすでに豊臣時代の半ばに始まっていた!… と積極的に解釈して行くべきなのではないでしょうか?

【過去のブログ記事より / 出土した天守台跡が、さらに5間の高さがあった場合】




※          ※          ※

ご覧の図解のテーマは、さらに奥が深くなりそうな予感がいたしますが、それはまた別の機会としまして、今回の記事では、前回のお話の出発点になった「屏風絵」について、かねてから私なんぞが感じていた “ある疑問” とその裏側の推理を、是非とも申し上げてみたいのです。

小林英好氏所蔵「御所参内・聚楽第行幸図屏風」左隻


同 右隻

この屏風は、ご承知のとおり美術史家の狩野博幸先生が世に広く紹介したものですが、このほかの聚楽第行幸を描いた屏風絵と同じく、天正16年と天正20年の二度にわたって行なわれた行幸のうち、どちらを描いた絵なのか? という問題提起はほとんど成されて来ておりません。

とりわけ上記の屏風は、聚楽第の御殿の屋根上の「金龍」が、天正16年の記録である『聚楽第行幸記』の「金龍雲に吟ず」とみごとに合致したせいか、狩野先生もこれが天正20年の描写である可能性には一切触れずに、秀吉時代の天正16年の描写と断定しつつ、著書『 秀 吉 の 御所参代・聚楽第行幸図屏風』で解説をしておられました。

そのうえで、狩野先生はこの屏風絵の「四人の主要な登場人物」に注目されたわけですが、その点はまさにそのとおりで、この屏風は見るからに「四人の登場人物」がきっちりとクローズアップされている、と思えてならないものです。…

左隻 = 天皇を出迎えるため、聚楽第から御所に向かう関白の牛車とその行列






右隻 = 御所から聚楽第に向けて進む天皇の鳳輦(ほうれん)とその行列




という風に「四人の登場人物」が左右に効果的に配置されていまして、しかも牛車(ぎっしゃ)や輿(こし)には桐紋や木瓜紋が全面に描かれているため、その中に乗る人物は誰なのか? という興味が、必然的に生じる描き方になっております。

しかし、そもそもの、私なんぞが感じて来た「疑問」とは―――


【対比A】「探幽縮図」では秀吉の牛車の前後におびただしい数の騎馬武者が!


【対比B】尼崎市教育委員会蔵の洛中洛外図屏風でも、右端の秀吉の牛車の前には…

【ご参考 / 関白の牛車に供奉(ぐぶ)した主な武将のリスト】

<<天正16年の行幸>>
(『聚楽第行幸記』より)駿河大納言家康卿。大和大納言秀長卿。備前宰相秀家卿。
増田右衛門尉。福原右馬助。長谷河右兵衛尉。古田兵部少輔。加藤左馬助。糟谷内膳正。早川主馬首。池田備中守。稲葉兵庫守。富田左近将監。前野但馬守。
石田治部少輔。大谷刑部少輔。山崎右京進。片桐主膳正。脇坂中務少輔。佐藤隠岐守。片桐東市正。生駒修理亮。
松岡右京進。津田隼人正。木村常陸介。
加賀少将利家。津侍従信兼。丹波少将秀勝。金吾侍従。三河少将秀康。三郎侍従秀信。

<<天正20年(文禄元年)の行幸>>
(※サイト「聚楽第 豊臣家の夢の跡」様での諸資料の分析によれば)
豊臣秀保、豊臣秀俊、細川忠興、長谷川秀一、池田輝政、稲葉貞通、織田秀信
 
 
かくのごとく、天正16年と20年では、供奉した武将の数に歴然たる差があったらしいのですが、天正20年の場合は『聚楽第行幸記』のような正式の記録が無いため、諸資料を分析した上記サイト等を参照せざるをえない状態でして、格段に少なくなった原因をあえて挙げれば、この時、豊臣大名の多くが朝鮮出兵のため九州・肥前名護屋への出陣を準備していたさなかであり、関白の行列への参加をまぬがれたのだろうと言われます。

!――― であるなら、前回ブログから話題の屏風絵は、関白の牛車に供奉した武将の「少なさ」に着目すると、おのずと、下記のごとき大胆仮説を申し上げざるをえないのではないでしょうか。
 
 
 
<もしも、もしも描かれたのが「天正20年の行幸」ならば、この屏風絵は、
 関白秀次ら【不遇のプリンスたち】が居並んだ集合写真!?ということに…>

 
 
 
先程からの「四人の登場人物」が誰か? という話を続けますと、まず「牛車」の主は時の関白・豊臣秀次だということになります。

天正20年の行幸ならば【主催者であった関白・豊臣秀次】の牛車!!

これは文献史料にも明らかで、例えば『続群書類従 第四輯上 帝王部 補任部』に「天正年中聚楽亭両度行幸日次記」=西洞院時慶(ときよし)の日記から聚楽亭両度の行幸の記事を抜き出したものが載っておりまして、その記事( )の後半が20年の行幸ですが、これを見ますと、該当部分の頭で「関白秀次申沙汰」と(秀吉ではなく)秀次が朝廷に申し入れた当事者であると明記してあります。

時系列で申しますと、天正19年の年末に関白職が秀次にゆずられて、翌20年の正月にさっそく二度目の聚楽第行幸があったわけで、当然ながら事前の根回しは秀吉側が行なっていたのでしょうが、そのあたりの秀次の様子について、藤田恒春先生の『豊臣秀次』2015年刊では…

「正月二十六日には、後陽成天皇の聚楽行幸があり、秀次に最初におとずれた試練であった。秀次は主上の御裾をもち、紫宸殿へ出御、それより鳳輦へ乗車するまで従わなければならず、なかば俄(にわ)か関白の秀次にとって息がつまりそうなことであったろうと推察される。この夜の御歌会に、秀次の名前がみえないのはこの辺の事情を物語っているようにも思われる」

という風に、まさしく天正16年の行幸で秀吉が務めた天皇出迎えの新たな作法を、20年の行幸では、そっくりそのまま 秀次が踏襲する形であり、したがって二度目の行幸とは、そもそもが「新関白の京の都でのお披露目」という意味合いでしか理解できないものだったのでしょう。

ちなみに行幸時に秀次は25歳、かの秀次事件は三年後のことで、享年28でした。そして行幸時に太閤秀吉自身はどうしていたか、と言えば、聚楽第で天皇を待ち受ける形であり、祝いの歌を進上するなどしたようです。
 

天正20年の行幸ならば【豊臣秀保か、豊臣秀俊=のちの小早川秀秋】!!

ご覧の五七の桐紋の輿(こし)が、後陽成天皇の鳳輦の直後を進む、というのはもともと不自然な描写なのかもしれませんが、ここはひとまず「桐紋=豊臣氏」という観点だけで申しますと――

第一候補の豊臣秀保(ひでやす)は、もちろん秀次の実弟(いずれも母が秀吉の姉の智(とも)=瑞龍院日秀尼!)であり、跡継ぎがなかった豊臣秀長の婿養子として大和郡山100万石を受け継いだものの、秀次事件直前の文禄4年4月の不可解な死(→ 家臣に抱きつかれて崖から転落)の伝承で長く語られてきた人物です。行幸時は14歳で享年17。

一方の豊臣秀俊は、幼少期には「金吾殿」と諸大名から呼ばれ、一時は秀吉の後継者と見なされていたものの、成長するにつれてそうした座を失って行き、ついに小早川家へ養子に出され、かの「小早川秀秋」となった人物です。行幸時は11歳で享年21。

天正20年の行幸ならば【織田秀信】!!

輿の家紋を織田木瓜(五つ木瓜)と見るかぎり、人物は織田秀信を描いたことになります。行幸時は13歳。

ただし前出のサイト「聚楽第 豊臣家の夢の跡」には、天正20年の時点で秀信は公卿ではなかった(→ 輿は分不相応)との指摘もありますが、後述のごとく屏風の制作は秀信の死後(慶長10年以降)の可能性もあるように思われまして、そこまでの正確な描写は求められていなかったのかもしれません。

で、織田秀信と言えば、本能寺の変のあとの清洲会議で「三法師」として織田家の家督を明確にしたものの、まもなく秀吉に政権を簒奪(さんだつ)され、豊臣大名の一人として高位につきました。

関ヶ原合戦では西軍に組し、居城の岐阜城が東軍に攻められて落城。戦後に高野山へ送られるも、祖父・信長の高野山攻めがアダとなって山内で迫害され続け、最後は高野山からも追放されて、山麓の向副(むかそい)で自害したとも、子孫を残したとも言われます。享年26。

この屏風絵は、さながら【不遇のプリンスたち】の集合写真のごとき構想で ……



――― 以上のごとく、ご覧の屏風絵は、一見すると豊臣礼賛(らいさん)の画題と見えて、その実は、豊臣内部の犠牲者たち、とりわけ “殺生関白” 豊臣秀次に近かった人物!が、事件の後に(否、秀秋や秀信の末路がわかる慶長10年以降に)彼等への「鎮魂」の思いから、巨費を投じて描かせた屏風ではなかったのか…… という、あらぬ空想が、私の頭の中をグルグルと駆け巡ってしまうのです。

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