描かれた元和度天守の初重は「土蔵」構造!→ 天守台は低いもので穴倉は無かった

【緊急追記】もはや 中国人の「顔」は完全に QRコードと 同じもの!!
 → これが進歩した世界か? という問いこそが、現下の巨大なテーマ。

 The “face” of a Chinese person is completely the same as the QR code.
 Le “visage” d’une personne chinoise est complètement le même que le code QR.

そして CNN報道でも アメリカの最新情勢は、トランプvsバイデンの支持率が接戦らしい。
 

それにしても、トランプ大統領はバイデンを「過激な左翼のあやつり人形」と呼んだそうですが、大半のアメリカ国民もそんな風に感じているようで(→ バイデン親子の中国との関係性や、老齢で4年もたないと見る人が半数も!)そうであれば、一ヵ月後から始まるテレビ討論会は「あやつり人形」相手では意味がないでしょう。

ひょっとするとトランプは「自分vsハリス」「ペンスvsバイデン」という “より実態に合った討論会” を言い出すかも?… やはり民主党の中国政策は優等生的で、中国共産党 独裁政権がねらう「世界観」そのものをつぶす、という強固な意志が感じられません。(※テレビ討論会は9月29日~10月22日に3回予定)
 
 
【一つの結論】描かれた元和度天守の初重は「土蔵」構造!
       → 天守台は低いもので穴倉は無かった

中井家蔵「江戸御天守」建地割図


(同図を左右反転しつつ2枚を貼り合わせてみた状態)

さてさて、このところ話題にして来た「江戸城の元和度天守」について、今回は一応の【結論】めいた内容を申し上げてしまいたいのですが、ご覧の建地割図は断然、元和度天守を描いたものでしょうし、とりわけ図の初重は、実に多くの事柄を伝えていると感じられてなりません。

と申しますのは、まず第一に、ご覧のように初重の全高にわたって「通貫」が縦に等間隔で!通してある点で、これは一見して「まるで土蔵のよう…」としか思えない描き方でありまして、典型的な土蔵の造り方(構造)については、例えば日本民家再生協会編の『よみがえる蔵』を参照しますと…



同書39ページに掲載の図解(作成:網野隆明)/※ 赤い枠 は当ブログの加筆


(※同書/大沢匠「なぜ蔵に魅かれるのか」より)

…… 強固な基礎の上に載る木構造も蔵ならではの特徴がある。柱の本数が多いことがまずあげられる。(中略)そして柱と柱を水平につなげる何本もの「通し貫」が文字どおり柱を貫通し、柱との接点にすべて楔(くさび)を打ち込んで全体を緊結する。この段階の蔵はまるで 鳥籠 のような姿である。
 
 
という風に、土蔵とは基本的に、柱と何本もの「通し貫」で「鳥籠」のように造られるものだそうで、これはもちろん <強度を高めること> や <窓をほとんど考えなくていい> といった土蔵ならではの要件から来るのでしょうが、そんな構造が、ご覧の天守の初重にも、はっきりと 示されているのではないでしょうか?

<当図の天守の初重は「天守台の穴蔵代わり」だったのか…>

もしそうであるなら、この建地割図は、取りも直さず、元和度天守の構想にはどういう意図が込められていて、どんな建て方の天守だったのか、という天守造替の経緯を、この上なく、雄弁に物語っているように見えてなりません。
……

で、前々回のブログ記事では、このイラストをお目にかけましたが、すでにお気付きのとおり、天守台は かなり低い天守台として 描いておりまして、こうした描き方は、実は、三代将軍・徳川家光のある逸話に基づいたものです。

江戸図屏風に描かれた徳川家光像のひとつ

どういう逸話かと申しますと、のちに元和度天守を取り壊して 寛永度天守を築いた家光 自身が、新たに築かせた高さ「七間」の天守台を、実際には「高過ぎて 気に入らなかった」! ! !……(※若い頃から見ていた元和度の低い天守台との比較で?)との驚くべき記録があるからです。

これはかつて小松和博先生が『江戸城-その歴史と構造-』の中で紹介された話ですが、かの明暦の大火で寛永度天守が焼け落ちたあと、天守台の修築をめぐるエピソードとして…

(同書より)

九月二十七日、前田綱紀に天守台修築の命がくだり、焼け石をとり除いて全く新しい天守台を築き直すことになった。 従来の天守台が外郭からも見えて宜しくないという家光の意見で(生前そのような発言があったのだろう)、新天守台は六間の高さにおさえられた(『江府天守台修築日記』)。
 
 
――― ということで、家光自身は「天守台が城外から見えるのは格好ワルイ」と思っていたらしく、そんなことを言ったら私が子供時分に見なれた(※前回記事でも話題の徳川忠長が城主の)甲府城は、市街から天守台が丸見えですが… いずれにしましても、家光がそう感じていた以上は、元和度天守は「城外からは見えない程度の低い天守台だった」と考えて然(しか)るべきなのでしょう。!…

そこでご覧のイラストは、そんな “状況証拠” に基づいて、本丸の外からは見えにくい「低い天守台」として描いたのですが、こうしてみますと 奇(く)しくも、このように低い天守台に「穴倉」は造れなかったことでしょうし、そのうえ、天守初重が「穴倉代わりの土蔵造り」というのなら、それら全体は、しっかりと <合致> していたことになります。!

思いますに、それらは極めて計画的に、意識的に行なわれた事柄のはずで、その背景には、かの元和偃武(げんなえんぶ)の諸政策… すなわち一国一城令や武家諸法度に始まる諸政策があって、天下に範を示すために、家康時代の壮大な天守曲輪を廃して、あえて「低い天守台」が選択されたのではなかったでしょうか。

(※ → → で、その逆を申せば、家康時代の高さ十間もの 壮大な天守台であれば、初重が土蔵造りなどという工夫や配慮は、そもそも必要なかったはずです)

(※そのうえ、家康時代の天守台には度重なる改築の記録(『当代記』)があって、それらは穴倉の形式=半地下か否かに関連したものと思われる以上、話題の「建地割図」はやはり、家康時代の慶長度天守ではない、と重ねて強く申し上げるべきなのでしょう)
 
 
 
<ならば元和度天守の外観はいかに?
 土蔵代わりの初重の外装には「海鼠(なまこ)壁」等がふさわしい。
 今回の内容に、いちばんピッタリ来るのは『武州豊嶋郡江戸庄図』>

 
 
 
さて、近年は元和度天守を「白漆喰の総塗り込め」とする復元CGをよく見かけるようになりましたが、残念ながら、元和度天守が白漆喰の総塗り込めだと裏づけられる「明確な証拠」の類いは、いまだに見つかっておりません。

そんな中で、今回の「初重が土蔵造り」という観点も加味しますと、全体が白漆喰で塗り込められていたと考えるのは、いっそう無理が出るようでして、むしろここで想起されるのは(何度も繰り返して恐縮ですが)『武州豊嶋郡江戸庄図』(ぶしゅう としまごおり えどのしょうず)です。

都立中央図書館蔵『武州豊嶋郡江戸庄図』に描かれた天守
(※寛永9年作/=まさに元和度天守が存在していた時期)

厳密に申せば、ご覧の天守台は周囲に「空地」のある天守台としては描かれておりませんので、そこはやや減点になるものの、ご覧のごとく、天守は 初重と最上階だけが他の階とは明らかに異なる描き方 になっていて、その点は今回話題の建地割図にきっちりと合致しております。

ちなみに 過去の当ブログ記事では、この初重の描き方を「柱を見せた真壁づくり?」と申し上げたこともありましたが、「初重が土蔵造り」に積極的に寄り添うには、海鼠(なまこ)壁と見た方がいいのかもしれません。

金沢城での海鼠壁の使用例(いずれも復元)

(※漆喰は風化して粘性がなくなると剥げ落ちる弱点があり、海鼠壁はその弱点をおぎなうために、
漆喰の上に平瓦を貼り付けて、その目地に漆喰を盛り上げて防護したもの)

では最後に 思い切って 色々と申し上げた事柄を総合して、建地割図に「色づけ」してみようかと思うのですが、前々回ブログのごとく、もしも破風の妻壁に鉄砲狭間がズラリと並んでいたなら、そこは銅版張りで強化されたのかもしれませんし、白い鉛瓦の屋根で、なおかつ初重と他の階の壁面が異なっていたなら、天守全体はそうとうにカラフルな外観になったはずです。



これはあくまでも、大ざっぱなイメージをつかむための「色づけ」でして、かくもカラフルな、元和偃武(げんなえんぶ)の世にふさわしい「綺麗さび天守」も、ありえたのではなかったか…… と。

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