伏見城天守と岡山城天守が同一デザイン?→「黒い天守」の始まりは伏見城ではなかったか

伏見城天守と岡山城天守が同一デザイン?
→「黒い天守」の始まりは伏見城ではなかったか

今回もまた絵画史料の凝視(ぎょうし)シリーズ、という訳でもないのですが、ここ何回かの「層塔型天守と天守台上の空地」という話に反する事例がひとつ、伏見城にあるような気がしておりまして、その件(※伏見城天守はなおも望楼型を維持した?)を補足的に申し上げておくべきだろうと思い立ちました。

で、そうした伏見城の話の先には、当サイトが発足時から申し上げてきた「豊臣秀吉創建の大坂城天守は必ずしも黒い天守ではなかったはず」という天守の「色」の問題についても、その先の超・大胆仮説を申し上げざるをえないのかもしれません。!…

個人蔵「洛中洛外図屏風」より / 屏風の右上端に大きく描かれた伏見城


ご覧の屏風は、ご承知のように2010年の名古屋市博物館『変革のとき 桃山』展で初公開された八曲一隻の洛中洛外図であり、屏風全体の八分の一ものスペースを使って、秀吉時代の伏見城(木幡山伏見城)がかつてなく詳細に描かれたものとして話題になりました。

一見して、私も天守壁面をおおい尽くした唐草や唐花文に目が奪われてしまったものの、よくよく見直しますと、建物の構想・デザインが、まことに意外なことに 岡山城天守とほぼ同一!である点に気づいてからは、私のかねてからの疑問をいっそう深める存在になって来ています。

と申しますのも…
 

まず上の方から申せば、両者はともに「最上階に高欄廻り縁が無い」という目立った共通点があります。

これが本当なら秀吉の天守としては異例の措置であり、また文禄元年から7年をかけて築城された高島城の天守とも共通するものですが、これら「黒い天守」の建造時期を確認しておきますと、伏見城天守(指月→文禄3年/木幡山→慶長2年) 岡山城天守→慶長2年 という風に、伏見城を先頭にして、ほぼ同時期に出現していたことになります。

(※ちなみに、こちらも同時期の建造と言われる「黒い」「高欄廻り縁のある」広島城天守については、4年前のブログ記事において、天守木造部分が福島正則時代の建造ではないのか? との西ヶ谷恭弘先生の指摘を支持させていただきました)
 

また両者はともに、入母屋造りを縦に三つ重ねた望楼型の天守(※岡山藩の書類上では「三重作り」)で築かれたようですが、建物の中段には大型の張出し出窓(やはり入母屋造り)を設けていて、その階の内部の平面形はどちらも「十字形八角平面」を成していたようです。

 

そして両者は二重目の平側に「唐破風の出窓」を特徴的に設けていて、とりわけ岡山城の場合は、そこで天守の壁面が(天守台の変則的な形状により)ゆるい鈍角の屈曲をみせているため、唐破風はあたかもその屈曲をごまかすための “飾り” とも見られました。

しかしご覧のごとく、伏見城天守の屏風絵と二つ並べてみれば、唐破風は屈曲をごまかすための飾りと言うよりも、ともに天守二重目の平側にそれ(本来は石落し?)を設けることが、共通の「定番意匠」であった可能性が見て取れるのではないでしょうか。

(※岡山城の場合、そんな定番意匠を逆手にとって、そこに定番の石落しが設けられない構造的欠点を隠すための “飾り” だった、と言うべきかもしれません…)

古絵図と現状の外観復元建物 / 烏城(うじょう)と称された黒塗りの外観

かくして、岡山城天守が、精緻な屏風絵の伏見城天守とほぼ同一のデザインであることは、ある程度のご納得をいただけるのだろうと思いますが、その一方で、岡山城天守と言えば、従来においては、安土城天主とか、豊臣大坂城天守との関連性ばかりが言われてきた天守です。

例えば明治36年の木畑道夫著『岡山城誌』では、『備前軍記』の記述をもとに「安土城ニ建築アリシ制ニ擬シテ天守閣ヲ設ク」という風に、安土城天主を手本にして築かれたものとしていて、そうした伝承が現に内藤昌先生の安土城天主復元案に多大な影響を与えて来たりもしました。

また近年では三浦正幸先生が、前出「三重作り」の構造はむしろ大坂夏の陣図屏風の豊臣大坂城天守に近いものだとされ、「古くに失われた秀吉の大坂城天守を偲ばせる重要な遺構であった」(『歴史群像シリーズ 岡山城』P55)という風に、豊臣大坂城との関連性が新たに言われました。

ところが、ご覧の問題の屏風絵が発見されて、岡山城天守に構造的に<いちばん似ていた>のは木幡山伏見城天守だった!? となりますと、話はちょっと違って来る…… どころか、私 及び当サイトにとっては、この上なく大きな “後押し” になりそうです。

と申しますのは、どうして岡山城天守が、安土城よりも、豊臣大坂城よりも、秀吉晩年の居城・木幡山伏見城に似ていたのか? と考えてみますと、少なくとも「烏城(うじょう)」は伏見城天守の出現を見たうえで構想されたとしか考えられないでしょうし、当然ながらその時、かつてなく「真っ黒い」天守が、たてつづけに登場したことにもなります。

となれば…









当サイトはスタート時から一貫して、最も初期の天守は白かったはず、と申し上げて来たわけですが、年度リポートの繰り返しで恐縮ながら、例えば、天守の歴史で最も早い部類に入る多聞山城は、永禄8年(1565年)の宣教師の訪問時に「壁のところは、私がかつてキリスト教国で見たことがないほど、白く明るく輝いて」(『フロイス日本史』)いたとの報告があります。

また羽柴秀吉時代の姫路城天守も、実は、細川藤孝が姫路沖の船から綺麗な天守が見えたと『道之記』に書いていて、白壁の存在を感じさせますし、その後の色彩が確認できるものとして「肥前名護屋城図屏風」の白い天守が続き、石垣山城天守もまた、小田原攻め在陣中(天正18年)の榊原家政の手紙に「天主矢倉は白壁が天を輝し」とあるそうです。

――― つまり、あらゆる文献や絵画史料で “外壁の色” が確認できる最初期の天守は、どれも、これも、白壁ばかり、という意外な事実があります。
 
 
 
<そもそも「黒い天守」は秀吉の隠居城!の指月伏見城に始まった様式であり、
 それ以前の天守は、すべてが寺社・宮廷建築や土蔵にならった「白漆喰壁」か、
 粗壁(あらかべ)のままだったのではないのか>

 
 
 
! こう申し上げてしまうのは、城郭研究の歴代の諸先生方が 例外なく主張して来られた定説中の定説(=初期の天守は黒く、その後の徳川の世で白くなった 等々)に真っ向から逆らう話になりますから、なかなか皆様方のご同意がいただけないのかもしれませんが、この話の背景にあるのは…

 ※天守とは「城の櫓」から派生した建築なのか?
 ※それとも「御殿」から派生した「立体的御殿」として誕生したものか?

という、二項対立の、決定的なテーマが横たわっています。

【御殿建築の典型】仁和寺 金堂(慶長18年建立の紫宸殿を移築したもの)

(※→ 当サイトでは、秀吉の大坂城天守の壁面は こうした白壁と黒い柱が基本だった、と考えております…)

かねてから、天守は「立体的御殿」として誕生したもの、と申し上げてきた当サイトにとって、冒頭からご覧の屏風絵は「大きな後押し」と見えるわけでして、黒い天守の始まりが伏見城(指月と木幡山)であったのは、屏風絵の描写のとおり、破風の妻壁が「真っ黒い木連格子」であるのが効いていて、そのために豊臣大坂城天守よりもずっと「黒い」印象を与えたのでしょう。

では、そこでなぜ「黒色」だったか、という観点では、もちろん伏見城が「隠居城」だったから、との理由が大きいのでしょうが、それがまたどうして豊臣諸大名の間で爆発的に広まったか? については、私の勝手な憶測としまして、かの秀次事件!の「反作用」があったのではないでしょうか。

すなわち、伏見城(指月と木幡山)の築城とまさに同時期に勃発した秀次事件のあと、以前にもまして太閤秀吉への強い忠誠心をアピールする必要性が諸大名の側に生じてしまい、その直後から、またたく間に「真っ黒い天守」が日本列島を席巻して行った! のではなかったか… と想像しているのです。
 
 
とにかく、今回の超大胆仮説の裏には「立体的御殿」をめぐる決定的な立場の違いがありまして、ひとえに…

<<< 日本古来からの歴史において、“黒い御殿” は まず 聞いたことが無い >>>

という「現実」こそが、私の強いこだわりを支えている根源的な動機なのです。→ → 黒い天守の出現と爆発的な普及は「隠居城の伏見城と秀次事件」という歴史的なイレギュラーの産物なのでは? という意味で。
 

 

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