徳川幕府の「土の城」=土塁づくりの近世城郭は、大砲時代に合わせた「最先端の」築城術ではなかったのか

【一言余談】 織田信長は自らの「天下静謐(せいひつ)」をあえて 演出する ために
       わずかな供回りだけで 本能寺 に!!?…
     

…… ここでさらに、織田信長の名誉のためにも、前回ブログの舌足らずの部分(金子拓氏と私の立場の違い)を補足させていただきますと、金子氏は著書のあとがきにあるように “天皇制の中における織田信長の位置づけを見つけたい” といった動機から執筆を始め、その材料として、天下「静謐」を(ことさらに)クローズアップさせたのでしょう。

それに対して、私がなぜ「天下」の語意や「天下布武」にこだわるのか、その動機を申しますと、私自身は、あくまで精神的な意味だけで申せば、「天下布武」は 織田信長の死後も、幕末までの約三百年間(※精神的な意味で)生き続けたのだろう、と感じておりまして、それが私の大局的な日本史観でもあります。

やはり 日本を「日本」たらしめている筆頭は 武士の存在であり、武士の規範や価値観がこの国の主導的な観念に昇華していなければ、残念ながら、本当に残念ながら、日本は どこかの隣国とあまり変わらない国柄(くにがら)になっていたのでは… との心配が、完全にはぬぐいきれないからです。

(※卑近な例で申せば 「武士に二言は無い」 といった常套句の存在など)

ひるがえって信長個人の特異な意識を推測しますと、圧倒的な軍事力こそが社会を安定させ変革も可能にするもの、との執念に支えられて、おそらくは「天下布武」と「天下静謐」はほとんど <<同じ意味>>!で 平然と 使っていたのでしょうし、しかもそうした感覚は、みごとに(貴種の生まれでない天下人の)豊臣秀吉や徳川家康および代々の徳川将軍に 脈々と 受け継がれて行ったのだ、という風にしか見えないのです。

(※もしかすると、そのことと、以前に申し上げた「徳川将軍の正室が産んだ徳川将軍は一人もいなかった?」という件は、歴史の深い奥底でつながっていたのかもしれません…)

※           ※           ※





-- 江戸城の雄大な外掘の土塁(桜田濠)--

さて、思い出せば前々回のブログ記事も、NHKで放送した番組内容をきっかけに話を始めていて、ちょっと良くない傾向だとは思うものの、今回もまたぞろ、以前から私自身が感じて来た「ある事柄」について、ご覧の番組中の一シークエンスが背中を押してくれたようであり、思い切ってご覧のタイトルの内容を申し上げます。
 
 
<徳川幕府の「土の城」=土塁づくりの近世城郭は、
 大砲時代に合わせた「最先端の」築城術ではなかったのか>

 
 
これは例えば、東日本(東国)は徳川幕府のお膝元であったのに、なぜ江戸時代になっても「土の城」が固定化してしまったのか? という素朴な疑問に対して、普通は、石垣技術が伝播(でんぱ)しないうちに一国一城令を迎えたから、とか、東国の諸大名が江戸城をはばかったからだ、とか、そもそも関東ローム層などの「土の城」の戦闘力は石垣の城に劣らないのだ、といった強気の理由が挙げられたりもします。

しかし本当にそれだけで <西国は石垣・東国は土塁> と きれいに分布が分かれただろうか?… という風に、ちょっとハッキリし過ぎた感じが無くもなく、何か政治的な画策が、裏側で作用したようにも見えなくはありません。…
 
 
そしてついに、上記タイトルのごとき 大それた疑問を 最初に感じたのは、ディスカバリーチャンネルで放送していたA 17th Century Cannon Ball Deals a Lot of Damage(17世紀の大砲は壊滅的な打撃を与えた/スミソニアンチャンネル制作)」を見かけた時でした。
(※ディスカバリーチャンネルでの番組名は「ヒストリーオブウェポン 17世紀の大砲復元」)

この番組は17世紀の大砲のレプリカ(9ポンド砲弾=弾丸重量4.1kg)を制作し、実物大に近い簡易的な木造の帆船模型に対して、100ヤードの距離から、3ポンドの火薬を使って撃ってみる、という実験を行なったのですが、その砲弾はあっけなく船ごと!突き抜けて、向こう側の「土手」にめり込んで止まったのでした。

実際の戦闘に比べれば、たわいのない実験かもしれませんが、この番組がいちばん強調していたのは「間違いなく船内の乗組員は、飛び散った木片がズタズタに体に突き刺さって大怪我を負ったはず」という点でありまして、結局、戦闘能力はガタ落ちになっただろう、と解説していました。

つまり17世紀の大砲というのは、弾丸が炸裂弾ではない球弾であり、弾丸自体は炸裂しなくても、壊滅的な殺傷力が <<<木の壁>>> によって生み出されたのだ―― というチョット意外な実験結果だったのです。
 
 
思えばそんな話は過去の記事(マラッカに攻め込んだ巨大装甲ジャンク船)の折にもネット上で見かけた気がしますし、きっと番組の映像から想像するに、<木の壁> が厚ければ厚いほど、大量の木片が船内に(※日本の櫓の場合は、壁に仕込んだ瓦礫等も一緒に!)爆風のごとく突き刺さったのでしょう。

ですから、あれと同じような大砲が日本に持ち込まれたなら、我が国の城郭建築においても、ただならぬ事態が生じたはずで、まさに「櫓」の壁や「狭間塀」そのものが、中の城兵を殺傷してしまう、というコペルニクス的な戦い方の大転換が起きていたのかもしれません。…

フランス王・シャルル8世(在位:1483-1498)

ではここで、大砲と築城術との歴史的関係を確認しておきますと、ヨーロッパにおいて、大砲の劇的な進歩が、それまでの築城方法に大転換を迫ったきっかけは、1494年のシャルル8世によるイタリア進攻だと言われます。

イタリア南部のナポリに進駐したフランス軍の様子を描いた絵

この時、シャルル8世はナポリ王の継承権をめぐる争いのなかで、それを実力行使で獲得するためにイタリア進攻を始めたそうですが、彼の軍隊は、2輪または4輪の機動力のある大砲をそろえていて、しかも従来の石弾ではなく、より径の小さい鉄球の弾丸(径10cm)を初めて使用したため、イタリアの頑丈な石造りの城砦群はまたたく間に撃破されて行き、城兵の多くは石壁の破片で負傷して動けなくなった、というのです。

――― まさに前述の「大砲実験」と似たような被害が生じていて、この戦いをきっかけに、ヨーロッパの築城術は大転換を余儀なくされ、いわゆる…

「稜堡(りょうほ)式城郭」

の時代に向かったのだと言います。

【その一例】フランスのバロー要塞 Le fort Barraux(1597年築城開始)

(※様式の名称は「星形要塞」「イタリア式築城術」「ヴォーバン様式」とも)

ご覧の写真で申せば、稜堡式城郭では、いちばん手前の土手(写真の最下部)が、石造りの塁壁部分を隠すように盛られていて、この土手を「斜堤/Glacis」と呼ぶそうです。

「斜堤/Glacis」の図解

ご覧の「斜堤」はもちろん、砲弾をかわすか、めり込ませるかして、石の塁壁を保護した盛土でしたが、このような「稜堡式城郭」はイタリアから欧州各国へと広まり、中でも、スペインとの八十年戦争を指導してオランダ独立を果たしたオラニエ公マウリッツが、石材の乏しい土地柄のハンデを 土塁の稜堡の工夫ではね返した「オランダ流築城方式」は注目すべきものでしょう。

とりわけ慶長年間にマウリッツの存在(=「軍事革命」主導者)は、オランダ東インド会社を通じて、駿府の大御所・徳川家康にも伝えられたと言いますから、どうにも気がかりでならないのです。!…

マウリッツ・ファン・ナッサウ(1567-1625)


マウリッツが奪還した要塞都市ナイメーヘン Nijmegen の17世紀の様子
(→ おびただしい数の「斜堤」が築かれた)


(そして我が国は…)


天正4年、大友宗麟が輸入したフランキ砲の「国崩し」(口径90mm/遊就館蔵)
宗麟は居城からこれで島津兵を砲撃したらしいが、そもそも使い方が違った!?…



慶長16年、徳川家康が堺の鉄砲鍛冶・芝辻理右衛門に造らせた大筒「芝辻砲」
(口径90mm/弾丸重量1貫150匁=約4.3kg/遊就館蔵)

ひるがえって我が国の状況を見ますと、ちょっと滑稽(こっけい)な大友宗麟の “試行錯誤” を経ながらも、徳川家康の頃になると、家康は(NHK番組で紹介していたとおり)オランダ東インド会社と通じつつ、ほとんどヨーロッパと同時代的に大砲を使いこなそうとしていて、さすがだと言わざるをえません。

例えば砲銃不易流の砲術書には、城の門や壁を砲撃して破壊するには三十匁(もんめ)以上の玉を使用すべし(1匁=3.75g)とあるそうですが、上記写真の「芝辻砲」はその40倍近いの重量の鉛玉を撃てたことになり、とてつもない殺傷力を発揮したはずで、一発の命中弾でも、櫓の中の城兵らはそうとうな重傷を負ったはずでしょう。

そんな芝辻砲は「大坂冬の陣」で使用されたとあり、かの有名な、淀殿をおびえさせて和議に持ち込んだという砲撃が、これによるものか分かりませんが、しかし大坂側の記録では…

・天守に命中して柱を砕き、その際に淀殿の侍女を数人 粉砕した、とか
・淀殿の屋敷の三の間に当たって茶箪笥を粉々にした

といった淀殿周辺の!話ばかりであって、必ずしも大勢の城兵の人的被害の話は伝わっておらず、冒頭からの話も含めますと、こんな推測も、ありうるのではないでしょうか。

伝淀殿画像(浅井茶々/1569?-1615)=マウリッツと同時代の女性

この戦いのキーパーソン・淀殿は、ひょっとすると、一般に言われて来たように幕府側の砲撃に “おびえた” のではなく、被弾の様子をつぶさに見ながら、二度にわたる自らの落城体験も踏まえて、このままでは 大坂城の落城も 時間の問題である、と合理的に察知したのではないか。
→→ 櫓や御殿など、城内のあらゆる木造建築内が <<すべて危険地帯になった>> とはっきりと理解したから?

ということで、あえて妙な言い方をさせていただくなら、問題の砲撃とは、言わば家康と淀殿との間の「新兵器お披露目のやりとり」だったのではないでしょうか。

戦争の仕方が変わったこと、さすがの大坂城もこの新兵器の前には無力であること、ゲームチェンジャーとしての大砲の威力を実戦の場で見せること、そうした一連の企図が家康の発意で行なわれ、これを起点に、日本の築城術はまた新たな段階に向かおうとしていたのかもしれません。

――― そんな風に考えれば、冒頭の…

<東国は幕府のお膝元であったのに、なぜ江戸時代に「土の城」が固定化してしまったのか>

という疑問についても、一つの新たな答えが浮かんで来るように思うのです。

すなわち、東日本に土塁づくりの近世城郭が多いのは、西から東へ向かった石垣技術の伝播(でんぱ)を、同じく西から東へ向かった「大砲の殺傷力の認知度」が追い越して行った!結果ではなかったのか、と…

もしこんなことに幕府が “積極的に目をつけた” なら、むしろ東国の優位性!を固定化する意図をもって、土塁づくりの近世城郭を「積極的に」築かせたことになりましょうし、支配下の東国大名の側としても、そうした政策を受け入れやすかったと思うのですが、いかがでしょうか。

もちろんご覧の図示の中には、旧豊臣大名の津軽氏が弘前城を、また同じ南部氏が盛岡城を、それぞれ本丸と帯曲輪(だけ)を壮大な石垣造りにしていた、等々の例外はありますし、また逆に、元和・寛永以降に幕府が西国で築かせた総石垣の城(=福山城や大阪城など)は、西国大名の受けとめ方や手伝い普請を勘案した「ポーズ」の意味合いになってしまうなど、これまでの印象を 180度 逆転せねばならないのかもしれません。

ですから例えば、例えば…

これぞ 当時 最先端!!の城か(元和年間に修築された宇都宮城本丸の模型)
ご覧の高く盛り上げた土塁は、元和5年1619年に入封した本多正純が、
水濠をはるために本丸周囲を掘削して出た土を、新たに盛り上げて構築したもの


(※土塁上の櫓や塀は、砲撃戦以外での守りや、平時の視覚的な統治効果のため!?…)

※           ※           ※

以上、まことに勝手な推論を述べたててしまいましたが、こうなると改めて「石垣」や「天守」は「見せる城」のための構築物だったのだと再確認できそうで、ちなみに「土の城」とは、おなじみの西股総生先生の専売特許の呼び方であり、勝手にバンバン使わせていただき失礼しました。

そして先月発売の本には、西股先生の「天守」に関する論考が載っておりまして、これに対する反論は、たいへん遅まきながら、次回のブログで申し上げさせていただくつもりです。

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