大仏殿の上に望楼を… という願望が動機だったか

大仏殿の上に望楼を… という願望が動機だったか

狩野探幽筆『東照社縁起絵巻』(日光東照宮蔵/巻第二の巻末部分より)

時が流れるのは早いもので、上記バナーの2012年度リポートは、『東照社縁起絵巻』にある天守の描写が、一般に言われる駿府城天守ではなくて、徳川家康時代の慶長度の江戸城天守ではなかったか? という大胆仮説を中心にしたリポートでした。

で、その中でお目にかけたイラストは、着色がけっこう大ざっぱであり、絵巻の描写のとおりに、もう少し丁寧に着色をやり直すならば、次のようになるでしょう。

しかしこれでもまだ、前々回の記事から申し上げている「家康時代の巨大な天守曲輪」という想定を踏まえますと、矛盾を抱えたまま(→とりわけ、初重が天守台からはみ出す形での石落しは、切石積みを18間×16間に積み替えたという想定とは噛み合わないもの)ですので、この際は、想定と噛み合うイラストを作り直して、お目にかける必要がありそうです。


そこで今回は、ご覧の「訂正版」を出させていただくことに致しました。これは初重が天守台からはみ出す形ではなく、初重と切石積みは18間×16間で合致し、石落しは出窓によるもの、という風に変えた訂正版です。

――― なんだ、まだお前は「四重天守説」にこだわるのか!? とのご意見が聞こえて来そうですが、私はこの「四重」だけにとどまらず、慶長度の江戸城天守には、もっと大きな家康の注文(「御好み」)が反映されたはずだろうと感じて来ております。

それは、かの『愚子見記』に書かれた、名古屋城天守は江戸城天守に比べて「下重側ノ柱ヲ二重目迄立上ル故物見大キ也」…下の重、側(がわ)の柱を二重目まで立ち上るゆえ、物見大きなり。との記述でありまして、この一文は、両者のプロポーションの違いの理由を説明したものでしたが、それ以上の、ある意味合いも込められていたように思えて来たのです。

名古屋城天守の立面図(赤色表示)との同縮尺のダブリ

(『愚子見記』より)

一 江戸御殿守 七尺間 十八間 十六間 物見 七間五尺 五間五尺
  高石ヨリ棟迄廿二間半 是権現様御好也
一 尾張御殿守 七尺間 十七間 十五間 物見 八間 六間
  下重側ノ柱ヲ二重目迄立上ル故物見大キ也

 
 
そこで上図のごとくダブらせてみますと、まずは余談ながら、江戸城の方の積み直し後の「高さ10間の天守台」というのは、なんと、名古屋城天守の内掘底からの天守台高さとぴったり同一である!ことに驚いてしまいますが、これはひょっとすると、名古屋城の天守台を築く際に、ある種の「高さ制限」があったのでは??… との疑惑を感じさせるもので、たいへんに興味深い現象でしょう。

で、それはそれとして、『愚子見記』の問題の記述(上記の赤文字)に注目しますと、この部分は、江戸城天守の初重が名古屋城より桁行・梁間ともに1間ずつ大きいのに、最上階「物見」は逆にやや小さくなったことの理由として、江戸城天守は各重がきちんと逓減(ていげん)する、いっそう整然とした層塔型だからである、という事情を説明した部分です。

では、いったい何故、家康や二代将軍秀忠はわざわざ「江戸城天守だけ」そういう整然とした層塔型にしたのに、それに続く駿府城や名古屋城ではふたたび旧来型の、初重と二重目の平面規模がぴったり同大、という設計に戻ってしまったのでしょうか?…

このことに疑問(強い関心)を表明された方はいらっしゃらないようですが、ここに私なんぞは前述の、家康の特別の注文(「御好み」)を感じるわけでして、この点をきちんと解明しないことには、慶長度天守の木造部分は見えて来ない…… 家康の意図はつかみきれないだろうと思うわけです。
 
 
 
【天守の解けない疑問】
 そもそも、初重と二重目の平面規模がぴったり同大というのは、
 いったい何のための措置だったのか?
 そしてそれは、どこから始まった「様式」なのか??

 
 

初重と二重目を同大にする手法は、数多くの天守で取り入れられて来ましたが、そうした天守と、そうではなかった天守、との間の分かれ目は何だったのか?(→城主の好みなのか、大工の系統によるのか、防御上の使い勝手の問題か、それとも天守台などの物理的な制約なのか)まるで分からない状態=区別の基準が見えない状態でありまして、そこで当ブログは過去に「原型としての二重天守」を検討してみたものの、解明への決定打にはなりませんでした。

【ご参考】二階の天井が低くて虫籠窓がある「厨子二階」(写真は旧杉山家住宅)

また、江戸時代に京阪などの町屋で普及した「厨子二階(つしにかい)」がやや似ているようにも感じられますが、これは有力な大店(おおだな)以外の商家や民家は「町人は武士を見下ろさず」との禁制で本格的な二階を建てられなかったため、とも言われ、しかも内部の中二階は、納戸や使用人の部屋だったと言いますから、ほとんど関係は無さそうです。

そんなこんなを考えている最中に、ふと、ある “ヒラメキ” が頭に浮かびまして、今回は、それを思い切ってご披露してみようと思い立ちました。それは…
 

東大寺大仏殿に展示されている、鎌倉時代の大仏殿の復元模型

同じ「大仏様建築」の現存例である、東大寺の南大門

ご覧の「大仏様」(だいぶつよう/古来の呼び方は天竺様)建築というのは、一般に「平重衡による南都焼討で焼け落ちた東大寺の再建の際に、入宋経験のある僧・重源によってもたらされた建築様式」と紹介されるもので、特徴は「天井を張らず、屋根裏に空間をつくらず、構造材をそのまま見せて装飾を兼ねていること、そして貫(複数の柱を貫通する水平材)を多用することが大仏様建築の特色だ」と言われております。

そうした学問的な「特徴」には含まれないものの、上記写真のとおり、ご覧の二つの建物の 素人目にも明らかな特徴と言えば、<<まったく同じ大きさの二重の屋根>> だと言わざるをえません。
 
 
このことはおそらく、再建された鎌倉時代から(その大仏殿が再び永禄10年の三好・松永の戦いで焼け落ちる)戦国末期までの人々にも、同じ印象を与え続けたことでしょうから、学問的な特徴ではないものの、世間的には「大仏殿の代名詞のごときプロポーション」と受け取られたのではないでしょうか。

そこで私が申し上げてみたいのは、天守が誕生した頃に、そんな「大仏様建築」の上に「望楼」を… という風に発想した人物がいたとしたら、それはすぐさま、天守の存在の大きさ(偉大さ)をアピールする分かり易いデザインとして、人々に受け入れられたのかもしれません。

で、これだけではただの思いつきに過ぎないでしょうが、もしもそんなアイデアを打ち出したのが、大和(奈良)の地元で一大勢力を張った武将、「松永久秀」の発案だったとしたら、どうでしょうか。
 

(『日本耶蘇会士日本通信』ルイス・デ・アルメイダの書簡/永禄8年より)

(久秀の多聞山城は)基督教国に於て見たること無き甚だ白く光沢ある壁を塗りたり。壁の此の如く白きは石灰に砂を混ぜず、甚だ白き特製の紙を混ずるが故なり。家及び塔は 予が嘗て見たる中の最も良き瓦の種々の形あり 又二指の厚さありて真黒なるものを似て覆へり。…

多聞山城の復原想定図(イラストレーション:香川元太郎)

(西ヶ谷恭弘『復原図譜 日本の城』1992年より)

岐阜・安土城が出現する以前、松永久秀は大寺社建築に代表される南都の職人技術を生かした城郭を築いた。四階造りの櫓と多聞櫓をめぐらした城郭出現は、一大エポック的存在だった。
 
 
近年、評価が様変わりしてきた武将・松永久秀は、ご承知のとおり永禄3年に興福寺を破って大和一国を統一すると、信貴山城や多聞山城を築いて居城とし、ご覧の多聞山城に「四階ヤクラ」(多聞院日記)と呼ばれた建築を建てたわけですが、これが「天守」の発祥なのかどうかはさておき、私が一番気になるのは、天正2年に織田信長が、例の東大寺正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)切り取りの一件で多聞山城を訪れた際に、この四階櫓をつぶさに実見したはずだという点です。(→関連記事

何故それが気になるかと申せば、信長はその翌々年から開始した安土城の築城において、まもなく「立体的御殿」たる安土城天主を建造したのですから、異なるカテゴリーの建築や御殿を「縦に積み重ねる手法」というのは、ひょっとすると松永久秀が!!信長をインスパイア(触発)した結果なのでは――― という風にも言えるのかもしれません。…
 

かつての内藤昌vs宮上茂隆 両先生の安土城天主の解釈

(→詳細記事

かくして「大仏殿」の上に「望楼」を… という久秀のアイデアが、それを目撃した信長家臣団の武将たちによって、しだいに全国に「拡散」されて行ったのだ… という風に考えるならば、はっきりとした区別の基準が見えない分布のしかたも、ある程度、理解が出来るのではないでしょうか。

そしてそこに至るには、武将たちに強く印象づける造形的なインパクトが四階櫓になければならなかったのでしょうから、そんな姿を、前出の東大寺南大門の写真を使った合成写真で、仮に再現してみますと…

!!… ちょっと極端な表現になってしまい、まことに恐縮ですが、久秀の発案は、とどのつまりは “こういうこと” だったのだろう、という点をデフォルメ(強調)してご覧いただいた次第です。

ですが、このくらいのインパクトが無ければ、全国に「拡散」しなかったようにも感じますし、例えばこれと同様に、異なるカテゴリーの御殿を縦に重ねた建築と言えば、我が国では金閣や銀閣がすでにそうであったものの、それらは外観上、素人目にもそうと分かる造りではありませんので、対照的に久秀発案?の「大仏殿」の上の「望楼」という形は、遠目に見ても一目瞭然だったことでしょう。

さて、ここに至ってようやく冒頭の問い=いったい何故、家康や二代将軍秀忠はわざわざ「江戸城天守だけ」そういう整然とした層塔型にしたのに?… という疑問の答え(家康の注文の真意)が見えて来るのではないでしょうか。

すなわち、家康時代の江戸城天守の木造部分で、造形上の最大の注目点を挙げるなら、それは「大仏殿」の上に望楼を…という願望からの完全離脱であろうと思うわけでして、家康の意図は、もはや大仏殿という「虎」の威を借ることなく、天守は天守としてもう一体のものである、という「層塔型」の構想を、藤堂高虎の手を借りつつ、江戸城で力強く打ち出したかったのでしょう。

にも関わらず、その直後の駿府城や名古屋城の天守で「設計がやや逆戻り」してしまったのは、層塔型の急進派であった藤堂高虎に代わって、天守の築造に関わる奉行として「小堀遠州」(→数寄の大家で、なおかつ奈良で育った人!)が事業の前面に立つことになったから…… ではないかと思うのですが。
 

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