特大の巨石「鏡石」は、実は仮想敵の目を避けつつ!自らの家臣団にのみ見せたもの?

《お知らせ》 次回のブログ記事では、またもや新作の天守画イラスト(※徳川家康時代の二条城天守)を準備しておりまして、例によって、いつものタイミングよりも一週間ほど遅れて、6月4日前後のアップを目指して鋭意、作業中です。何卒ご容赦のほどを。
 
 
【 冒頭余談。いずれは動員される?兵士らの冷たい目線 】
 
もうこの「独裁者」が身体的にか、政治的に、死んでくれないと、この夏には、10数万のロシア兵は、かの地でじわじわと「全滅(玉砕)」するしか、道が無くなるのでは!?? この戦況のまま、彼らが生きて国に帰ることを、プーチンは許さないから。
 
…… 聞くところでは、ロシアは天然ガス等の輸出量は減ったものの、それを帳消しにするほど価格が高騰していて、貿易黒字は過去最高額(→ 輸入の減少もあって?)だとかで、結局、戦場の消耗戦でしか決着はつかない、ようである。

 
【 追記 】
そしてフィンランドの国防費がGDP比「1.4%」だという、ロシアの隣国としては、いかにも危険そうに見えてしまう、両国の悲しい相似形。

話題の国「フィンランド」のマリン首相と、岸田首相(今月11日)

 
やはり「1%」とは、
“ヘビに魅入られたカエル” を演じるための数字だったか。………

 

 
…………… 。
 
※           ※           ※
 
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【話のきっかけ】徳川再建大坂城の二ノ丸京橋口にすえられた鏡石「肥後石」

→ → 推定重量120トンという有名な鏡石だが、完成後の江戸時代にこれを日常的に見ていたのは、京橋口定番を務めた徳川の譜代大名(いわゆる「御譜代之面々」準譜代大名を含む)や旗本衆であって、この前を純然たる「外様大名」が通る機会は、幕末以降を除けば、まったく無かった。……

※           ※           ※

さて今回も(せっかくのチャンスですから)前回ブログに続いて、意外性の「寄り道」記事としまして、城石垣の「巨石」について、私がずーっと感じ続けてきた わだかまり(=世間の一般的な受けとめ方との大きなギャップ)を吐き出させていただくことにいたします。

で、これは城郭マニアの皆様には百も承知の事柄でしょうから、わざわざ記事にするのも心配なのですが、この話がいわゆる「鏡石」にとどまらず、城の大手門脇などの「巨石」もすべて “そういうこと”=仮想敵に絶対に見せてはならないもの!?(=過剰な威嚇行為になった?)としたら、それはそれで、けっこう大きなテーマにつながるのかもしれない、と思うからです。
 
 
 
< 特大の巨石「鏡石」は、実は仮想敵の目を避けつつ!
  自らの家臣団にのみ見せたもの? >

 
 

【参考例2】冒頭写真と同じ大坂城の、本丸桜門の鏡石「蛸石(たこいし)」

再建大坂城は、結局、幕末の動乱に至るまで、西国大名らが将軍への参賀等で登城することは無かったため、この日本一大きな鏡石も、完成後に「外様大名」が見るチャンスは(幕末以降を除けば)全くありませんでした。

現に『徳川実紀』によれば、江戸初期の徳川秀忠や家光の上洛時(※鏡石が完成したあとの元和9年以降の上洛)においても、秀忠や家光の大坂城での宿泊は一泊から三泊までであり、その間に彼らを饗応したのは、当時の大坂城代の阿部正次だけ、と記録されております。!…

【参考例3】名古屋城の本丸東御門の枡形内にある鏡石「清正石」


【参考例4】左:松本城の二ノ丸太鼓門下の角石「玄蕃石」
        :上田城の本丸東虎口の櫓門下の鏡石「真田石」

ご承知のように「鏡石」は、広い面積の割に厚さの薄い平板な巨石でしたが、それらは決まって重要な門の近く、枡形内の目立つ位置などにすえられたため、他の織豊期城郭の城門の脇にあった巨大な「角石(隅石)」とも、同じ意味やねらいであろうと受け止められています。

で、どの城の解説書を見ましても、それらは「城主の権力や財力を視覚的に訴えるため」とか「訪れる者に城主の威厳を示すため」といった説明があって、要は「権威づけ」が目的だとされているのですが、では、そうした「巨石」の原点を、例えば織田信長の城から探してみるとすれば、世に知られた順ですと…

【参考例5】安土城の天主台の前、写真右端の本丸西虎口の門跡の近くに、
        不自然に転がる平板な巨石は、「鏡石」が外れた状態なのか!?…



【参考例6】小牧山城の主郭の入口左側に残された花崗岩の残石(銅像の下)

……… という風に、城の巨石の原点を安土城や小牧山城で探してみれば、以前から「伝承の蛇石か」と言われ続けた石は、実は「鏡石」が外れた状態であったのかもしれませんし、また小牧山城の主郭の入口脇に残された石(→ 信長がわざわざ他所から運び上げた花崗岩であり、のちに名古屋築城で流用すべく二分割されたまま残されたらしい)が該当するのでしょう。

で、今回、私なんぞが申し上げたい最大のポイントは、これら「鏡石や城門脇の巨石」と、その一方で信長が小牧山城で始めたと言われる <<見せる石垣>> とを、いっしょくたに考えてしまうと、かなりマズイのではないか?… という点なのです。
 
 
 
< 城の「巨石」の本質とは、あえて分類するなら、
 「攻め(=威圧)」なのか? 「守り(=鎮守)」なのか? >

 
 

日本の巨石信仰の一例 / 福岡県の「胸の観音」(天台宗 玄清法流)

(※写真は福岡県観光連盟様のサイト「クロスロードふくおか」からの引用です)

いまさら申すまでもなく、城の石垣に「巨石」を使おうという発想は、我が国古来の巨石信仰があったからこそ、生まれた発想でしょうが、巨石信仰にはそもそも「攻め(=威圧や威嚇)」といった意味合いは存在しないようですし、それ自体が御神体の場合もあるのですから、それを「権威づけ」として城に利用(借用)することが出来たかどうか、ちょっと怪しい気もいたします。

もっとダイレクトに「神格化」と言うのであれば、信長の小牧山城や安土城ではそうしたニュアンスも含んだのかもしれませんが、それ以降の織豊期城郭や近世城郭では、どういう意図になったのか、もう少し、慎重に考えてみる必要があるのではないでしょうか。

と申しますのも…

話題の「鏡石や城門脇の巨石」は、肝心の徳川将軍や大御所の本拠地であった、
江戸城・二条城・駿府城には、一切、無かった!?のかもしれない―――
と思わせる節があって、実態が歴史の水面下に隠れたままなのかもしれません。

 
 
【 江戸城の場合 / 現況から見れば 】

鏡石や巨石があってしかるべき場所《1》 大手門の枡形内


鏡石や巨石があってしかるべき場所《2》 中雀門手前の枡形


鏡石や巨石があってしかるべき場所《3》 西丸大手門の脇

という風に、これまで見た他の城のケースから類推しまして、上記の場所には、鏡石や城門脇の巨石があってしかるべきだろう…と感じるものの、ご承知のごとく本丸~三ノ丸の大手側は、重要な箇所がすべて巨大な切石に積みかえられていて、そのせいで、かつてはあった鏡石や巨石が撤去されてしまったのか、経緯はもう良く分からないのですが、少なくとも現況からは、そんな素振りは微塵(みじん)も感じられません。

ちなみに一昨年、三の丸尚蔵館の改築現場で発見された、江戸城内で最古?(慶長後半~元和期)と報道された石垣は、下記写真のとおり打ち込みハギですから、他の城と同じ感覚ならば、この石垣の中に鏡石や巨石を組み込んでも何ら不思議は無さそうなものの、仮にそれが無かった、とすれば、それは何か、特別な配慮がなされた結果であろうと言えるでしょう。…

 
【 駿府城の場合 】

復元された二ノ丸東御門は、石垣も含めた復元であったため、判別は
はなから不能ですが、やはり、そういう素振りは無かった、ような……

(※東御門をくぐってすぐ内側の石は、位置が普通ではなく不審です)

 
【 そして二条城の場合 】

城外に正対して建つ「東大手門」は、もともと枡形が付設されておらず、
鏡石や巨石をすえるべき場所は無いのですが、しかし本丸櫓門の方は…





↓           ↓           ↓


!―――― ご覧の、本丸に渡る櫓門(旧橋廊下)の突き当たりの石垣は、他の城のケースから申せば、まさに「巨石」がすえられて不思議ではない位置や状況(=周囲は打ち込みハギのまま)であるにも関わらず、ここも現に、何も無い、という実態が見て取れます。

このような様子から、私なんぞはやはり、江戸城・駿府城・二条城は、少なくとも幕府の開幕(かいばく)後は、城内に鏡石や巨石の類いは一つも無かった(※設置を避けた → 巨石は武家にとって両刃の剣になった)のではないか? との推量が頭から離れません。

そして今回のタイトルの、
< 特大の巨石「鏡石」は、実は仮想敵の目を避けつつ! 自らの家臣団にのみ見せたもの? >
といった、大それた推測を申し上げた次第でありまして、要は「公儀の城」において、仮想敵となる外様大名にわざわざ「巨石」を見せつけるのは、よろしくない、との配慮が、幕府の側できっちりと徹底されたように思えてならないのです。…

『洛中洛外図屏風』(歴博C本)に描かれた、二条城の東大手門を牛車が入って行く描写。

そして外様大名とともに、公家の目、というのも大いに意識されたのではなかったでしょうか。

今回、『徳川実紀』をチェックして改めて感じたのは、徳川秀忠や家光が上洛して二条城や伏見城に入ると、ものすごい数の公家が挨拶に来た状況のすさまじさであり、そんな場面に出くわした幕府の面々は、威嚇(いかく)と受け取られかねない「巨石」は、早々に引っ込めたはずだろうと感じます。

残った城の「巨石」の意図とは、あえて分類するなら、「守り(=鎮守)」なのでは…

ですから、以上の事柄と同じ感覚で類推いたしますと、例えば豊臣秀吉の公邸「聚楽第」なども、鏡石や巨石の類いは、絶対に無かったはず!… と想像しておりまして、近年、京都周辺で相次ぐ発掘成果の報に、ちょっとビクビクしている今日この頃なのです。
 

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