本題。それは西国+京+東国を統べる覇者の城館としての「静勝軒プラスα」か……『江戸始図』との強烈なる符号

(新たに追加した説明用イラスト → 詳細は後述。)


いよいよ、八か月にわたって申し上げて来た「太田道灌時代の江戸城・静勝軒と、徳川家康が好んだ複合連結式天守との、歴史的な関連性」という当サイト独自の仮説について、まとめの記事をご覧いただきたく存じます。

太田道灌時代の江戸城 /「子(ね)城」の台上いっぱいに築かれた静勝軒ほか

初めにまず、道灌時代の江戸城は、よく言われる連郭式ではなく、梯郭(ていかく)式の縄張りの城であり、「子(ね)城」はさらに一段高い丘状地形だった、とするのが当仮説の大前提になりますが――― それは当ブログで長らく申し上げて来た 「徳川家康時代の巨大な天守曲輪」との合致や、「道灌山」という状況証拠もさることながら、この仮説の根拠となる文献記録は、詩文にある「ジグザグの石段」でしょう。

で、前回も引用した(以下の)詩文は、実は千葉氏の一族で、下総国東庄(現在の千葉県東庄町)を領した東氏の生まれで、実際に道灌の江戸城を訪れた禅僧・蕭庵竜統の作でありまして、言わば「侍の目」をも通した証言だけに、非常に貴重だろうと考えているのです。

(蕭庵竜統『寄題江戸城静勝軒詩序』より)

其径(みち)を磴(いしぶみ)にし、左に盤(めぐ)り右に紆(まが)り、聿(つい)に其の塁に登る。 公之軒其の中に峙(そばだ)ち、閣其の後へに踞つ(たつ/うずくまる)。 直舎其の側に翼(つばさ)し、戊楼、保障、庫廋、厩廠の属、屋を為すもの若干。

との描写の、直前の部分はどうなっているかと申せば、かの有名なくだりで…

累の高さ十余丈、懸崖峭立し固むるに繚垣(りょうえん)を以てする者数十里許り、外に巨溝峻塹(=巨大で険しい堀)あり威泉脈を徹(とお)して、瀦(ちょ=溜水)するに粼碧(りんぺき=透き通った青緑)を以てす。 巨材を架して之が橋と為し、以て出入の備を為す。 而して其の門を鉄にしその垣を石にす。 其径(みち)を磴(=石段のいしぶみ)にし…
 
 
と続いているわけですから、(さすがに「侍の目」の!)一連の詩文をすなおに読めば、有名な“石垣で固めた鉄門”を過ぎるとやがて石段が現れ、それをジグザグに進んで「聿(つい)に其の塁に登」れば、目の前に「公之軒」=静勝軒が「峙(そばだ))」っていた、という風にはっきりと読めるでしょう。

ですから、ジグザグの「大小」の問題は残りましょうが、竜統の「侍の目」を踏まえた場合、一つの考え方として、120年後に出現した安土城の「大手道」を登り切ったあたりにもある、わざと登りにくくした!細かいジグザグの石段が、ここにもあったのではないのか?―――と思えて来てならないのです。

【ご参考】安土城「大手道」の直線部分を登り切った所から、さらに上(先)を見上げると…

おなじみの千田嘉博先生の指摘によれば「同じ大手道であっても山腹までと山腹以上では、対照的といってよいほど道の設計が異なった」(『信長の城』)とのことで、ここまでが言わば「屋敷地」、ここから上が「信長の政庁・居所」といった明確な城の使い分けを、ジグザグの石段は物語っていたと言います。

したがって、竜統の「侍の目」でも、ジグザグ石段には当時もそれなりの意味や目的があったものと思われますし、それがあったのは「外城」周囲の「懸崖」ではなくて、まさに城の中心部=「子(ね)城」の丘状地形での工夫と思われ、そんな急斜面を上がった極に「静勝軒」等が迫って建てられていた――― という鮮烈なイメージがわいて来るのです。





 
そして東の「泊船亭」の「亭」について、ここで是非とも申し添えたいのは、四方に壁のない「亭」様式の建物は、日本語では古くから「あづまや」と呼び、つまり「あづま=東」+「屋」であることに、前々回も引用の「今日も日暮里富士見坂 / NIPPORI FUJIMIZAKA DAY BY DAY」様の記事が注目していて、またもやスパッ―――ンと私の視界が開けたことです。

 
 
 
<「西と東」を左右に従える姿への強いこだわり。
  後の徳川家康は江戸城の「城」のありようも、
  太田道灌から学び取ったのか
  → →『江戸始図』との強烈なる符号 >

 
 
 
(その注目の記事「太田道灌の城のコスモロジー(前半)」より)

日本語では、「アバラヤ」「アヅマヤ」という語がある。 四面開放型の「亭」様式をアバラヤというのは、『十巻本和名抄』(934ごろ成立)に早くも登場する。 アヅマヤは、四方葺き出しの寄棟造りを指していった言葉であるが、『運歩色葉集』(1547~1548ごろ成立)では四方に壁のない屋の総称とある。
また、「あつまや いやしき家を云也、又仙洞のすみかなんどをも申也」等と説明されるように、むさくるしいアバラヤという侮蔑的表現でもあるが、それ以上に、東国を表わす「アヅマ」の名で呼ばれることに注意が必要である。 また、国名の「武蔵」の語源が「ムサムサ」(荒れ地にぼうぼうと藪が生い茂っている形状)という説もあり、東国に対するイメージが了解できよう。
亭という建築様式が、東国において西国以上に盛んに建設されており、東国の特徴的な建築様式になっていた可能性は高い。

 
 
ということで、八王子在住の東国人である私も、そうだったか…との思いはありますが、もしこれを前提とすれば、さらに華頭窓の含雪斎を「=西国」、寝殿造の影響を受けた静勝軒を「=京」といった、西・東の方角にとどまらない比喩(ひゆ)を、太田道灌は静勝軒プラスαの建築群に込めていたのかも、といった推測も出来るのかもしれません。 と言うのも…

(万里集九『静勝軒銘詩並序』より)

公の汗馬の労、百戦功を積みて万全を獲たるものは、天下国家の為にして、私の為ならざればなり。 江戸の城、これが為に本(もとい)を起せり。 凡そ関の以西の諸侯にして風を望みて靡(なび)くもの往々にしてこれあり。 矧(いわん)や関の以東の八州、大半指呼に属するをや。 城営の中に燕室あり。 静勝と曰ふ。 西を含雪となす。……
 
 
とまぁ、とてつもない気宇壮大さと申しますか、分不相応にも聞こえる江戸城築城の大義が謳(うた)われておりますが、ここで何より私が注目したのは、これがなんと、のちの徳川家康の江戸城「天下普請」のあり方にまで!影響を及ぼした可能性でありまして、その様子は『江戸始図』や『慶長江戸絵図(慶長十三年江戸図)』の中にはっきりと示されております。

それは皆様よくご存知の、本丸の南側には「5連続の外桝形」を設け、逆の北側には「3連の丸馬出し」を築いて、「西日本で発達した石垣、外桝形の築城技術と、東日本で発達した馬出しの築城技術をみごとに融合した」「東西を統一した集大成の城だった」(千田嘉博『江戸始図でわかった「江戸城」の真実』)という築城手法そのものであり…
しかしこれ、よくよく考えれば、何故どちらか優れた方を厳選しなかったのか?という、重大な「疑問」を抱えたままとも言えましょうし…
防御力の観点だけでは解釈できず、政治的な判断によるとしか考えられないものですが、何故そんなものを、慶長十年前後の!西方に豊臣家の大坂城がいまだ健在という状況下で、家康は堂々と採用できたのか―――との問いに、静勝軒の構想が大いに答えてくれるのではないでしょうか。

首尾一貫した築城の理念が感じられる(『江戸始図』をもとに図示)

という風に、ここまで徹底して「西と東」を左右に従える姿(「静勝」の哲学?)へのこだわりというのは、まさに江戸築城を通じて道灌から家康へと受け継がれ、また、こういう状況下でこそ「複合連結式天守」は誕生したのだと思えてならないのです。
 
 
 
< ところが今、江戸城の最新研究の場で何が起きているか。
  西股総生先生の「北条時代末期・家康入城時の江戸城」推定論は、
  『江戸始図』などを根拠にした慶長度天守の諸研究を“ちゃぶ台返し”? >

 
 

『歴史群像』10月号の表紙と西股先生の寄稿ページ

さて、ここで話をやや中断しても触れざるをえないのが、これでありまして、おなじみの西股先生は、2020年4月号に続き、戦国初期の南関東における丘陵城郭の典型的な姿を、江戸(皇居周辺)の地形に当てはめることで、道灌時代→後北条氏時代→家康入城時の江戸城の姿を推定しておられます。

そこで当ブログは、あくまでも最新研究の動静や比較検証のため、ということで申し上げたいのですが、 以前の当ブログ記事では、江戸城の古絵図を突き合わせる際に、例えば『慶長江戸図(慶長七年江戸図)』の「山の御門」の位置を、天下普請後の「蓮池門」に合わせて図示しましたが、それよりも「坂下門」!に合わせた方がより正確になりそうですので、その点を訂正しつつ、西股案を併記した図解を是非ご覧ください。



で、これらを、じっくりと見比べますと、
下の三図では「西股案」が最も早い時期に当たるはずで……

!! … という驚くべき事柄が判明しまして、西股先生ご自身は『歴史群像』の記事中で、これを「お遊び」と説明して焦点をぼかしておられるものの、『江戸始図』などの城絵図の否定や懐疑につながる「西股案」を認めることは、即、これまでの慶長度天守の位置や構造をめぐる諸研究の「根拠」が、ぜんぶ失われてしまう!――― という大変な事態に至る可能性があります。

したがって、当ブログとしては、どう逆立ちしても、西股案には賛同できない、というのが正直なところです。
 
 
 
<『金城温古録』が道灌の江戸城を「天守の起源」と言い切った原因…… >
 
 

新たに追加した説明用イラスト。家康入城時の江戸城の「激変ぶり」を妄想


↓         ↓         ↓

さてさて、今回の最後に、八か月にわたる記事で積み残した“懸案”について、答えを出してみたいと思うのですが、最大の懸案と言うべきは、『金城温古録』が道灌の江戸城を「是、天守の起源とも謂ふべし」とまで書いた具体的な対象物=静勝軒プラスαのどれが、どういう訳で「天守の起源」とされたか、という興味でしょう。

そこでお目にかけたのが、上記の説明用(妄想用?)イラストでして、これは後北条氏の時代、最初に江戸城に城代として入ったのは遠山直景でしたが、直景自身は「二ノ丸」を守備し、「本城」を富永政直、三ノ丸「香月亭」を太田資高兄弟が守った、との記録があります。

つまり本城の「子(ね)城」は、その時点ですでに、最有力の城代が入る曲輪とは見なされなかったわけで、子(ね)城の静勝軒は、早々に“維持できない”と判断されて、かなり早い時期(たぶんに北条氏綱の入城以前)に解体されたのではなかったでしょうか。

そうした中でも、当ブログが想定する「含雪斎」だけは、家康の入城時も(※その直前まで城を守っていたのは留守居の遠山景政とも、その弟の川村秀重とも…)なお健在であったと思われまして、その理由は、かの谷文晁の「道灌江戸築城の図」の描き方に見出せます。


(※当イラスト下部の家紋は、左が太田道灌の「太田桔梗紋(丸に細桔梗紋/ほそききょうもん)」、
右が遠山直景ら遠山氏の一般的な「丸に桔梗紋」。谷文晁の絵はあいまいで、どちらとも取れる)

当ブログは この谷文晁の絵の分析から、ここに描かれた「富士見櫓」こそ、「含雪斎」がひときわ高い「子(ね)城」に一棟だけ残った様子を伝えたもの、と考えるに至っておりますが、さらに面白いことに…… この絵の問題の建物の一階には、楯と楯の間から矢を放つ「木楯」を並べた様子が描いてあり、そこには「桔梗(ききょう)紋」があるようなのです。

―――「桔梗紋」と聞けば、思わず明智光秀!を思い浮かべてしまいますが、実は遠山直景など、美濃・明知城を出て後北条氏の配下になった「武蔵遠山氏」もまた、桔梗紋を掲げる一族であり、したがって、この絵の建物が、家康入城の直前まで遠山景政らが守備していた改装櫓!!であったとしても、全く不自然ではない描き方になっているのです。

で、この状態こそ、『金城温古録』に
「長禄元年_武州江戸に於て、太田道灌_城を築き高台(こうだい)を造る。 此高台は武用なり。」
「是、天守の起源とも謂ふべし。」
と明言させるに至った、具体的な建物と状況=言うなれば“天守の発祥”は、これなのかもしれない、と現段階では申し上げるべきかと思います。

しかもこの建物が、その後、佐倉城の銅櫓に移築+改築された経緯を想いますと、“天守の発祥”は意外に、我々の近くにあったのだ……という風にも感じるのです。
 

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