ここ半年程のブログ整理 →太田道灌の江戸城は本当に連郭式か。徳川家康の巨大な?天守曲輪を考えれば…

【 まずは釈迦に説法で 】
  連郭式の曲輪配置    /   梯郭(ていかく)式の曲輪配置



【 昨今では太田道灌時代の江戸城は「連郭式」で表現される場合が多い 】
「子(ね)城」「中城」「外城」の三曲輪が、並列的に南北に連なる形として。


(※ご覧の画像は「中世城郭模型のインテリア」様からの引用です)

【 ちなみに「子(ね)」は十二支の一つで一番目に数えられる。方角としては北。】

えっ!? いきなり「江戸城」に話が飛ぶのか―――と、前回ブログの安土城「赤い柱の御殿」の話題から続いてご覧の方々は、きっと戸惑われることと思いますが、これはどういう意図かと申せば、ここ半年程のブログ記事において、バラバラと申しあげた事柄に一本、筋を通すためであり、その間に申し上げた天守「誕生」前後の現象としては…

【1】二条城寛永度天守の『木子家指図』が、初重と上層部分を
  それぞれ「殿主」「天守」と書き分けていたこと(の再確認)



↓        ↓        ↓

【2】ならば、いちばん最初に「天守」と呼ばれたのは、
  御主殿の屋根上に上げた望楼部分「だけ」かもしれず、
  安土城の七重天主は織田信長による性急な拡大解釈だったのか。



↓        ↓        ↓

【3】そんな安土城・北ノ庄城・駿府城などの高層天守にあった
  「三重目の縁」は、「殿主+天守」という原点に由来した構造か。

といった現象でありまして、これらを整理して、どこが天守「誕生」の瞬間だと言えるのか、もう少しハッキリと道筋を描けたら……と思い立った次第なのです。

そこで、上記の【1】~【3】で抜け落ちたもの、と考えてみますと、ひとつ欠けていたのが、望楼部分だけの天守+御主殿という木造建築と、「天守台」とのつながり(=つまり櫓(やぐら)風の城郭建築の仲間に加わった瞬間はいつなのか?)を問う観点が抜け落ちていたようです。

ですから、< 望楼としての「天守」を屋根上に上げた「御主殿」が、いつ、どの城で、初めて専用の「台」の上に載せられたか > を特定できれば、当ブログの勝手な推測も、いくらか具体的になって具合がいいのかもしれません。…
 

そんな風に考えた時に、ふと、思い出したのは、かの『金城温古録』の「御天守編之四 天守考部」にある、以下の部分でした。

(『金城温古録』より)

… 将軍(足利)義満公、京北山御別荘に三重の高台(こうだい)を建らる。 是、武家高台を建る始か。 其より八十年降りて、将軍義政公、東山の御別荘に二重台を建らるゝ事、山州名跡志に出。 然(しかれ)ども右両台は全くの遊観にて、武備の為にはあらず。
これより前、長禄元年武州江戸に於て、太田道灌城を築き高台を造る。 此高台は武用なり。

(中略)
国々城々競て高台を建る事、天正・文禄・慶長の間に盛なり。 是、武備の為に高台を建て威を示し、内に文を修て治道を専らとせしは太田道灌の江戸城に復興す。 是、天守の起源とも謂ふべし。

(※ご参考/『デジタル大辞泉』より
  こう‐だい〔カウ‐〕【高台】
  【一】[名]
  1 高く組まれた建造物。
  2 高くて見晴らしのよい台地。たかだい。
  3 茶碗・皿などの底にある基台。
  【二】[代]二人称の人代名詞。手紙などで、相手を敬っていう語。貴台。)

 
 
ご承知のように『金城温古録』は、江戸後期に尾張藩が名古屋城のあらゆる事柄を詳細にまとめた資料集ですが、ここには意外なことが書かれておりまして、天守の起源について、よく言われる楽田城とか伊丹城ではなく(※尾張徳川家らしく江戸城を“たてる”かのように)太田道灌の江戸城であり、しかもその「高台」は金閣や銀閣とは異なる「武用」である―――と、ズバリと言い切っていて、潔い感じさえいたします。

この「御天守編之四 天守考部」は、天守の成り立ちに関する文献上の記述を集めたものでして、読み返すたびに気づきが多いのですが、上記のくだりに近い箇所では、江戸城天守に関して、ご丁寧にも、こんな風に書いていて、舌を巻くのです。

(『金城温古録』より / 文中の {  } 内は割書きの注釈)

慶長十一年御改築の江戸城御天守、{明暦三年御消失} 十二年御新築の駿河城御天守、{寛文十二年御消失} 十五年御創建の名古屋城御天守、此三所の御天守、逐年成就して皆同時なれば、其体、塗篭造なる事は、今現存せる此名城を以て知るべし。
(※「今現存せる此名城を…」は名古屋城のこと。)

なんと、慶長十一年に、徳川家康が江戸城で初めて ! ! 建てたはずの慶長度天守は、「御改築」だ、とわざわざ書いてあるのです。
―――「御改築」とは、やや別の場所に再建された建物でもなく、まさに直前までそこにあった前身の建物を、改築した、わけでしょうから、この一文が真実であれば、全くおだやかではありません。

ただし、直後に{明暦三年御消失}との割書きがあるのは、三度目の寛永度天守が明暦三年の大火で消失した経緯を知る者が、“本文の年号の間違いを訂正するつもりで、もっともらしく”割書きして版を重ねたものと斟酌(しんしゃく)しますと、真相はどちらなのか(当初の本文が正しいのか否か)はよく分からなくなります。

しかし、しかし、前段のくだりでは、太田道灌の江戸城の「高台」を「是、天守の起源とも謂ふべし。」とまで言い切ったわけですから、ひょっとしてひょっとすると、当初の本文は実直かつ大まじめに「御改築」と書いていたのかも!……と、思わず、私なんぞは色めき立つのです。

(※ちなみに上記引用文の「塗篭造なる事」云々の“壁の材質や色の件”は、明暦三年消失の寛永度天守までも含めると、さらに文意が分からなくなりますし……)



【ご参考】東京都荒川区西日暮里4丁目「道灌山」(JR西日暮里駅の脇)
ここの地名の由来は定かでなく、太田道灌の城の“印象や記憶”が影響したのか

(※実際に道灌の江戸城を訪れた蕭庵竜統の「寄題江戸城静勝軒詩序」より)

… 城の地たるや、海陸の饒(おお)い、舟車の会すること他州異郡以て加ふること蔑(なみし/必要は無い)。 塁の高さ拾丈余、懸崖(けんがい)峭立(しょうりつ/そびえ立つ)し…
 
 
さて、それではここで、ちょっと視点を変えまして、太田道灌の「江戸城」はどういう意味合いの城だったか、を押さえておきたく存じます。

この際、城郭ファンにおなじみの件(=道灌の築城の経緯など)はさておき、鈴木理生先生の『江戸と江戸城』を参照しますと、道灌にとっての「江戸城」とは、一言で言うなら、“戦艦大和”のような存在であったらしく、その意味は“あまりにも強力過ぎる武器に見えてならなかったもの…”ということでしょう。

つまり江戸城があったからこそ、道灌は(軍事的な才覚とあいまって)主筋の上杉氏への発言力を持ちはじめ、逆に警戒される人物となったようで、そんな江戸城の「強さ」とは何によるのか、と申せば、当時の訪問客の僧らが記した「石垣」で脇を固めた「鉄門」や「飛橋」と言うより、もっと直裁に、ズドーンと立ち上がった台地の「急崖」の迫力に効果があったからではないでしょうか。

であれば………

(4年前の当ブログ記事より)
1600坪 ! ! …ものすごいボリューム感だったか、徳川家康時代の天守曲輪


これは、永青文庫蔵『部分御旧記』にある、熊本藩・加藤忠広が行なった手伝い普請の記録「元和八年、御天守之臺 坪数 千六百八拾坪」という膨大な数値をもとに、「坪」という単位の問題はあるものの、家康時代の天守曲輪は、巨大な土壇が本丸地面からズドーンと建ち上がっていた可能性がある、と申し上げた際の略図でした。

そこで、ご覧の件を踏まえた場合は、その145年前にさかのぼる太田道灌時代の江戸城では、どうなっていたのだろうか? という点が、今回の記事の“山場”でありまして、有名な『慶長七年江戸図』を例に取って、仮に、道灌時代や後北条氏時代から大きな変化(本丸以外の大規模な土木工事)は無かったもの、との想定をした上で、絵図をダブらせて見てみたいのです。…

都立中央図書館蔵『慶長江戸図(慶長七年江戸図)』


一方、当ブログで作成した、現在の地図上に『江戸始図』等を適合させたもの。

↓           ↓           ↓

上記作図と方角を合わせるため、東西(上下)をひっくり返した慶長七年江戸図。
ご覧の本丸北西隅の「直角」が、私なんぞはずっと気になってまいりましたが…


↓           ↓           ↓

仮に「御城入口門」「山の御門」の位置を合わせて、大まかにダブらせてみれば、
「直角」部分は、ほぼほぼ、巨大な天守曲輪の位置に合致することに。


↓           ↓           ↓

ということは、この「直角」部分こそ、まさに「子(ね)城」のなごりの造形なのかも。

↓           ↓           ↓

【 … ここまでの結論 … 】
道灌時代の江戸城は「連郭式」ではなく、「梯郭(ていかく)式」だったのでは?

――― という風に見て来ますと、徳川家康は、この三曲輪の間の空堀をうめて広大な本丸を造り、やがて子(ね)城の高低差を巨大な天守曲輪に利用したうえで、その北側(左側)に大規模な造成や土塁の構築を行って、かの「三重構造の馬出し」を築いたのではなかったか、と思えて来てならないのです。
 
実は、かように申し上げる“動機”として、最後に是非ともご紹介したいのが、8年前のブログ記事において、江戸後期の画家・谷文晁が描いた『道灌江戸築城の図』の分析をしたものの…

現在では、ご覧の絵図で、はるかに気になって仕方がない事柄は、以下の<<画像の類似>>でありまして、いかがでしょうか。

門と、子(ね)城と、旧?三日月堀との、位置関係。

(次回に続く)
 

※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。