本当に『モンタヌス日本誌』の描写は駿府城天守のことか → 部屋数の突き合わせ

【思いますに…】

台湾有事で我が国は何をすべきか? と世論を喚起するのも結構でしょうが、
有事(武力侵攻)を起こさせないためには、それが具体的に見えたなら、自動的に

<<我らが自衛隊は すかさず 尖閣諸島に上陸して 領土保全を行う>>

と世界に向けて、大々的に、宣言しておけばいいのではないか、と―――
 

宣言の要(かなめ)は「何も起こらなければ 日本側も現状を維持する」というスタンスと領土保全の意思表明であって、上陸は予防的な措置であり、防衛出動でもなく「国内の部隊移動」! ! に過ぎないのでしょうが、いわゆる 奪還作戦 といった多大な犠牲を生む作戦よりは、ずっと合理的に思われるものです。
要するに、習近平は “そぶり” を見せただけで「大減点」をまねくことになり、同時に、日米に対する二正面作戦を 政治的にも 迫られるのではないでしょうか。…

※           ※           ※

 
【そして7月1日の追記 / 習近平の本音(ほんね)が 形になって 現れた日 】

この中国大陸に 恐怖監視洗脳 による
ハイテク 巨大「北朝鮮」を創り上げられたら、

(これまでどおりの 経済成長 は出来ずとも)
我が身と 中国共産党は もう安泰(あんたい)だ―――と。

 

 
あとは「世襲」に向けて、極秘の長男の公表Xデーを待つだけとか??
…… こんな独裁者と、民主主義諸国が、深く共存できるはずも無いでしょう。

 
※           ※           ※

 
 
<本当に『モンタヌス日本誌』の描写は 駿府城天守のことか
  → 部屋数の突き合わせ>

 
 
さて、前回記事の「慶長14年時点での(外)高欄廻り縁が無い天守」の一覧では、肝心の 最後の駿府城天守が(※時期的には含めずとも良いものの)その範疇(はんちゅう)に入らないようでは、ちょっとマズいなぁ… と内心、気をもんでいたのですが、それは4年前の記事(大坂城天守の記録はまさに「駿府城天守」のことか)の仮説が信じられるなら、心配は無用のはずでしょう。…

と申しますのも、ご覧のごとく当サイトの駿府城天守イラストは、最上階に高欄廻り縁が(※平側の中央でいったん途切れる形ではあるものの)周囲を廻っていたように描いておりまして、これは『築城図屏風』の描写に沿ったものでしたが、前回の一覧(……が無い天守)とは矛盾(むじゅん)しそうなイラストだからです。

(左側の絵は名古屋市博物館蔵『築城図屏風』より)

そして前々々回の記事では、高欄廻り縁とは何か について、

【段階3】その後、徳川家康や秀忠が日本古来の慣習に戻すべく、天守最上階に実用的な高欄廻り縁は設けないように藤堂高虎・小堀遠州などと図(はか)ったものの、秀吉の影響はすでに全国に行き渡っていて、効果は限定的だった。

――― などという推測を申し上げた手前、最後の駿府城天守がそれに外れるようでは説得力に欠けますから、そのため今回は、もう一度だけ、『モンタヌス日本誌』の記述を再点検してみたいのです。…

【ご参考】ちなみに諸先生方の駿府城天守の復元案は、最上階の様子も様々です。


 
 
では では、当ブログで申し上げた『モンタヌス日本誌』の問題の箇所を、もう一度、ここに挙げますと…

(和田萬吉訳『モンタヌス日本誌』より)

使節は大阪に着するや、五月三日 城の指揮官を訪問して多くの献上品を呈し、此機会に於て城を見たり。
(中略)
本城の中央に近く第三堡ありて、総ての他の建物の上に聳(そび)えたり。其基礎は青き石塁の上に築かる。形状は方形にして胸壁を以て囲まる。壁石は大なるものを用ひ、且巧に接続せらる。城の上方の地面より上ること二百尺弱なり。
此処に又エムペロルの饗宴室あり。階下は廣き方形の回廊より成る。第一の屋は窓及入口の上に斗出し、第一階の上に尚五階あり。上に進むに随ひて狭小なり。
第二階には七室あり、第三階も同数なれども室小なり。第四階は六室、第五階は五室、第六階は四室を有す。

第一第二の屋背は石を以て葺き、第三第四は鉛、第五は銅、第六は金の瓦なり。

 

【ご参考2】「其(その)基礎は青き石塁の上に築かる」とは…
→ → 発掘で出土した駿府城天守台と、現存の大阪城天守台との「石の色」比較

早速ですが、ご覧の駿府城天守台の石(左写真)は、ひょっとすると火災後の積み直し部分かもしれず、断定的なことは言えませんでしょうが、しかし少なくとも、現存の大阪城天守台(右写真)はとても「青き石塁」とは言いがたい花崗岩の色なのですから、この点でも、改めて、『モンタヌス日本誌』の描写は「徳川の大坂城天守のことではない!」と感じられてなりません。

で、以前の記事では…





という風に、問題の箇所の全体はオランダ使節の二人(フリシウスとブロウクホルスト)が大坂に着いた際の見聞録として書かかれたものの、様々な点において、天守の描写だけは「駿府城天守の記録がまぎれ込んだもの」と見て 差しつかえない文章であろうと申し上げたのです。(※ご承知のごとく当書の作者自身は来日しておりませんので)

そこで、今回は特に「部屋数」に注目して再点検してみたいのですが、もちろん『当代記』等の駿府城天守の記録は、各階の平面規模や外観の意匠だけであって、内部の部屋数や割り方は不明であり、一方、『モンタヌス日本誌』の方は「第一階」の部屋数が書いてないものの、その上の階は「第二階には七室あり、第三階も同数なれども室小なり。第四階は六室、第五階は五室、第六階は四室を有す」とあります。

つまり天守全体の部屋数は「(?)→7→7→6→5→4」という風に、下層階は同じ数が続いて、その上はきれいに一つずつ部屋数が減っていく、というのですから、私なんぞは思わず、駿府城天守のプロポーションに近いことを(また)念押ししたくなるのです。 しかし、しかし……

 
 
【論点1】『モンタヌス日本誌』は最上階が「四室」と書いてあること

「第六階は四室を有す」というとおりに 最上階が「四室」となると、城郭ファンとしては、まずは名古屋城や徳川再築の大坂城、江戸城のような “徳川の巨大天守” でないと、実現しにくい部屋数だと感じざるをえません。

【名古屋城天守】『金城温古録』より
 部屋数 = 天守台上一階:10室 / 最上階:4室



【寛永度大坂城天守】内閣文庫蔵『大坂御城御天守図』より
 部屋数 = 天守台上一階:12室 / 最上階:4室



【寛永度江戸城天守】都立中央図書館蔵『江府御天守図』より
 部屋数 = 天守台上一階:16室 / 最上階:4室

ということで、これらの “巨大天守” の最上階が「四室」になっていた意図と言えば、名古屋城の場合で分かるとおり、南東隅(=本丸御殿側)の「一之間」に向かって(※通常とは逆の左回りで)「二之間」「三之間」「四之間(階段)」からグルッとまわって上段に至る「鉤(かぎ)座敷」になっていたからでしょう。

これは言わば、最上階に至るまで「立体的御殿」を貫徹していた頃の余韻(置き土産)なのかもしれませんが、そんな余韻を具体化できたのも、まさに “巨大天守” の余裕のなせるわざと言わざるをえません。
 
 
――― そして『モンタヌス日本誌』の最上階も部屋数が「4」室でありまして、これが駿府城だとしますと、最上階の平面規模は「4間×5間」しかなかったわけですから、無理やり実現するためには、まずは「入側(縁)を全部あきらめて」なおかつ「桁行を1間縮めて四室をすべて2間×2間半」とすれば、一応は 可能でしょう。…

ただし、入側を全部あきらめる、ということは、そこを使って着座の順は変えられず、また従者の控える場が無くなるわけですから、けっこう使いづらくなったでしょうし、そのうえで「鉤(かぎ)座敷」の作法を維持するには、もう外の高欄廻り縁への「戸口」などは、考える余裕は無かったのではないでしょうか。(※※ それでも、絶対に100%不可能、と言うほどの窮屈(きゅうくつ)な仮定の話ではないのかもしれませんが)
 
 
【論点2】津山城天守と小倉城天守を足して2で割った?部屋数と部屋割り

さて、上記の平面図でも一目瞭然(りょうぜん)で、巨大天守の一階の部屋数は「10」とか「16」とか、数が非常に多くなっていて、『モンタヌス日本誌』の一階の「7?」とは雲泥の差がありました。

――― そんな中で、一階の部屋数が「7」室 と、『モンタヌス日本誌』にぴったり一致する数を持っていた 希少な 天守が「津山城天守」です。

津山城の古写真津山市公式サイトからの引用)

ご覧の津山城の天守は、幕末に作成された各階の平面図によれば、天守台上の一階は「7」室になっておりまして、ただしその上は最上階が「1」室(※階の中央に上段)になるなど、「(?)→7→7→6→5→4」とは合致しないわけですが、それにしても、一階の「7」室は注目すべき存在でしょう。

そしてそんな津山城天守一階の手法が、全面的に展開されたのが「小倉城天守」とも言えそうでして、そのあたりが非常に分かり易いため、ここに是非とも引用させていただきたいのが……

ビッグマンスペシャル『日本の城』戦国~江戸編(1997年刊)より
香川元太郎先生による「小倉城/天守外観と各階の部屋割り」



ご覧の分かり易いイラストレーションのうち、一階は部屋数が「10」室とかなり多くて入り組んでいたものの、二階は一気に「3」室に減っていて、しかもその様子は(前回まで話題の)佐賀城天守を思わず想起させるような割り方に(→ 桁行・梁間の長短の方向との関係が逆ですが)なっていました。

そんな割り方は、さらに三階(同じ3室だが一回り縮小)→ 四階(5室)→ 五階(5室+唐造りの縁)と、全く同じパターンが基調になっていて、このパターンは、津山城天守の一階「7」室とも、しっかりと共通するものでした。 したがって…

(見えて来る部屋割りのパターン)

一階が「7」室の津山城と小倉城の両天守を引き比べますと、こんな部屋割りのパターンが見えて来る感がありまして、これを踏まえて『モンタヌス日本誌』を考えた場合、「(?)→7→7→6→5→4」というのは、パターンの二種類を 交互に 使って 実現したようにも思われ、言わば問題の天守とは 津山城天守と小倉城天守を 足して2で割った?ような内部構造であったのかもしれません。

かくして、類似例が本当に乏しく、具体化は無理難題とも思えた「(?)→7→7→6→5→4」は、どうにか 霧の彼方からたぐり寄せつつあるようで、これを無理やり、駿府城天守の各階の規模のなかに落とし込んでみたのが、以下の図解です。


(※2013-2014年度リポートの図解の部屋割り「訂正版」として作成)

以上のごとく、最後の駿府城天守の最上階内部が、「入側」の無いギリギリの「鉤(かぎ)座敷」の「四室」であったなら、順当に考えれば、外の高欄廻り縁に出る「戸口」は非常に造りづらかったはずで、結局は、

<<『モンタヌス日本誌』にしたがうならば、最上階の高欄廻り縁は、もしあったとしても「見せかけの廻り縁」だったはず>>

と言えそうなので、私としては、それだけでも 一安心なのです。…

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