家康時代の二条城天守をイラスト化 → 家康好みの複合連結式の天守は、すでに巨大な「二段式」天守台だったか

【いよいよ選挙の季節… ということで、一言二言の余談】
 
辻元清美・公式「活動ブログ」より)
憲法9条を武器にして戦争を終結させることができる。そういうアドバンテージを日本は持っていると思うんです。出番やと思います。

―――― 正気ですか。と思わず言いたくなる言動です。
 
要は、もはや自分らの「先細りする固定客」を “気持ち良くさせる” ことしか眼中に無く、日本全体をいかに安全にし、繁栄を取り戻すか、といった現実の課題は二の次、三の次になってしまった政治稼業の人(辻本)がなんと、次の野党リーダー(立憲の泉おろし)をねらっているそうで、左派政党は本当に、末期的な状況です。
 
しかし、しかし、そんな「現実逃避」の権化(ごんげ)と言うべきは、実は「岸田文雄」ではなかったか、と感じる昨今です。



(ところが……)



(ところが……)



(!………………)

????………「岸田文雄」とは、要するに、“ええかっこしい” の、表面だけ取りつくろって政治の世界を泳いで来ただけの人が、何故か、総理大臣になれてしまった、という倒錯状況を産み出していて、そんな “事実上の政治空白” をいま最大限に喜んでいるのは「左派」勢力支持者!―――(と霞ヶ関官僚)なのではありませんか。
 
やはりここまでの岸田政権は <事実上の政治空白> なのだと強く感じるものの、与党内から岸田おろしの類いが全く出ないのは、目前に迫った <<参院選後の憲法改正>> という最重要案件があるからでしょう。
 
ですから「岸田文雄」という倒錯状況は、参院選後に憲法改正がスピード感をもって進まないようだと、一気に存在価値を失って、国会の三分の二の勢力から怒涛(どとう)のような岸田おろし(=首のすげ替え)を食らうのは目に見えています。…

※           ※           ※
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では、長らくお待たせした本題です。今回からは再び「天守台」の話題に戻りたいと思うのですが、前回に巨石のことで触れた「二条城」に関して、私は今頃になって、
< 香川元太郎先生のイラストレーション「二条城(創建時)」>
に描かれた徳川家康時代の慶長度天守の描写を見つけまして、小さい画像表示ながらも、その天守台の解釈に思わず膝を叩いてしまい、即座に、当サイトでのイラスト化へのインスピレーションをいただきました。

(※『歴史群像』記事の考証は中井均先生でしたが、細かい描画は香川先生の判断なのでしょう… )

で、その香川先生の解釈というのは、一言で代弁させていただくなら、かつて松岡利郎先生が考証された平面図の「慶長度二条城(二条御屋敷・二条御構)推定図」の大小の天守群を立体的に描き起こすため、一つのモデルとして、福井城に残る二段式の天守台を連想されたのではなかったかと感じます。
 

【二条城】松岡先生の「慶長度二条城(二条御屋敷・二条御構)推定図」
(部分 / 当ブログで引用した際の図。→ 天守は家康好みの複合連結式である)

【福井城】そして福井城に残る大規模な二段式の天守台(下段=天守曲輪?)


その上段の「天守台」と「控天守台」の間。1948年の地震で入口部分は崩れた状態


上段は複合連結式を思わせる配置
デジタルアーカイブ福井松平文庫『福井城本丸御建物図』からの引用です)


かつての勇姿を描いたイラスト(現地の案内看板より)


ちなみに “小天守さながら” の「控天守台」にも礎石は残されている。

…… 当ブログでは度々申し上げて恐縮ですが、先ほどの「家康好みの複合連結式の天守」とは、大天守から小天守や付櫓をそれぞれ90度違う方向に張り出した「連結式」と「複合式」の合体形であり、他にも古写真の岡崎城天守がそれであり、松本城天守も最終的にはその部類でしょうし、また私なんぞは、家康時代の江戸城の慶長度天守も、そう解釈すべきではないか!?… などと申し上げてまいりました。

家康の死の翌年に建造された「複合連結式」岡崎城天守(三浦正幸先生考証)


ですから、ご覧の福井城の二段式の天守台は、言うなれば、駿府城ほどではないものの、下段として大規模な天守台(天守曲輪)を築き、その上に、改めて複合連結式の大小の天守台を配置したもの、とも申せましょうし、それは言わば、家康ゆかりの手法を “二重に実現した” 松平秀康の渾身の作でもあったのでしょう。

【福井城】しかも台上には駿府城と同じく井戸が。=「福の井」(福井県HPより)

 
 
 
< 残る課題は、駿府城で発掘された「小天守台の位置」の解釈か >
 
 
 
ところが近年、駿府城で皆様ご存知のとおりの発掘成果があり、天正期のすでに大規模な天守台は、その東側に別途!!「小天守台」をともなっていた――― という一件が判明しまして、その結果、もはやこうした小天守の築き方(→ 大規模な天守台とは別扱いであった…)を踏まえずして、家康自身の天守を考えることは、ちょっと難しくなってまいりました。

【駿府城】そこで発掘成果の図上で、天正期を分かりやすく黄色く色づけを。


これを一般的な駿府城公園の地図に(かつての内堀などと共に)
位置を正確に合わせますと…

かくして、規模的には似通ってはいるものの、「小天守台」の設け方が異なる、という二つの築き方が、家康自身の駿府城と子の松平秀康の福井城に出現していたわけでして、この両者は、どういった関係にあったのか? との興味がわいてまいります。

で、ここで私なんぞは、以前のブログ記事で申し上げた、天正期の駿府城天守台をめぐる私の邪推(じゃすい)が思い出されまして、それは <小天守だけでも見栄えのする城構え> をねらった副産物が「複合連結式」だったのではないのか――― との見立てです。

【駿府城の発掘成果に対する見立て】

これは、天正期の大天守台には、豊臣秀吉の聚楽第にならって、家康時代は何も建っていなかったはず… との当ブログの持論にしたがったものですが、もしもそうだとしますと、その後の福井城の手法は、言わば豊臣の臣下としての「屈辱的な築き方」を脱して、次の天下人にふさわしい築き方に変えていく(克服する)プロセスの前と後 = ビフォー&アフターだったのではないでしょうか。!…

Q.徳川氏の「由緒ある」小天守を、巨大な天守台上に、どのようにして上げるか

 
 
< そのために家康は、二条城を築く際に、一気に
  天正期の駿府城をしのぐ「巨大な天守台」を築いた可能性も。>

 
 

【二条城】まずは冒頭の松岡先生の図を、水堀や北大手門を合わせて地図にダブらせれば

さらにこの上に、駿府城で発掘された「天正期」と、より大規模な「慶長期」の二つの天守台を(※より細かく申せば、慶長期の天守台の北側と西側に、水堀との間に多少の「帯曲輪」を設ける形で)もちろん「同縮尺」でダブらせますと……

!!! 図の左上の「天守」周辺をよーくご覧いただければ、むしろ「慶長期」のいっそう巨大な規模に近づけた方が、その台上に大小の天守群を載せるには、すんなりと、ぴったりと、台上に上げられる、という当たり前の話が浮上して来るのです。

――――― だったら、最初から、この画像を見せろよ。 との声が聞こえそうで誠に恐縮ですが、このように物理的に当てはめれば、少なくとも「東西の幅」においては、慶長期の駿府城に匹敵する規模の下段(天守曲輪)が、家康の二条城には必要だったのではないでしょうか?

どうも世間では、家康時代の天守と言えば(※大和郡山城天守の移築の件があるため)そんなに規模の大きなものではなかった、との受け止め方があるものの、前述の「天下人へのビフォー&アフター」を想定しつつ、冒頭の香川先生のイラストレーションを受け止めるためには、二条城を築いた慶長6年の段階で、天守台の規模は飛躍的に拡大していたのだ、と考えた方が良いように思えて来てなりません。…
 
 
 
< 天守のイラスト化は、松岡利郎先生と宮上茂隆先生の復元図に基づき、
  色彩(その部分の材質)は池田家本の洛中洛外図屏風にのみ基づいて… >

 
 

【二条城】洛中洛外図屏風(池田家本)に描かれた創建時の二条城


【参照】宮上先生の家康時代の二条城天守復元図


【参照】柱の詳しい位置は、大和郡山城の天守台跡の発掘成果も参照。

(※過去の記事より / 松岡先生の淀城天守復原案(赤線)と、礎石列が合致!)

申すまでもなく、家康時代の二条城天守の建物については、「移築説」が証明された形の松岡利郎先生や宮上茂隆先生の復元図が尊重されるべきでしょうし、色彩(=その部分の材質)は、池田家本の洛中洛外図屏風のみにしたがってイラスト化することにしました。

何故なら、そう決めますと、池田家本からは沢山の情報が取り出せまして、例えば大天守は初重や天守台まで(すぐ東側=手前側に建っていた小天守に邪魔されずに)クリアに描かれた点から、大天守の二段目の天守台=上段の天守台は、福井城よりも、はるかに高さ(落差)があったのかもしれない、などと。…

大天守の柱や梁はすべて「素木/白木(しらき)」であり、軒下や堅格子、破風板や懸魚に至るまで「素木」になっていて、そして何故か、小天守は下層階だけ、軒下や破風板が「素木」になっております。
なお、大和郡山城からの移築材は、寸法はそのままにして建物を「継承」したものの、材の表面は「鉋(かんな)がけ」でリフレッシュさせたのではなかったでしょうか。 すなわち、文化財指定の建物の移築ではなくて、さながら伊勢神宮の古材をうやうやしく使って建物を建てるような?……

また大天守の南側の足元には、華頭窓がふたつ並ぶ建物が見えますが、ちょうど松本城天守で同じような位置にある「辰巳附櫓」も華頭窓があるため、これは重要な何かを示唆した描写かもしれません。 ちょっと毒々しい壁の色は、茶室に使われた黄褐色の土壁でしょうか。

シャチ瓦は金箔押しではなく、質実な造りなのかと思いきや、その一方で、大天守の屋根は、小天守や御殿などに比べますと、明らかに白っぽい色( 鉛瓦!?)をしていて注目せざるをえませんが、これらの点はすべて、屏風絵のとおりにイラスト化しましたので、ご覧下さい。
 

徳川家康が創建した二条城天守(慶長度天守)の「天守画」推定イラスト

 
(※画像のクリックで、やや大きいサイズ 1200pix もご覧になれます)

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