略画イラスト→やはり聚楽第天守も「層塔型」だったのでは?との強烈な見立て

略画イラスト →
やはり聚楽第天守も「層塔型」だったのでは? との強烈な見立て

小林英好氏所蔵「御所参内・聚楽第行幸図屏風」左隻より


これこそが、実在した聚楽第天守(御三階)の描写ではないのか? と 当ブログで何度となく申し上げて来ましたが、前回の「順天城」天守の件を踏まえますと、やはり聚楽第天守も「層塔型」だったのでは――― との強烈な見立てが頭に浮かんで来てなりません。

そこでご覧の屏風絵の描写について、もう一歩 踏み込んだ形で、申し上げてみたいのですが、まずはこの天守(御三階?)の破風の配置をどう解釈すべきか、という点から始めますと…

<破風の配置方法についての解釈案>

おそらくは、絵師が描きたかった元々の状態は こういうものだったのだろう(三重五階の建物)と思えてなりませんで、このように整理してみますと、早速に気づくのは、前回の順天城を描いた絵巻との「類似」に他なりません。!

多少は手前勝手な推定が含まれるものの、これらはとても “他人の空似” とは言えない状態だと 私なんぞは感じるのですが、どうでしょうか。

そして上記の <解釈案> を補足いたしますと、初重は仮に「九間四方」としましたが、これはかつて宮上茂隆先生が、徳川氏の寛永度二条城天守に関して「一〇間×九間(七尺間)にこだわったのはそれが聚楽第の天守の規模であったためと私は考えており、聚楽第の天守の復元案もいずれ提示したい」と『歴史群像・名城シリーズ 二条城』でおっしゃっていたことを思い出しまして、それにちなんで「九間四方」としたものです。

で、ここで 非常に強い興味を感じるのは、低層階の破風の妻壁に おびただしい数の狭間・銃眼があることでして、こんな風に描かれたのは何か理由があったようにも感じられ、それはこの天守(御三階)が建てられた「環境」や「時期」の影響ではなかったかと思うのです。

何故なら…



2015年、木づちで地面をたたき、表面波を計測して地中を調べる京大などの共同研究チーム

写真の調査は、例えば産経ニュースの「聚楽第の範囲が1.6倍に 京都大防災研究所チーム「表面波探査」で外堀の痕跡発見」などと報道されたもので、外掘や内掘についての画期的な知見が得られたなかで、天守台は約40m四方と推定されました。

その様子を、当サイト作成のマップで改めてご覧いただきますと…

天守台は西側に大きく飛び出た形状だった
<<これでは「平入り」が基本の「望楼型天守」は 物理的に 建てられない>>


(※内堀・外堀の状態は京都大学防災研究所の復元図に基づいて作成しました)

…… いや、妻入りの望楼型天守もあるのでは、とお感じの方もいらっしゃるかとは思いますが、例えば、かつて最古の現存天守と言われた丸岡城天守(妻入り)が、近年の調査の結果で寛永年間の再建と判明し、なおかつ望楼型と言うより層塔型の要素を多く含んだ建物であると評価されたなかでは、やはり犬山城天守のような「平入り」こそが(本丸の一遇に建つという立地条件からも)望楼型の基本なのだと思わざるをえません。

であれば、上記マップの「西側に大きく飛び出た天守台」では、とてもとても 望楼型天守は(物理的に)建てにくいわけでありまして、こんな天守台の上には、層塔型天守が周囲に「空地」をともないながら建っていたのだろう、と考えるのが、ごく自然な発想なのではないでしょうか。
 
 
<当時の天守台の高さをうかがわせる「洛中洛外図」の聚楽第跡地>
【ご参考】
京都高低差崖会(梅林秀行)様のサイトから引用の「画像A」「画像B」
 
 
引用させていただいた画像のうち、とりわけ「画像B」の、こんもりと盛り上がって突き出た箇所は、まさに! 京大の表面波探査で判明した天守台そのもの? と感じられるほどの描写ですが(→ 飛び出た感じは高松城の天守台のようでもあり…)とりわけ画像中の「松」右下の切り立った崖に注目しますと、城内では天守台だけが、頭抜けた高さであった可能性も感じさせます。

それはもう一つ別の洛中洛外図屏風(某国立博物館蔵)でも同様の描写が。

では、前出のマップを、南東の上空から見た感じで表示し直しますと…


そこに、前出の天守(御三階)の 略画イラスト をダブらせてみます!!

(※天守台の高さは「6間」程度と仮定しました)
(※最上階の解釈方法は3年前のブログ記事をご参照下さい)

さて、以上のごとく推理を重ねてまいりますと、当サイト持論の <豊臣秀吉の天守は「丈間」で建てられた> に基づくならば、丈間の9間四方は、現地表近くで「約40m四方」という大ぶりな天守台であっても、石垣の傾斜角度を加味すれば、ちょうど天守木造部分のまわりに幅1間程度の「空地」がめぐる、ぴったりのサイズに納まりそうです。

となると、問題の「おびただしい数の狭間・銃眼」というのは、やはり前回ブログの順天城と同じく、版図の最前線「仕様」としての防御措置の一環と言えるのかもしれません。

―――!? しかし京の都のど真ん中で、版図の最前線「仕様」というのは、矛盾していて、おかしいではないかと突っ込まれそうですが、そこには <<出現時期の一致>> という答えがありそうです。…

過去のブログ記事でもご紹介したとおり、聚楽第天守は、前田利家の娘で秀吉の側室・摩阿姫(まあひめ/加賀殿)が住んだ、という話がよく知られるものの、桑田忠親著『桃山時代の女性』等によれば、摩阿姫が側室となったのは天正18年5月のことで、その1年後には大津に移住してしまったそうなのです。

ということは、実在した聚楽第天守とは、主に二代目の豊臣関白・秀次の時代に向けて建造された「御三階」であったのかもしれず、そうしてようやく出現した待望の天守(御三階)は、版図の最前線「仕様」であった、というのなら、それはまさに、朝鮮出兵に前のめりの豊臣政権にふさわしい “首都の戦意高揚モニュメント” でもあったのではなかったか、と…。
 

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