当初、天守のデザインに幅広いバリエーションがあったのは、要は“カンブリア爆発”なのでは……

【 緊急――― 】
な、な、なんと。慰安婦問題は「北朝鮮」! ! と日韓の左翼が仕掛けた、日韓分断のためのフェイク報道プロパガンダ作戦だった……

(DHCテレビ 10月19日放送回より)

今夏に出ていたラムザイヤー&有馬論文『慰安婦:北朝鮮コネクション』Comfort Women: The North Korean Connection の存在を、この二ヶ月以上も(=安倍元総理の事件以降)知らなかった私がバカでした。 目からウロコです。
 
で、ご覧の村山元総理(写真右)はおとぼけの確信犯だったのか良く分かりませんが、少なくとも(ワナに落ちた写真左側の)河野洋平さんは、今のうちに、これを読んでおくべきではないでしょうか? 河野談話がこの先、どう語られてしまうか、という“痛恨の残念な未来”をご自身で修正する道は、まだ閉ざされてはおりませんので。

【実感】それにしても、本質は同じことでしょうが… 話題の「デマ川徹」の出演を喜ぶ視聴者に頼らないと、やって行けない、と判断した某地上波モーニングショーも悲惨(どん詰まり)でしょう。
 
 
【そして日本の病根】 安倍元総理の暗殺を狂喜して喜んだ日本人が、少なからずいるそうで… こういう人たちが、まだまだ、各所に潜(ひそ)んでいるんですよね。 暗殺や、爆破事件も、正しい、と信じて疑わない人たちが。

( 引用 )

 
 でも、「旦那」が出版大手「小学館」の取締役……だなんて、本当でしょうか。
 

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< 当初、天守のデザインに幅広いバリエーションがあったのは、
  要は“カンブリア爆発”なのでは…… >

 
 

さて、前回は、新設の「天守画イラスト+α」ギャラリーページをご覧いただきましたが、こういう風にしてみて改めて感じますのは、織田信長から豊臣秀吉、徳川家康あたりまでの天守には、構造やデザインや機能面にものすごい幅というか、バリエーションがあって、どうしてこんなに多士済々(種々雑多)なのか?との疑問は、これまでも度々言われて来ました。

それはあたかも、初期の天守には、これといった「定義」や一定の「要求仕様」などが(発注側の城主にも大工の側にも)ほとんど無かったのではあるまいか?… と思わせるような様子であり、彼らはただただ「天守」なるものを築きたい、との渇望だけに突き動かされて、各地の城でドカドカと建造を始めたようにも見えます。
 

実に分かりやすい比較の例。→ 藤堂高虎時代の宇和島城天守(手前)と、
江戸幕府の統制が進んだ頃の、伊達宗利時代に再築の現存天守(奥)

(※ 株式会社ジーン xeen Inc.様のVR・AR紹介サイトからの引用画像)

 
このように天守のデザインに大きなバリエーションが生じた「動機」として、おなじみの西股総生先生は、

(『歴史群像』No.163 2020年10月号「天守の軍事学」より)

…… 天守はどれも外観が個性的であり、デザインに徹底的にこだわることで、唯一無二の建物に仕立てられている。 これは、武士たちが甲冑や旗指物のデザインにこだわるのと同じメンタリティに根ざす現象ではかなろうか。
 命のやりとりを商売とする武将たちが、最後に自分の命を託する場所が天守なのである。 だとしたら、圧倒的な個性を主張しつつ肩で風を切るような、彼らの美的感覚に即して格好のよい建物にしたい―――ゆえに、天守はシンボリックな存在たりうるのではなかろうか。

 

といった西股先生の解釈に対しまして、またまた抗(あらが)うような意見を差しはさんで、まことに恐縮至極なのですが、先生ご指摘の趣旨のように、確かに「家臣や領民の目をうばう特徴的な建造物であること」は、織豊政権下の初期の天守にとって、政治的に必要不可欠な、外観上の絶対の条件であっただろう、との点では同意いたします。

しかし、よくよく考えてみますと、「戦場で見分けるため」に旗指物が明らかに違いのわかるデザインを目指したのに対して、天守においては、例えば「無破風の天守」が、いくつかの大名家で「参照」「踏襲」されたりもしたわけですから、必ずしも「個性の主張」や「こだわり」のために<<バリエーションそのもの>>が生じたのではなかったのではないか… と感じております。

では何がバリエーションの原因になったか?と申せば、私自身は非常にまじめに、決して比喩(ひゆ)等でなくて、言わば科学的な「原因分析」のつもりで、申し上げるのですが―――

古生代「カンブリア紀」の海中には、
不思議な姿や形の生物が一気に出現した…


※ご覧の画像はpinterestより /
カンブリア爆発の代名詞、体長1mの恐蟹(きょうかい)類のアノマロカリス(Anomalocaris)など

っ………! また突拍子も無いことを。 などとおっしゃらずに、是非とも最後までお付き合いいただきたいのですが、本当ならば、「生物」には全くのド素人の私なんぞが、こんな話を始めるのは、危険この上ないことと十分に承知のうえで申し上げます。

で、聞くところによりますと、古生代のいちばん初めのカンブリア紀、5億4200万年前から5億3000万年前のごく短い?期間には、突如として、今日見られる動物の「門(ボディプラン)」が一気に出そろったのだそうで、その中には何とも不思議な生き物も多くて、そんな状況を、生物の分野では「カンブリア爆発」Cambrian explosion と呼ぶそうです。

私は生物にはド素人ながらも、どんな生き物がいたかをネット上で見ていますと、意外に面白くなってしまい、この際は、少しでもその多くをご紹介しておきたく思いまして…
 

学会で初めて復元図が発表されると、生物学者らの大爆笑が止まらなかったものの、
今では実在が確認されているオパビニア(Opabinia)




細長い脚(あし)?棘(とげ)?の葉足動物、ハルキゲニア(Hallucigenia)の化石


同じく葉足動物のアイシュアイア(Aysheaia)の3D復元画


「歯のなぞなぞ」との名がついた軟体動物、オドントグリフス(Odontogriphus)


近年ようやく軟体動物と見なされたウィワクシア(Wiwaxia)の化石


ギリシャ語の「忌まわしい」に由来する名のパンブデルリオン(Pambdelurion)
の復元画 Via @Jack Gordon.



雲南省で化石が見つかった古虫動物、ユユアノズーン(Yuyuanozoon)


フルディア(Hurdia)の口の前の鋭い付属肢。 胴体にはなんと、鰓(えら)が並んでいた…



そして新発見の「五つ目」のエビAFPニュースより)
これの発見は、太古の生物が現代の生物にない様々な特徴をもつ「謎」を
解きあかす糸口として、期待されているらしい。

! ! ! (ウウウ)……… といった感じでありまして、カンブリア紀の生き物というのは、海中だけなのに(※陸上はまだ単細胞生物だけとか)現在の生き物よりもずっと多彩で過剰な(=かなり無駄のようにも見える)器官や機能を持ち合わせていたそうで、こんな有り様は、私なんぞの目から見れば、生物進化の“試行錯誤(しこうさくご)の大爆発”?と感じられてなりません。

言わば、どんな姿や形が、生きて行くのにいちばん効率的かが確認される以前の、下手な鉄砲も数(かず)撃ちゃ当たる的な、ある種の、必死で真剣なトライ&エラーの人海戦術が、結果的に、驚くべきバリエーションを生んでしまったのではないのか、と。

――― ということで、生物の話はここまでにして、私が申し上げたいのは、こういった状況が生まれるのは、いつの場合か、という観点から、天守のバリエーションの要因(=出現当初のデザインに非常に大きな振れ幅があった原因)を考えてみては? ということなのです。
 

効果(や評判)を慎重に確かめつつ「進化」している時間が無い、といった
切迫した環境下では、あらゆるバリエーションが一気に生まれてしまう!?
天守もまさに、天下(再)統一という激動期に現れた、日本固有の建築だからこそ…


(名古屋市博物館蔵『築城図屏風』より / 見やすく色彩等を調整しています)

…… ご承知のとおり、天守という建物は、ごく短い期間に「誕生」から「普及」、そして江戸幕府による「統制」までを、猛スピードで変遷したことが知られています。

とりわけその前半は、どうであれば「最も上出来な」天守であるのか、といった答えを誰も知らないままに様々な試行錯誤が進んだようであり、ようやく、徳川将軍家の巨大天守(江戸城ほか)が現れたころに「定型化」が始まった、と申し上げてよろしいのでしょう。

ですからその間は、構造やデザインや機能でさえ百花繚乱(りょうらん)であり、それはきっと、完成建物の効果(や評判)を慎重に確かめつつ進化(改善)している時間が無い、といった切迫した環境(=天下統一戦争の渦中で、とにかく天守というものが新領国の統治に効果があるらしい、と諸大名が前のめりになった状況)がそうさせたに違いないと感じます。

一方で、西股先生がおっしゃるように、それぞれの大名に「こだわり」はあって、様々な工夫や資金がつぎ込まれて、大名間の競争感覚も生じていたことが(当時の日記等で)見受けられますが、そのことと<<幅広いバリエーションそのもの>>の起因とは、別々の、別次元のメカニズムが働いたように思うわけでして、とりわけ、天守の創始者と言っていい織田信長が、途中で裏切りの凶刃に倒れたことは、かなりの影響があったのではないでしょうか。
 
 
 

< 実は、安土城天主の出現のしかたと、直後の織田信長の突然の死が、
  天守のバリエーション増大に拍車をかけたのかも?… との独自の見立て >

 
 
 
そこでもう一言、是非とも加えておきたいのが、当ブログで触れた二条城天守の「木子家指図」の一件(→ 天守の初重と上層部分を「殿主」「天守」と書き分けていたこと!)を踏まえた、この問題へのアプローチでしょう。



↓        ↓        ↓

どういうことかと言いますと、木子家指図の書き分けを昨年の記事のように解釈すれば、いちばん最初に「天守」と呼ばれたのは、おそらくは城主の御主殿の屋根上に上げた「望楼部分だけ」をそう呼び始めたのが、すべての出発点だった、という風に仮定できましょうし、そこで突如、織田信長が安土城の七重の建物も「(七重すべてが)天主である」と宣言したことは、実際は画期的な言動と言うより、むしろ“混乱の元凶”になっていたのかもしれない!…と思えて来るからです。

つまり、信長による突然の「拡大解釈」によって、その時から「天守とは何か」という定義も、基本仕様も、誰も決めようのない期間(状況)が生まれていたのかもしれませんし、しかも本能寺の変で、拡大解釈した張本人が突然の死を迎えたわけですから、混乱の度合いはいっそう深まったことが想像できます。

突然の「信長ロス」で、織豊大名はそれぞれの天守を同時並行的に、意思統一もほとんど無いままに建造する形になり、その点では豊臣秀吉も「競争者の一人」に過ぎず、金箔瓦を使う「牽引役」として手本などは示せても、全体のデザインを「統制」する立場にはまだまだ程遠く、そんな状況がバリエーションの振れ幅をものすごく大きくしていたのかもしれない、という風に。

【追記】 ただし「用途」だけは、初期の天守からハッキリしていて、織豊政権下では政権の版図の広がりを天下に(とりわけ新領国の家臣や領民に)見せつける政治的モニュメントであり、その後、徳川幕藩体制下では各藩の領国統治の中心(大名の居城の位置や存在)を領内に示すための政治的モニュメント、という風に「用途」(概念)が大きく変わった―――― と、当サイトでは一貫して申し上げております。

結局のところ、天守とは、ごく短い間に爆発的な普及があったにも関わらず、それは誰か一人が“設計図”をちゃんと示して広まったものではなく、以心伝心に頼りながら、それぞれが勝手に思い描いた「天守」像の広がりと、淘汰のなかで、歴史的に絞り込まれて来た“日本人の集団的創造物”…かもしれない、と思うのですが。
 

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