問題の江戸城本丸「?」スペースは、大半が後の駿河大納言=徳川忠長邸という 嫌な可能性も?…

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【で、またもや冒頭余談を】

… これがもし今後、世界の民主主義の国々で賛同を得ていくなら、中国共産党員 は事実上、海外旅行も、留学も、隠し資産の国外逃避も できない時代に。→ 中国国民の未来を考えれば、これは非常に <うまい方法> なのかもしれない。


(※例えば 例えば… 中国共産党員としても知られるアリババ創業者の馬雲 ジャック・マー)

 
問題の江戸城本丸「?」スペースは、
大半が後の駿河大納言=徳川忠長邸という 嫌な可能性も?…

さて、今回の本筋の記事は前回の続きというより、中間的な「補足」として申し上げたいのですが、ご覧の「?」スペースは、前回記事の「ほったらかし」といった解釈の他に、もうひとつ、ちょっと嫌(いや)な可能性もありうるのかも… というお話です。

と申しますのも、図の「?」スペースや本丸北側西側の高石垣が 慶長19年 に築かれたのだ としますと、その8年後、元和8年の元和度天守(台)築造の際には、築造の邪魔になるため「梅林坂の辺りにあった徳川忠長の屋敷を取り壊した」との有名な記録があり、そんな理由がついたからには、当時の忠長屋敷はもちろん梅林坂の下ではなく、坂の上(つまりは「?」スペースのどこか)にあったはずでしょう。

となると、当然ながら、その屋敷は <いつからそこにあったのか?> という重大な問題を含んでいるのです。!

【ご参考】武州豊嶋郡江戸庄図をもとに作成

(※榊原(松平)忠次が編纂した『御当家紀年録』元和8年の記録より)

甲斐参議 忠長卿 営作の間、松平式部大輔忠次の宅に移らる <忠長卿の住所、本丸の東北 梅林坂辺に あり。今度その所殿主台を築くに碍(さまたげ)あり。ゆえにかの住所を毀(こぼ)つによりてなり>。

(※ご覧の『御当家紀年録』は集英社発行版からの引用)
(※「梅林坂辺」の屋敷がいつから建っていたか、といった記述は無い)

――― 話題の主・徳川忠長(ただなが/屋敷の移転時は元服後の17歳)は、ご承知のごとく二代将軍・徳川秀忠の三男にして、幼少時は兄の竹千代(三代将軍・家光)をしのぐ才気を示し、母の江(ごう/崇源院)が忠長だけは手元で育てたいと願い、そんな経緯からやがて諸大名から「次期将軍か」と目され、19歳にして「駿河大納言」と呼ばれる地位についたものの、兄・家光との確執から悲劇的な末路をたどった人物です。

そんな忠長は、屋敷の移転時は甲府藩主であり、従四位下 参議 左近衛中将で、まだ駿河や遠江は領しておりませんので「甲斐参議」なのですが、もともと元服前は甲府に入ったこともなかったらしく、元和4年のエピソード(=世継ぎの家光が住む西丸の堀で 忠長が鉄砲で撃ち取った鴨を、江が嬉々として秀忠の膳の料理に加えると、秀忠が驚いて怒ったという話)は13歳ですから、忠長は西丸で生まれてから ほとんどの期間を江戸城本丸で暮らしたのでしょう。
 
 
そして元和6年に家光が17歳、忠長が15歳で同時に元服(→ 家康の死去で延期されていたもの)を迎えると、忠長は「二の丸」?に移った との記録もあるそうですが、ご承知のとおり寛永以前の二の丸は(現在の庭園がある)広い曲輪ではなく、帯曲輪 同然の狭いものであって、しかもそこに誰かの御殿が建てば大手土橋からの入城や防備に弊害をもたらしたでしょうから、かなり不審な記録(『本光国師日記』)だと言えそうです。

したがって記録の「二の丸」というのは寛永以降とは違う場所で、ひょっとすると「?」スペースなのでは… とも思うのですが、それは後ほど検討するとして、それから元和8年正月、忠長は天守台工事に先立って梅林坂辺の屋敷をあけわたし、一旦、榊原忠次の屋敷に移って、翌年3月に吹上と北丸の間に完成した新邸に入りました。

――― ということで、移転前の「?」スペースの屋敷について考えるには、まずは移転後の新邸がどういうものだったか、確認しておく必要がありましょう。

移転から数年後の? 三代将軍・家光時代の景観という『江戸図屏風』には、
左隻の右上隅(本丸の右上)に「駿河大納言殿」の新邸が描かれている



この屋敷は吹上の北部、北丸に接する広大な敷地を占めていた

 

『武州豊嶋郡江戸庄図』ではご覧のド真ん中の広い敷地が「駿河大納言殿」


例えば移転の16年前にさかのぼって、慶長十三年江戸図(慶長江戸絵図)で
敷地を「赤く」表示してみると、細い水路を 境界線に利用したことが分かる



同じく江戸始図で赤く表示すると、広さは、本丸の三重の馬出し曲輪を上回っていた?

 
それでは、ためしに 冒頭の「?」スペースのうえに、新邸の敷地面積を当てはめてみますと、なんと…

!!――― 面積だけで申せば、ほぼピッタリ。 しかも、あたかも本丸を「半分ずつ分け合う」かのような過大な規模に。…

とは申しましても、移転前の屋敷と、移転後が、必ず同じ規模、などという法則は無かったでしょうし、事の経緯から申せば「どいてもらった」(→実態は 本丸から退去してもらった?)手当てとして割り増し分もあってしかるべきでしょうから、このように「ほぼピッタリ」というのは、気持ち悪い偶然 と見るべきなのでしょう …

ましてや「本丸を(将軍秀忠と)半分ずつ分け合う」など、城郭プランとして有りえないことですが、しかし、しかし、こうしてみますと、以前の忠長屋敷がいかに小規模だとしても、さすがに三重の馬出し曲輪があった時代は、そのあたりに忠長屋敷など納まりようがなかった(→ 慶長19年の工事後だから納まった!)との「現実」も浮き彫りになるのではないでしょうか。

という風に思い至った時、そもそも、慶長19年の石垣工事(※大坂の陣の直前)は何のために行なわれたのか―――西国大名をクギ付けにするためだけでなく、徳川将軍家の 家族 の間にも「特殊なクサビを打つ」ねらいがあったのでは――― という戦慄(せんりつ)が走るのです。!

芯の強い母親=大坂城の淀殿の妹である「江」と、次期将軍の才気ある弟の「忠長」

 
 
<問題の江戸城本丸「?」スペースは、
 大半が後の駿河大納言=徳川忠長邸という 嫌な可能性も?…>

 
 

ここまでに申し上げた事柄を踏まえますと、ご覧の状態が慶長19年の石垣工事によるものであり、「?」スペースのどこかに「移転前の」忠長屋敷があったことは、まず間違い無いのでしょうが、要はその屋敷の性格や「規模」が問題でありまして、ここに私なんぞは ある嫌な可能性を 感じざるをえません。…

「何が嫌か」と申せば、とにかく時期が 大坂の陣の直前 という極めてセンシティブな時にあって、忠長と一緒に暮らす母親の江(崇源院)はどうしていたのか? という興味が尽きる事はありませんが、例えば宮本義己先生の『誰も知らなかった江』を読んでも、また「江は家光の生母ではない」との明言で話題になった福田千鶴先生の『江の生涯:徳川将軍家御台所の役割』を読んでも、大坂の陣を前にした二人の「心理」を伝える史料は、何も残っていないようなのです。!
 
 
そんな江の実像について、福田先生は著書で「一次史料(同時代に作成された史料)はもちろんのこと、二次的な史料(後代に作成された聞書や編纂史料など)にいたっても、江がその姿をはっきりと現すことはほとんどない。故意に誰かが史料を隠滅したのではないか、と疑いたくなるほど、なにも残っていないのである」と書かれ…
宮本先生もまた「その歴史的役割に反して伝承資料が極端に少なく、あまりにも謎のベールに包まれている」として「これまで見過ごされてきた」史料を見直すことから『誰も知らなかった江』を書かれたとのこと。
 
 
という状況なのですから、当時の江や忠長は、あえて黙っていたのか、黙らされたのか、口走った事が取り消されたのか、いや、周囲の気づかい、とりわけ秀忠による6歳年上の正室・江に対する忖度(そんたく)が功を奏して、江や忠長は極端な言動をとらずに済んだのかも… などと想像するなかで、

――― 慶長19年の本丸工事では、秀忠が、気をもむ江をなだめる「鎮静剤?」として、江が暮らす奥御殿のすぐ北側に「広大な忠長邸」を約束したのではなかったのか…

という、ちょっと “嫌な妄想” が頭に浮かんでしまったのです。


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【憶測】本丸北側の厳重な高石垣は、実は、忠長を守りたかった江の 執着心の 現れ!?



 
【 追 記 】

現状の一般的な「日本史」においては、徳川将軍の正室で次期将軍の生母になれたのは 江だけ、という風になるそうですが、もし福田先生の「江は家光の生母ではない」を信ずるなら、その江さえも外れてしまい、結局、<徳川将軍の正室が産んだ徳川将軍は一人もいなかった>! という妙な <江戸時代観> が浮上して来るわけでして、そのことと今回のブログ内容(※江や忠長の思わぬ存在感)は底辺で通じていたのかも、と。

思えば、徳川家康が竹千代(家光)を秀忠の世継ぎと厳命した理由の「長幼の序」というのは、確かに徳川幕府の安泰をはかるうえで貴重なルールになったのでしょうが、福田先生の「江は家光の生母ではない」が本当ならば、その時の「長幼の序」は 都合のいい言い訳に使われただけであって、実際は、江の血筋(=織田信長との血縁)を徳川将軍家の血筋に残したくなかった、という 家康の本音 がほぼ100%だったことになりましょう。(→ かつて信長の長女・徳姫が、松平信康の正室になり、その結果……)

そして最後に付け加えるなら、増上寺の徳川家墓所の発掘調査の結果、一門の中で火葬になったのは「江だけ」だった、という話もやや気になります。そして幽閉先の高崎城内で自刃した忠長も火葬であり、近くの大信寺に葬られたものの、死後43年間、墓石を立てることを許されなかった、という話も。
 

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