岐阜城で信長時代の?天守台石垣発見。だからこそ残る巨大過ぎるナゾ

【緊急追記】 今上陛下のつぶやきが聞こえた日。
 令和で初めての天皇誕生日の一般参賀 取りやめは、独裁国ではない、
 民主主義国「日本」の底力を、世界に見せる時を告げたようです。

【それにしても、それにしても… の仰天文書】
 ――― 本当に「意味のない質問」をしていた辻元清美議員。

この下に添付の「ANAホテルからの回答文書」は辻元清美オフィシャルウェブサイトに今も載っているものですが、こんなに大ざっぱな問い合わせに対して、ホテル側が「ございません」「ございません」と答えるのは一般社会では当たり前のことで、この程度の文書をもとに、鬼の首を取ったように延々と「桜」関連の国会質疑が行なわれていたとは思わず、本当にガッカリです。!

国会議員はこんなことをしている場合でしょうか。安倍総理の「意味のない質問だよ」は、きっと誰だって、思わず言いたくなる文言でしょう。
(※上記「回答文書」上の薄い赤色は、当ブログの着色です)

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岐阜城で信長時代の?天守台石垣発見。だからこそ残る
巨大過ぎるナゾ

さてさて、岐阜城の天守をめぐっては一時期、「織田信長の時代に金華山の山頂には天守は無かった」などという考え方も流布しましたが、今回の「大発見」で、織田信長または二代目の織田信忠のころ、やはり山頂には、天守に類する建物があった可能性が認められた格好になりました。

【はじめに/ナゾの大前提】
では、豊臣政権下の 岐阜城はどうなっていたのか。「本能寺の変」後の城主たち…


 

今回の岐阜城での「大発見」(→ 現状の復興天守の天守台直下、北西角で出土)はすでに様々なサイトで似たような写真が多数、アップされておりまして、同様の写真になって誠に恐縮ですが、写真上に私の関心事を図示してまいりますと…

調査員の方の説明によれば、角に一つだけ飛び出したような石は、算木積みの細長い隅石が、グルッと回転した形で埋まっていたものだそうです。そして写真の上半分の石は、ご承知のとおり明治以降の積み直しですから…

今回の発見でいちばんのキモは最下部(オレンジ色)の「間詰め石」の存在らしく、これまでの岐阜城での発掘成果(→「間詰め石」のある石垣は、斉藤氏の時代ではなく、その次の信長以降の石垣と判定されている)を踏まえれば、明らかに積み直し部分とは様子が異なり、間詰め石や裏込め石があって信長以降の特徴を備えていて、なおかつ後世に手を加えられた形跡が無いとのことです。

【ご参考 / 城内の他の場所での例示】
 間詰め石ナシ=「斉藤期の石垣」  vs  間詰め石アリ=「信長以降の石垣」

【それでは、積み直された現状の天守台の方は…】
幕末以降の積み方の「落し積み」で積まれ、隅角部には細長い隅石の「算木積み」が。



――― といった状況において、私の 第一の関心事 として申し上げてみたいのは、上記の回転した隅石は、長辺が短辺の3倍程度はありまして、こうした細長い隅石は、現状の積み直し天守台をグルッと見回しますと、かなりの数が使われているため、現地では逆に、こんな興味を感じてしまったのです。



おなじみの、明治43年に岐阜城の山頂に建てられた、木造トタン屋根の模擬天守

そこで明治43年(1910年)にご覧の模擬天守が建てられたとき、天守台はどうなったのか? と確認してみますと、どうやら「石垣を改築し規模を小にして原形に改むる」(『岐阜県史蹟名勝天然紀念物調査報告書』)というほんの短い報告文だけが唯一の手がかりのようです。!

すなわち、そこにあった天守台跡の崩れた石垣を改築して、小さめに造り直したらしい、というのですから、おそらくは “あるだけの石” を寄り集めながら、よりコンパクトに天守台を仕立て上げたというのでしょう。

そしてその後、模擬天守が火事で焼けて、昭和31年(1956年)に現状の二代目の復興天守が鉄筋コンクリート造で再建された時はどうか、と言えば、金華山の大部分が国有林のために「資材搬入用の道路を造ることができず、南麓の資材置き場と山頂を空中ケーブルで結びピストン輸送する」といった難工事で完成したそうですから、その時も、天守台用の石を新規に外から運び上げた、ということは無いらしく、施工時に石垣内部の補強を行っただけだと云います。

!! ということは、やはり問題の「細長い隅石」は、明治43年の時点ですでに天守台周辺にあった石材、と考えても良さそうでありまして、そうした「細長い隅石」を使った算木積みは、安土城の天主台(※発掘された北面の隅角部)にも見られるため、まずはこの点が、私なんぞは気になって仕方がないのです。…
 

【過去の当ブログ記事より】山麓の「四階建て御殿」と山頂天守の関係性イメージ

加納城 御三階櫓 の古絵図(『御三階野絵図集ノ平』より)

さらにここで私が気になる 第二の関心事 を申しますと、ご覧の「加納城 御三階櫓」の伝承や解釈はどうなってしまうのか? という点に他なりません。

皆様ご承知のとおり、加納城の御三階櫓は、慶長6年に岐阜城が廃城になった時に、山頂の天守を加納城に移築したものと伝わっておりまして、ただしその移築天守は信長の創建天守ではなくて、豊臣政権下で池田輝政が新規に再建したものである、との説明がなされて来ました。
 
 
ところが、新発見の天守台跡は「後世に手を加えられた形跡がない」というのですから、地下にもっと古い天守台が埋まっているならまだしも、少なくとも今回の「信長以降の石垣」と判定された石垣の築造は「一度きり」だったわけですから、矛盾(むじゅん)が生じています。

ひょっとして天守台は共通のまま、その上に池田輝政が自らの天守を再建した可能性もなくはないのでしょうが、そうなると池田氏は、豊臣大名としての観点でも「信長以降の石垣」のままで技術的・強度的に問題は無いと認めて、そのまま初重が6間×7間の三重五階(又は四重五階)の天守を載せてしまったことになりそうで、ちょっと疑問を感じてしまうのです。

ちなみに当ブログは一貫して「山頂には二重天守などの小規模な天守が存在したはず」と申し上げて来ましたが、この際、あらゆる疑問を払拭するためには、もう一つ別の考え方を模索すべきなのかもしれず、今回のブログ記事はそのあたりに焦点を当ててみたいのです。…

さて、現状の岐阜城跡には、大きく分けて「斉藤期の石垣」「信長以降の石垣」「明治以降の積み直し」という三種類の石垣が分布していることになります。

そして新発見の天守台跡は「信長以降の石垣」に分類されましたので、昨年、金華山中腹で確認された石垣や、いわゆる信長公居館跡の信長・信忠時代の石垣と「同じ部類」に属するものとなり、現状では、これらはすべて一体として「織田信長の岐阜城」を示す石垣、と見られがちな状態です。

となれば、ここで、どうしても申し上げざるをえない大問題が―――

【巨大過ぎるナゾ】
この武将らは、岐阜城内のいったい どこを 使っていたのか!?
<<「本能寺の変」後の五人の城主たち>>



→→ 豊臣政権下の岐阜城内はどうなっていたのか。石垣の「改修」を全くせずに…

! こうした観点で岐阜城を見直してみますと、城郭ファンであれば、例えば岡山城の本丸・中の段で発掘された「度重なる石垣改修の跡」などを連想してしまうわけでして、五人の城主は、いったいどういう風に岐阜城を使ったのか? という【巨大過ぎるナゾ】が浮き彫りにならざるをえません。

とりわけ、岐阜城の修築を行なったと伝わる池田輝政は6年間、そして関ヶ原合戦の前哨戦で東軍を岐阜城で迎え撃った織田秀信は8年間も、それぞれ居城として使ったのですから、彼らが「改修した石垣」が城内で一箇所も特定できない、というのは、かなり不自然な状態ではないでしょうか??

…… と言っても、別に私は「無い物ねだり」をしたいわけではなくて、それならそれとして、どうして豊臣大名らが岐阜城を使った痕跡が見えて来ないのか(=見えにくいのか)を究明するために、大胆な仮説を立てて、原因をしぼり込んでみるのも一興なのでは? と申し上げてみたいのです。

【そこで、またまた大胆仮説を】
五人の城主は、平地の「昔御殿」だけを、居城化していたのではないのか!?

こんな特異な築城プランは類例が限られるものの(※まずは豊臣政権下の安土城!がどうなっていたのか気になりますし、近世城郭ならば、堀尾吉晴の月山富田城とか、池田長吉の鳥取城などが若干似ているのかもしれません…)非常に極端な使い方として、いわゆる信長公居館跡から上の金華山全体については、豊臣大名らは「織田信長ゆかりの聖域として全く手をつけなかった」か、やむなく「関ヶ原合戦に備えた最小限の櫓等の修繕だけを行なった」のではないか、という大胆仮説です。

もしもこのようであれば、山麓から中腹、今回の山頂天守台に至るまで、斉藤期以外はすべて同様の「信長以降の石垣」でおおいつくされ、しかも豊臣大名による改修の跡(もしくは時期差)が一箇所も特定できない、という “不思議な状態” の説明がつくのではないかと思ったわけです。

(※補足:上記「昔御殿」は現在、岐阜公園となっていて、池を含む周辺が「昔御殿」に該当します。明治以降に様々な施設が建てられて来た場所であり、これまでに殆ど発掘調査はなされておりません)

以上のような仮説の上であれば、前出の「織田信長の創建天守―(池田輝政の再建天守)―加納城に移築の御三階櫓」をめぐる “矛盾” についても、ひとつの突破口的な解釈がありうると思うのです。

すなわち、今回「信長以降の石垣」と認められた新発見の天守台跡が「築造は一度きり」なら、山頂の天守というのは、池田輝政による再建(解体修理?)の伝承はあるものの、その実は、

  信長時代から関ヶ原合戦後の廃城までの30年あまりの間、ず―――――っと、
 「信長創建天守」が山頂に建ち続けていた!!…

 (つまり加納城の御三階櫓こそ、信長の創建天守そのものの移築建物だった)

という解釈しか、もはや、無くなって来ているのではないでしょうか。
 

(※次回に続く)
 

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