有名な記述のちょっと困った実態。解釈の要は佐賀城天守と「二十五」天守の共通項か

【一言雑感】 クワッド、2プラス2、G7… と来て思うことは、
TPPの台・英加盟とアメリカ復帰(サプライチェーン化)が
最後の決定打になるのでは!?

要は、中国(北京)を蚊帳の外に置いて、民主主義諸国が 新たな発展を 始めること――― これこそ 中国人全体が思わず狼狽(ろうばい)し、中国共産党の統治の正統性を失わせて、いずれは党じたいを「消滅」させる「最大の 」=殺虫剤 なのではないでしょうか。 しかもこれは、まさに「我々の手で」出来ることでしょう。

※           ※           ※
※           ※           ※

『直茂公譜考補』第十巻より
 一 同十四年己酉、天守御成就、今年日本国中ノ天守数二十五立、

さて、今回の記事は、ご覧の有名な一文に焦点をしぼってお話をしたいと思い、前回の補足の回になりそうなのですが、まずは、前回も引用の佐嘉小城内絵図から申しますと…

(※前回記事より) 盛んに言われる <現存の天守台と付櫓台の登り口が、本丸御殿側ではなくて、鍋島一族や重臣屋敷の三の丸・西の丸側を向いている不思議さ!> については、もしも天守と付櫓だけで「城主の御主殿 (対面所)」としても完結する形であったのなら、これで何の不思議も無いように(も)見える―――

などと申し上げましたが、これに付け加えて申せば、この天守台と付櫓台の様子は(私なんぞには)ある別の天守台が連想されてならないものです。…

ちょっと唐突に思われるかもしれませんが、特に安土城の「伝本丸」が、ご承知のとおり「伝二ノ丸」よりも低い位置にある、という点に注目しますと、佐賀城の天守台登り口と本丸御殿との “逆向きの” 位置関係とも、ずいぶんと似かよっているように感じます。

(→ もっとハッキリ申せば、私なんぞは、安土城の方は <伝本丸→表御殿 / 伝二ノ丸→奥御殿> という風に割り切るべきだろう、などと申し上げてきた者です)
 
 
そして是非とも、もう一つご覧いただきたいのは、発掘調査の結果から三浦正幸先生らが結論づけた「天守一階は床の間や違い棚を設けた豪華な書院造り」との報告において、公開資料の図の「広縁(ひろえん)」が、田の字形に配置された部屋の両側に「二つ」推定されたことであり、これはけっこう珍しいデザインのようで…

(佐賀市PDF「佐賀城天守台発掘調査」より)


『匠明』より/一般的な「主殿」建築では「ひろえん(廣掾)」は片側=南側だけ

というように、広縁(ひろえん)が田の字形の部屋の両側に二つ、という点だけ取り出して、これに類似した体面の場の事例を、他の城郭建築の中から探しますと、なんと なんと…

聚楽第の大広間を描いた岸上家蔵「京寿楽図」→ ひろえん(廣掾)の位置にご注目

!――― となりまして、田の字形の部屋の両側に二つの広縁というのは、例えば江戸時代を通じても、徳川将軍の居城の「大広間」においても(建物じたいがコの字型に変形するため)そうそうは無かったことのようですから、佐賀城天守とは、ただならぬ天守、であったのかも… と思えて来るのです。

しかし、それにしては…
 
 
 
<有名な記述のちょっと困った実態。
 「今年日本国中ノ天守数二十五立」は根拠のない誇張!?…
 それとも何か別の「思惑」が込められた数なのか >

 
 
 
さてさて、鍋島直茂の事績を佐賀藩がまとめた『直茂公譜考補』にある「今年日本国中ノ天守数二十五立」という有名な一文ですが、これをご自身で点検された城郭ファンの方はご存知のように、ちょっと困った実態があります。

と申しますのも、この記述は、慶長5年の関ヶ原合戦後の、豊臣と徳川が東西に並び立つ情勢下において、むしろ天守が全国で数多く建造されたことの「証言」として、多くの解説本に取り上げられて来ましたが、ためしに「二十五」とはどの天守だろうか? と自分で数え出しますと、即座に、行き詰まるからです。

――― 慶長14年の1年間に「二十五」なんて、とんでもない。「五」でも特定するのは至難の業(わざ)でしょう。

このことは実際にやってみていただくと良いのですが、我々城郭ファンが思いつくかぎりの天守を総動員しても、慶長14年の完成と特定できるのは、無理やり行なっても、ほんの二、三しか出て来ない、という難しさです。

ですから「二十五」とは、城郭ファンの知らない天守がそんなにも存在した?ということなのか、もしくは根拠のない誇張なのか、それとも、文章の書き方が(意図的に)違っているのか――― とでも考えるしかなさそうで、念のため、この一文がどういう前後の文脈の中にあるのか、確認してみますと…

(『直茂公譜考補』第十巻より)

   佐嘉御城普請
一 同十三年戊申、直茂公御縄張ニテ、竜造寺ノ御城ニ 曲輪ヲ被相増、新ニ惣御普請アリ、奉行鍋嶋主水、附役東嶋市佑・馬場清左衛門也、
当城ハ 去ル天正十三年乙酉ニ 築地・大堀 御用意アリシヨリ 以来 慶長六、七年ニ惣曲輪ヲ被増シ上、今又改ラレテ御普請也、

(と、佐賀城改築の経緯や城下の配置等の説明が続いて行って…)
   夏四月、龍造寺八助ヨリ公御父子ヘ誓紙差上、多久家書類
     再拝ゝゝ敬白起請文之事 ……

(と、突然「誓紙」の内容が時系列で差し込まれて…)
     慶長十三年 四月四日   龍造寺八助 信清 血判
       加州様
       信州様
  公七十一歳ノ御時也、
一 同十四年己酉、天守御成就、今年日本国中ノ天守数二十五立、
   秋八月、多久長門守ヨリ御両公ヘ書キ物差上、……

 
 
と、またもや御両公=直茂父子への「書キ物」の写しが続くなかに、問題の「今年日本国中ノ天守数二十五立」が 唐突に 書き添えられた形であり、前後の文脈から何かを推察できるような状態ではありません。

ということは、こんな文中にわざわざ「今年(に)は日本国中ノ天守が数二十五も立った」などと書き入れたのは、想像するに、佐賀城天守の完成を祝う意味での飾り立てか、もしくは、それだけ多くの天守と共に(一群となって!)建造された点を 是非とも強調したい、といった背景でも無ければ、まったく無意味で余計な注釈になってしまうでしょう。

<<多くの天守と共に(一群となって!)建造された点を 是非とも強調したい>>

――― もしもこんな思惑が背景にあったのなら、慶長14年の時点ですでに全国に存在していた天守の総計は、とても「二十五」では済まない数でしたから(→ 最低限その倍以上は確実でしょう)何かの「くくり」が設定されないと、一群としての「二十五」は限定しきれないはずです。

【で、ためしに…】
では今回の一興として、どういう「くくり」ならば「二十五」に近づけるのか、試みにやってみたいと思うのですが、例えば、慶長14年の時点で、最上階に(外)高欄廻り縁が無い天守(=豊臣風ではない天守??)がどれだけ存在したのか(※望楼型・層塔型の違いは問わずに、また城主の政治的立場も考慮せずに)思いつく範囲で ザザザッと挙げてみることにします。

1.越前大野城天守(天正8年までに完成)※
2.佐土原城天守(天正年間に完成か)※
3.岸和田城天守(慶長2年完成)※
4.岡山城天守(慶長2年頃完成)
5.高島城天守(文禄元年~慶長3年に完成)
6.米子城大天守(慶長6年頃完成)
7.柳川城天守(慶長6年完成)
8.鳥取城天守(慶長7年完成)
9.日出城天守(慶長7年完成)
10.津山城天守(慶長10年頃完成)※
11.二条城天守(慶長11年に郡山城天守の移築が完了)
12.江戸城慶長度天守(慶長12年以降に完成)
13.姫路城天守(慶長13年完成)
…       …       …
14.小倉城天守(慶長15年完成)
15.大洲城天守(慶長15年頃完成)
16.佐倉城御三階櫓(慶長15年完成)

… 
(以上に加えて当ブログでは) 
17.駿府城「小傳主」(天正17年完成)
18.徳川伏見城天守(慶長7年完成)
19.福岡城天守(慶長6年~同12年に完成)
20.犬山城天守(元和6年以降に高欄廻り縁を付加か)

(※1~3等は伝来の絵画史料に基づき、また津山城天守については、小倉城天守を真似たとか、幕府の追及を逃れるため、といった最上階周辺の改築は、結局は一連の措置で、完成後のまもない時期=佐賀城天守とほぼ同時期のはず、との想定でカウントしました)

といった感じで挙げてみれば、これで合計「20」にはなりますし、ご覧のように、この程度の「くくり」でないと、とても「二十五」前後には肉迫できない、という現実的な制約のあることが分かります。

まぁ、これは実際には、慶長5年に落城・焼失した(豊臣秀吉の)木幡山伏見城天守が、すでに最上階に高欄廻り縁が無かった可能性が「大」なのですから、あくまでも便宜的なくくりでしかないのですが、そんな「20」の位置を日本地図に示せば…

となりまして、主体は畿内から中国地方と、江戸と畿内を結ぶ主要街道、そして九州の一群が比較的 新しく加わったことになり、佐賀城はそうした九州の最前線を担う一つ、という風にも見えます。

高傳寺蔵「鍋島直茂肖像」江戸初期

――― と、かくのごとく見てまいりますと、ちょっと困った実態をかかえた「今年日本国中ノ天守数二十五立」というのは、実のところ、そう書き込むだけの 動機(思惑)もいくらか透けて見えるようで、そこには佐賀藩の藩祖「鍋島直茂」の、領国での複雑な立場がからんでいたのかもしれません。

ご承知のとおり 直茂は、かの風雲児・龍造寺隆信の「義弟」として数々の戦果を挙げ、龍造寺家の隆盛を支えたものの、その実力が豊臣秀吉からも徳川家康からも認められて、朝鮮出兵や関ヶ原合戦など大きな戦いを経るたびに、直茂・勝茂父子の肥前支配の力はどんどん強固になった、という(ありがちな)力学が働きました。

そのため「当時の佐賀藩は名を龍造寺氏が持ち、実を鍋島氏が握るという暫定的な二重統治体制になっていた」などと言われる結果になり、直茂は言わば、下克上に徹しきれない実力者として、肥前に君臨したわけですが、そんな直茂に対する龍造寺一門の風当たりも強かったらしく、例えば龍造寺隆信の孫・高房(たかふさ)などは自家の復権を訴えつつ…

【ご参考】 直茂をうらんで 二度の自殺をはかって 憤死した 龍造寺高房。
荒々しいエネルギッシュな祖父とは打って変わった 貴人風の容貌である…

かくして、複雑な立場で領国統治を行なう直茂としては、ひとえに 時の天下人に供奉(ぐぶ)する姿を家中にアピールすることが、龍造寺一門を含む領国の支配を固めるうえで、肝(キモ)になっていたのではないでしょうか。そう考えますと…

『直茂公譜考補』第十巻より
 一 同十四年己酉、天守御成就、今年日本国中ノ天守数二十五立、

と、わざわざ書き添えられた動機も、見えて来るような気がしまして、それは、めでたく完成した佐賀城天守は時の天下人・徳川家康にならった構想の天守であり、そうした天守は全国に約25もあって、大坂城の豊臣秀頼を包囲する一群を形成していて、我らが天守もその「決定版」として加わったのだ、と家中に吹き込んでいたのではないかと。…

※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。