織田信長による洛中洛外「放火」事件から見た「天下静謐(せいひつ)」の具体的進展

【冒頭余談】前回記事の林原美術館蔵の洛中洛外図と「同系統の二条城の描写」が
      アーティゾン美術館(旧ブリジストン美術館)にもあるようです

そしてこの二条城の東南隅(=左下側)の描写を見比べますと、林原美術館のものとは、隅角部分の「狭間」の描き方がやや異なっていて、結局、堀際は多聞櫓なのか、狭間塀なのか、より微妙な描き方になっておりまして、判断に迷うところです。…

※           ※           ※

【イメージ画像】住宅600戸が燃えたブラジル・マナウスでの大規模火災

 
 
<織田信長による洛中洛外「放火」事件から見た
 「天下静謐(せいひつ)」の具体的進展>

 
 
 
さて、今回の話題の中心になるのは、織田信長が行なった洛中洛外への大規模な放火事件でありまして、それは元亀4年、信長が室町将軍にすえた足利義昭との対立を深めた結果の出来事であり、詳細は以下に引用の谷口克広先生の著書に詳しく、まずはこちらを、じっくりとお読みいただけませんでしょうか。

(谷口克広『信長と将軍義昭 連携から追放、包囲網へ』2014年より)

(元亀4年1573年)四月二日、三日の連日、信長の軍は京都の郊外を放火した。 義昭とその与党に対する脅(おど)しである。放火させながら信長は、将軍御所に和平交渉の使者を遣わした。しかし、義昭はそれを拒絶したのである。
四日、丑の刻(午前二時頃)というからまだ三日の夜半と考えたほうがよい。今度は上京に火が放たれた。

(中略)
この時の上京放火は、未明に始まって夕方まで続いた。類焼した地域は、北は上御霊社、南は将軍御所の近くまで上京一帯にわたったという。だが、放火する側も、厳重な配慮のもとに行なったようで、内裏はもちろん将軍御所にも類火することはなかった。

(※引用文の続き)

要するにこの放火は、京都の住人にとっては大迷惑だったけれど、信長にしては単なる義昭への脅しだったのである。
将軍御所が上京と下京の中間に位置するのにかかわらず放火に上京のほうが選ばれたことについては、上京に多くいる富裕な商人たちが、義昭に味方して信長に反抗的だったため、といわれている。

(中略)
この時の作戦でもう一つ特筆されることは、京都の中での乱妨・狼藉に対する取締りがいつになく緩慢(かんまん)だったことである。『永禄以来年代記』には、次のようにある。
「京中辺土にて、乱妨の取る物ども、宝の山のごとくなり」
つまり、財物を持って火災から逃れようとした市民が、あちこちで盗賊に襲われたということである。

 
 
というように、元亀4年4月4日、信長は焼失家屋6000~7000軒とも言われる焼き討ちを「京都」に対して行ない、その動機は室町将軍やその背後の上京の商人・町衆のへの「脅し」であって、結局はその三ヵ月後に、義昭が都から追放されることに至った事件でした。

これは一般的に「上京焼き討ち」と呼ばれる事件なのですが、その被害の甚大さ・深刻さはあまり世に知られておらず、例えば BEST TiMES の記事「織田信長は上京焼き討ちの向こうに何を見ていたのか」においては…

「西陣から始まった織田軍の付け火によって二条から烏丸まで丸焼けとなり、夜になっても延焼は収まらなかった。数知れない町人や庶民が殺害され…」
「現在、京都市の市内総生産は6兆円あまりほどだが、信長が灰燼にしてしまった上京の価値は、あるいはそんな金額ではなく、東京都の総生産94兆円あたりに匹敵する規模だったかも知れない」

と作家の橋場日月先生が書いておられまして、ひょっとすると、上京焼き討ちによる首都の人的・経済的な損失の大きさは、それこそ「東京大空襲」にも匹敵したのかもしれません。

――― となると、いちばん気になる事柄は、近年、歴史ファンの間で流行し始めた「織田信長が実現した天下静謐(せいひつ)」云々という、問題が満載のフレーズ なのではないでしょうか。

【ご参考】東京大空襲の惨禍 / 撮影:石川光陽

 

過去の記事信長の天下とは――いつごろまで「天下布武」印を使ったのか?より
天正10年に信長が拡大させた最大版図
(本能寺の変の時点)

そして「天下静謐」について探るためには、それが昨今 言われ出した “原因” でもある、かの「天下布武」の「天下」の語意の問題 が避けて通れません。

この点、当サイトは一貫して、「天下」の当時の語意について「都を中心とした畿内五ヵ国を示す例が一般的だったので、当然、信長が使った天下の意味も同じはず」という「畿内説」には、とても同意できません、と申し上げて来ました。

何故ならば、当時の一般的な解釈がそうであっても、信長本人の「天下」解釈はそれとはそうとうにズレていたはず――― でなければ、信長が 死ぬ真際まで「天下布武」の印判を 一貫して 使い続けたことを、まったく説明できない(※歴史史料の意図的な無視にあたる)からです。

さらに付言すれば、初期に信長から「天下布武」印の書状を受け取った各地の戦国大名らの方が、「天下とは畿内のことだろう」とタカをくくったのが、大間違いだった――― という風に、事の全体像を理解するのが、至極当然の学究的態度なのではないでしょうか?
 

そして近年、「天下静謐」を歴史ファンの間に広めた張本人は、ご覧の東大史料編纂所准教授の金子拓(かねこ ひらく)氏に他なりませんが、金子氏は年齢的には私よりも一回り下の世代のようですから、多少の失礼にあたる文言はご容赦いただくとしまして、今回のブログ記事では、金子氏が言い出した「静謐」とは何だったのか、一度 取り上げてみたいと思い立った次第です。

で、まずは、金子氏の解釈や論旨を確認するために、「静謐」論の出発点である著書『織田信長 <天下人>の実像』2014年を読み返してみますと、なんと「序章」の「天下静謐」初出のくだりから、んっ?…… と首をかしげざるをえない文章が(※とりわけ前出の「上京焼き討ち」を良く知る歴史ファンには)書かれておりました。

著書全体の基盤をなすその文章は、神田千里著『織田信長』にある「天下布武の朱印も、五畿内における将軍秩序樹立のスローガンということになろう」との指摘を受けて、「天下静謐」の意味について、下記の引用文のごとくに規定したものです。 歴史ファンの皆様には、もはや既読の文章でしょうが、もう一度だけ、確認のためにご覧ください。
 
 
(金子拓『織田信長 <天下人>の実像』講談社現代新書14頁より)

神田氏の議論を借りれば、みずからの印章に刻んだ「天下布武」という目標は、永禄一一年に上洛した時点で達成されたのである。これまた池上氏が認めているところである。
それでは上洛後(「天下布武」後)の信長の政治理念は何なのか。わたしは “天下静謐” だと考えている。
鎌倉・室町時代において、将軍職や守護職などの「職(しき)」を帯びた人間には、支配領域内の平和と秩序を維持する責任があって、それを全うする能力を持たねばならず、その行動を現実に保障するものはそれぞれの家臣の支持以外にはないという政治思想が共有されていた(佐藤進一「室町幕府論」)。戦国時代の室町将軍のばあい、維持すべき支配領域とは京都中心の「天下」にほかならなかった。

画像リフレイン / 京都中心の「天下」… をはるかに凌駕した最晩年の信長。
ならば「天下静謐」の一般的な意味の「静謐」は、どこで実現されていたのか??…


(洛中放火「上京焼き討ち」からの復興には数年を要したと言われる…)

(※同書15頁より)

信長は戦国時代の室町将軍を中心とした枠組みのなかで、「天下」という領域の平和と秩序を維持すべき将軍を支える存在として登場したのである。このような戦国時代において室町将軍が維持すべき「天下」の平和状態を、のちに義昭や信長自身も発給文書のなかで用いる言葉である “天下静謐” と呼びたい。
これこそ信長がもっとも重視した政治理念(大義名分)であった。
信長は天下静謐(を維持すること)をみずからの使命とした。当初はその責任をもつ将軍義昭のために協力し、義昭がこれを怠ると強く叱責した。また対立の結果として義昭を「天下」から追放したあとは、自分自身がそれを担う存在であることを自覚し、その大義名分を掲げ、天下静謐を乱すと判断した敵対勢力の掃討に力を注いだ。

 
 
――― と、金子氏のねらいは分からないではありませんが、ご覧のくだりの感想を一言で申せば、信長の言った「静謐」と、われわれ現在の日本人が感じる言葉の「静謐/せいひつ」との間には、<<<ものすごい 言語ギャップ があったのだ>>> という驚きと再認識でしょう。

前述の信長の洛中放火(上京焼き討ち)を踏まえれば、静謐のための脅(おど)しは適切な行動であり、その結果の「静謐」とは、全員を黙らせ、なおも歯向かう者は追放か殺害しきった状態を言ったのでしょうし、それは「京の都」においても完遂されて、当時の人々が思う「天下静謐」とも大きくかけ離れていた可能性がある!… という巨大な言語ギャップが(金子氏の著書によって逆に)あらわになった形です。

とりわけ金子氏の著書にもあるように、義昭の追放後に、朝廷が信長に対して「天下静謐」という言葉を オウム返しのごとく使った綸旨(りんじ)を(※焼け野原のただ中から!)発給していたことには、背筋の凍る思いがいたします。
 
 
(※※ で、金子氏はなぜ、著書の中でこの「巨大な言語ギャップ」について、一言たりとも触れなかったのでしょうか? 出来れば、たとえ話で、信長が考えたのは「静謐」と言っても、実態は核ミサイルに「ピースキーパー」と名付けた人間と同類の発想だった、とでも書けばよかったのに…。

それを、何か 別の思惑 から、あえてしなかった、となりますと、あたかも、信長が “穏やかな社会をもたらした人物” かのようなトンデモナイ誤解を誘導しかねず、説明責任が厳しく問われる昨今においては、そういう行為は社会的影響や情報操作の観点から、糾弾の対象 にもなりうる事柄かもしれません。

そして、もしもそれが、永禄11年に「天下布武」が終わってしまう論理的欠点を 埋めるための 不作為(=あえて何もしないこと)だとしたら、それはもう、許されざる行為 = 策略や欺瞞(ぎまん)にも当たる事でしょう。!…)
 
 
いま小学館のデジタル大辞泉で「 静 謐 」を見ますと…

[名・形動]
1 静かで落ち着いていること。また、そのさま。「深夜、書斎に過ごす静謐なひととき」
2 世の中が穏やかに治まっていること。また、そのさま。「静謐な世情」

とあります。

※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。