「懸造り」追伸… 天下普請の江戸城の大きく突き出た小天守をめぐる、もしや?もしやの可能性

【緊急引用=デイリー新潮より】
<「河井案里」捜査の裏に “検事総長の怨念”。敵は安倍官邸>

※話題の主、稲田伸夫検事総長 63才

ベテラン議員秘書:「正直、1万5千円ではまともなウグイス嬢は雇えないというのが常識です」

そして、あの望月衣塑子・東京新聞記者のツイートをきっかけにした「#稲田検事総長を守ろう」もある、というドロドロの実態。新聞やTV局はまるで報道しておりませんが……。
 
 
 
で、冒頭余談 / 前回「李完用」番外編の反響にお応えして…】

1979年、北米在住のひ孫らが遺骨を掘り返した 李完用夫妻の墓
(全羅北道益山市)

夫妻の遺骨は、簡易的な化粧をほどこして、近くの川に流してしまったという。
墓の位置はかなりの山中にあり、しかも村人も作業に加わったとのことで、
厄介払いなのか、その方が平穏、という意味なのか、動機は明らかでない……

改めて思いますに、李完用の生涯とは、例えばラストエンペラー・溥儀よりも(自らの信条や策謀がすべて裏目に出てしまった、という点で)はるかにドラマチックであり、シェイクスピア悲劇の登場人物のようですが、そこでもう一枚、有名な写真をご覧いただきますと、こちらは1907年10月、皇太子時代の大正天皇(嘉仁親王)が大韓帝国を訪れた際に、景福宮で撮ったという写真です。

皇太子時代の大正天皇と 英親王(李垠 りぎん)を中心とした記念写真

この写真は、見れば見るほど、人物の並び方が興味深い一枚でありまして、さながら ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を見るかのような感慨を覚えます。…

と申しますのは、撮影を担当したのは現地で写真館を営んでいた村上天真ですから、写真全体の中心は大正天皇になっておりますが、一列目と二列目の人物だけを見れば、人々の並びの中心は当時10歳の英親王(李垠)であったと判ります。

つまり写真家の村上天真は、左端の最後列に “プラスα” の人々をわざと配置して、写真の中心が大正天皇になるように!ズラして撮影したことが、見え見えなのです。

そして本来の中心人物・英親王は、右側に有栖川宮威仁親王、左側に大正天皇、背後の右側に桂太郎、左側に東郷平八郎、という四人の日本人にガッチリと囲まれる形になっていて、このあと英親王が日本に留学したことを連想させる形であり、しかも二列目を見ますと、大正天皇の背後の四人は、右から日本の文官(桂太郎)と武官(東郷平八郎)、大韓帝国側の文官(首相の李完用)と武官(李秉武)という風に、大正天皇に付き従う形での “政治的ヒナ壇” も工夫したようです。

そしてそれらの右端でドッシリと(やや横柄に)存在感を見せているのが伊藤博文で、その背後の左側は小松緑かと思われますが、伊藤は明治の元勲らしく??右手をポケットに入れたままでして、その正反対に、李完用は、これらの中で いちばん体に力が入ったままの直立不動、という一枚なのです。

――― それもそのはず、と申しますか、ピシッと両足をそろえた李完用は、“沈黙の提督” 東郷平八郎と間近に並んだものの、2年前の日本海海戦ははるか昔の事のように感じていたはずで、何故なら、この写真を撮った3ヶ月前には、かの「ハーグ密使事件」が(首相になった2週間後に!)発覚して、その後やむなく高宗は子の純宗に譲位し、第三次日韓協約も締結され、この時の大韓帝国は、外交権だけでなく、内政権までも日本に接収されてしまった中での、この記念写真だったのです。

※          ※          ※

【前々々回ブログより】超大胆仮説 <<織田信長「創建」岐阜城 山頂天主>>

さて、そろそろ当ブログは「天守の話題」に戻らなくてはいけませんで、ご覧のイラストは、昨年末の金華山山頂での大発見を受けて、懸造りは「見せる山城」の必須アイテムか? との仮説に基づいて作成したものですが、こうした「懸造り」はその後、山城以外にも、各地の城で活用されたことはご承知のとおりです。

ご覧の山城の苗木城から、織田信長にならって(か)豊臣秀吉も平山城の大坂城の千畳敷を懸造りにしたとも言いますし、伊達政宗の仙台城の天守代わり?の懸造り(眺瀛閣 ちょうえいかく)も有名ですし、下記写真の福山城の御湯殿は、前身が徳川再建の伏見城の建物だったと伝わりますから、徳川家康もまた、信長にならって「懸造り」の効用に興味をいだいたのかもしれません。

【ご参考】日本全国のお城をめぐる無料GPSスタンプラリーアプリの「ニッポン城めぐり」様より
福山城の懸造りの御湯殿(再建)と伏見櫓

――― となると、もう一つ、私なんぞが(余計な)可能性を感じてしまうのが、家康時代の江戸城(=平山城!)なのです。
 
 
 
<「懸造り」追伸… 天下普請の江戸城の 大きく突き出た小天守をめぐる、
  もしや?もしやの可能性 >

 
 

松江歴史館蔵『極秘諸国城図』所収の「江戸始図」には
天守曲輪の西側(左側)石垣に 大きく突き出た「小天守」が 描かれる





ところが、有名な都立中央図書館蔵『慶長十三年江戸図』では
その「小天守」が 抜け落ちている !!

この不思議な現象は、以前のブログ記事(『江戸始図』の「小天守」はどこに消え失せたのか??)でも申し上げたことですが、二枚の城絵図は、想定年代が全く同じ!(『江戸始図』も慶長12~14年)というガチンコ状態にあります。

これはいったい、どういうことか… と “原因” を探ろうにも、やはり現存の石垣は、城絵図の時期から 5~7年後に築き直されたものですから、どうにも手がかりが少ないのです。

【現状】富士見多聞櫓と本丸西側の現存石垣(=慶長19年築造)

そこで今回は、改めて、問題の「小天守」はどの位置にあったのか? 地図上でもっと具体的に特定してみることにします。

2012年度リポートより/『江戸始図』の方を現在の地図上にダブらせた図

(※より詳細な地図に差し替えた拡大版)

このように家康時代の本丸西側の石垣は、現存石垣よりも、やや本丸側に入り込んだ(セットバックした)位置にあったのかもしれません。

そして地図の「バラ園」前の「コの字型に並んだベンチ」のあたりに、総高が10間(約20m)に及ぶ天守台が築き上げられていたわけで、天守曲輪も含めて考えますと、巨大な「詰めの城」のごとき山塊がもう一段、ドサッとここに積み上がっていたのだ、という風に、想像力をたくましくせねばならないようです。…





(※以前のブログ記事で「1680坪」と伝わる巨大な天守曲輪を想定したイラスト)

という風に、当時は「高さ」の印象がかなり違っていた可能性がありまして、こういう天守曲輪や「小天守」からの眺望というのは、現存の富士見多聞櫓からの眺望とはずいぶんと違っていたのかもしれません。――― と考えた時、「懸造り舞台」という、新たな視点が浮上して来るのです。

つまり、同時期の城絵図で 描写が “有ったり 無かったり” したのは、問題の小天守が、懸造り舞台をともなっていて、大きく突き出たのは「舞台」!だったと仮定しますと、そんな部分を城絵図に描くか描かないかは、けっこう微妙な判断になったのではないでしょうか。

【新イラスト】 天守曲輪を眺める角度を変えて、
ぐるっと北西側に回りこんで、上空から見下ろした状態の本丸西側



【ご参考】現存の富士見多聞櫓の武者窓の間から見えた、紅葉山
(※手前は乾通りと門長屋、宮内庁の総合倉庫。この日は乾通り一般公開の日)

ということで、ご覧の新イラストは、城絵図の「小天守」をめぐる不思議な状態からインスピレーションを得たものでして、懸造り舞台からの眺望は、上記写真よりも10m近く高い位置からの眺望になりそうで、それは取りも直さず <富士見の懸造り> だったのでしょうから、家康の好みとも、しっかりと合致していたのではなかったでしょうか。…

(※補足:『江戸始図』『慶長十三年江戸図』はともに、本丸西側の石垣に「土塁」の描写が無いのですが、前述のセットバックの影響で、やはりここも鉢巻石垣の下に土塁、といった形でないと三次元的にうまく復元できないため、上記のごとく描きました)
 

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