深耕再論。八角=十字形八角平面(四方を見渡す中心点の造形)が天守を天守たらしめたのか

【重ねてのお知らせ】申し上げた「天守画」イラストの新作(=江戸城「元和度」天守)に難航しており、もう一週間ほど時間をいただきたく、次回は12月18日前後を目標に作業を続行中です。
… … …

1970年代から中国が領有権を主張し始めた 尖閣諸島 Senkaku Islands

【前倒(まえだお)し余談 / 次回記事のテーマ「 理 屈 」にちなんで】
 
…… 私は今ごろになって、YouTubeの 伊藤俊幸元海将の<着上陸の敵兵「排除」戦術> を見つけまして、いわく、尖閣諸島には 日本人がいない方が、グレーゾーンを含めた有事の際に 敵兵を日本領から「排除」する目的では、単に、島にミサイルを撃ち込めばいいだけなので、有利である、との伊藤元海将の 理 屈 には、思わず脱帽したものの…

しかしそうなると当然、中国側は「中国領の釣魚島(尖閣諸島)にいた中国人民を、日本軍がミサイルで皆殺しにした―――」と国内外で叫び、国連の安全保障理事会の場でも日本糾弾を行なうのでしょうから、そういうプロパガンダ合戦に(日本の外務省が!)打ち勝つ必要が出てまいります。
 
で、そんな展開がとっさに頭に浮かぶ(現在の)岸田総理 や林外務大臣といった方々は、尖閣諸島へのミサイル攻撃を許可できるのか?? と言えば、“ケンカの出来ない人” 岸田総理は「…自分は死んでも出来ない」と言い出しかねないでしょうし、そのまま思考停止ぎみになって、すでに計画のある(多大な犠牲を生むはずの)「奪還作戦」の方へと、ずるずると流れて行ってしまう… のではないでしょうか。

伊藤俊幸 元海上自衛隊海将

以前のブログ記事では、そうなる前の自衛隊のすばやい対応を… などと申し上げたものの、この伊藤元海将の理屈(着上陸の敵兵「排除」戦術)は、例えば「元海将の私案」という形ででも、大声で 世界中に知らしめておく価値が 高い のではないでしょうか。
 
――― 何故なら、そうなれば中国側も(あの戦狼報道官などが)猛烈に反発し、そのことが中国国内でも広く知れ渡るでしょうから、それが言わば「心理的警告」=あの島に上陸したら命が無いのか… という常識に転じて、とどのつまり、
 
尖閣諸島は、将来的な「日中の正式合意」が無いかぎり、未来永劫、誰も触れることの出来ない島(陸地)にしておける
 
という 絶大な効果(=強固な状況の出現!)を生むのかもしれません。
 
一方、海域での日本漁船の保護については、海上保安庁の皆様の奮闘努力に期待するとしまして、伊藤元海将におかれては、このことを是非とも、前向きにお考えになってみてはいかがかと思うのですが。
( → むろんその場合、この戦術は「竹島・北方領土には適用しない」と付け加える必要がありましょうし、要は、どの国も「力による現状変更は許さない」との統一的なメッセージで打ち出すべき、かと。)

※           ※           ※
※           ※           ※

 
< 深耕再論。八角=十字形八角平面(四方を見渡す中心点の造形)が
  天守を 天守たらしめたのか >

 

【今回の話題のきっかけ】
これらは、たまたま 似た形状(結果)になっただけなのか……

前回の記事より / ポタラ宮にある 立体曼荼羅 (まんだら) の事例



そして一方、「江都城御天守図」に描かれた 江戸城天守の上層階



(※ご覧の絵図は国立国会図書館デジタルコレクション からの引用です)

前回もご覧いただいた「チベットの立体曼荼羅」は、ほかの事例もほぼ例外なく、写真のように四方に「別の楼閣」が添えられる形になっていまして、『図説 チベット密教』の田中公明先生によれば、「外側にさまざまな外郭構造が描かれている。これらは、神聖な曼荼羅を守護する 結界(けっかい)である」とのことでした。

そしてこれは、形の上だけで申せば、我が国の天守の「付櫓」か「張り出し出窓」、とりわけ天守の最終形態とも言われる江戸城寛永度天守の、四方に唐破風の出窓が設けられた上層階のデザインと、私なんぞには ダブって見えて仕方のないものです。…

――― これらは単なる “他人の空似(そらに)” とも見えましょうが、しかし、もしもこの両者の間に、何か 共通の原形 があったとしたら、話は全く違って来るでしょう。

例えば、チベット仏教は7世紀に(前々回の記事にも登場した)ソンツェン・ガンポ王が仏教を導入したことに始まったものですから、その7世紀以前にさかのぼる「何か」が存在していれば、それが 共通の原形 になったのかもしれません。

そして一方、江戸城天守については、寛永度天守の大工頭と言えば、徳川譜代の木原家(木原義久)と言われるものの、一説には、幕府の作事方大棟梁の甲良豊後守宗広 (こうら ぶんごのかみ むねひろ) とも言われ、もしそうであれば、宗広は天正2年、近江の甲良庄の生まれであり、甲良庄は安土までわずか10kmの地点ですから、宗広は少年の頃に「安土城天主」を じっと 眺めた 経験があったのかもしれません。
 

眺望のための張り出し(「抱厦」)を四方に設けた「十字形八角平面」は、
我が国では安土城天主から始まったもの …?…




(※ちなみに「 抱 厦 」の漢字二文字を直訳すれば「抱擁された 屋敷や庇(ひさし)」という意味)

そこで、またまた手前味噌のイラストで恐縮ですが、当サイトでは安土城天主の「八角」の階について、正八角形の八角円堂ではなくて、他の多くの天守にも見られた「十字形八角平面」のことであろう、と ブログ記事年度リポート で申し上げて来ました。

では、織田信長自身は、そんな「八角」=十字形八角平面を、どこで思いついたのか? という観点で申しますと、南化玄興が詠んだ七言詩「安土山ノ記」の中に「宮高大似阿房殿(宮ノ高キコト阿房殿ヨリモ大ニ似タリ)」との一節があり、実際の阿房宮はなだらかな丘陵地にあったのに、標高200m弱の安土山の「山城」を阿房宮に見立てた不思議さから、過去のブログ記事 では…

袁耀「阿房宮図(擬阿房宮図軸)」(清代/乾隆四十五年/南京博物院蔵)

(過去のブログ記事より)

そうした阿房宮の姿は、中国歴代の絵師によって「絵」にも 度々描かれ、それらを参照してみますと、あっ と息を呑む事情が判明します。 例えば… ご覧のとおり、絵画上の「阿房宮」は、黄河の支流・渭水の南岸で、そそりたつ岩山の上にあるように描かれ(中略)しかも当サイトが提起している「十字形八角平面」の建物として描かれているのです。

(拡大)

 
 
< 楼閣山水図の阿房宮(亭台楼閣)の描き方は、実は、
 「阿房宮」という名の “由来” が大きく関わっていたのかも… >

 
 
 
さて、この辺で早めに申しておきますと、上記の画家・袁耀と言えば、もっと有名なのは兄の 袁江 なのだそうで、この兄弟はともに「驪山(りざん)避暑図」という始皇帝陵(≒阿房宮)をモチーフにした絵を描いていて、そのうち兄の方の楼閣の描き方をお目にかけますと…

兄の袁江画「驪山(りざん)避暑図」


(楼閣の描写を拡大)


そして前出の、弟の袁耀画の建物をもう一度

!! これらは、まったくもって、同じ楼閣を(手本の粉本から)描いたのは間違いなく、ご参考までに申し添えますと、こうした描き方はその後も、中国国内はもちろん、我が国にも (現に) 伝わって来ております。

柴田是真画『粉本 阿房宮図』(明治前期/江戸東京博物館蔵


そして現代の中国では、絵画テキストの表紙などにも…


――― ご覧のすべては「同じ楼閣の描写の踏襲」であって、四方には眺望のための張り出し=抱厦(ほうか)が決まって描かれるのですが、いつ頃から、このような阿房宮の描き方が一般化したのか? と考えますと、一つには「阿房宮」という呼称の “由来” が大きく関わっていたのかもしれません。

どういうことかと申しますと、阿房宮は、ご承知のとおり紀元前219年、秦の始皇帝が新たに築き始めた宮殿で、中心となる建物は朝宮の前殿と言われますが、そもそも阿房宮の「阿房」というのは、史記の秦始皇本紀によれば、まずは 地名と考えられるものの、結局は未完成だった経緯を踏まえますと、完成までの「仮称」であった可能性もあるらしく、「阿房」の漢字二文字には、それらしい解釈が、四つほど考えられるのだそうです。
 
 
【第一の説】首都・咸陽の「近郊」という意味の呼称
→「阿」の字には「近い」という意味があり、宮殿の建設地が秦の首都・咸陽(かんよう)の「近郊」であったため、とする考え方。

【第二の説】四方に庇(ひさし)のある「四阿旁廣」の形から来た呼称
→ 建物から張り出した庇(ひさし)の類いを「阿旁廣」と言うそうで、それが宮殿の四方に設けられて「四阿旁廣」の形だったから、という考え方。 阿旁廣は古代では「歌」にまつわる場所らしく、建物の意匠?が「ねじれ、廊下に囲まれ、座屈している」のが「四阿旁廣」の特徴だと言います。

【第三の説】ひときわ高い「基壇」上に建てられたことによる呼称
→ 漢書の賈山傳には、阿房宮は大陵として高く建てられたため、その名がついたと書かれていて、ひときわ高い「基壇」上の建物(「宮阿基旁」)だったのかもしれません。 現に2016年の発掘調査では、宮殿は高い丘陵の上にあり、しかも高さ約20mの版築の土台が確認されたそうです。

【第四の説】始皇帝が愛妾「阿房」の名をとどめるためにつけた名称
→ これは伝説の類いですが、始皇帝が最も寵愛した女の名が「阿房」であり、「趙」出身の娘で、皇后?とすべく画策したものの重臣が反対し、そのため「阿房」は自ら身を引いて首を吊った、とのことで、この事件の後に、始皇帝が彼女の名を宮殿の名称にとどめたのだ、というもの。
 
 
以上の四つの説は、ネット上でも色々と紹介されておりますが、【第二】と【第三】は 実に注目すべき解釈 ではないかと思われ、それは科学的な妥当性ではなくて、その後の絵画上の表現 = 阿房宮の「描き方」として【第二】+【第三】であれば、まさに、前出の始皇帝陵(≒阿房宮)をモチーフにした絵などは、こうなるしかなかった、と思えてならないのです。

【第二の説】四方に庇(ひさし)のある「四阿旁廣」の形

【第三の説】
ひときわ高い「基壇」上に建てられたこと

つまり歴代の画家は、「阿房宮」の名があまりにも有名なので、「阿房」の二文字が示す解釈のとおりに、そう描くしかなかった… のではないでしょうか。

ですから、今日に伝わる「阿房宮の描き方」とは、実際の建物に基づいたものではなく、名前だけが一人歩きを続け、やがて絵画上で一つの建築像がまとまり、それが時代をこえて無数の人々に追認されたため、亭台楼閣の典型の姿として固定化したのかもしれません。

(※※ ということは、場合によっては、事は「真逆」なのかもしれず、阿房宮の中心となる建物は、発掘調査がなされた「朝宮の前殿」よりも、【第二】+【第三】のとおりの「亭台楼閣」の方だったのでは?… という可能性は、まだありうるように感じるのですが、どうなのでしょう)
 
 
そこで、ちょっと「後出し」になって恐縮ですが、前出の画家の兄の袁江には「阿房宮図屏」という 屏風もあって、これが大変に興味深いので 是非ご覧下さい。

兄の袁江画「阿房宮図屏」(清代/北京故宮博物院蔵)

右下の川沿いには、まさに今回 申し上げている亭台楼閣が配置されていて…


「阿房宮の描き方」が踏襲されるのですが、一方、屏風中央の山中には…

より大規模な三階建ての御殿と 玉座? が描かれているものの、こちらは辺りに人気(ひとけ)が無い、という、ちょっと不思議な描写になっており、もちろん形式的には山中の御殿の方が儀礼の場になるのでしょうが、では、どちらが果たして < 阿房宮の中心 > だったか――― と問われれば、がぜん 怪しくなる描き方なのです。
 
 
 
< で、この際、あえて申し上げてみたいのが、
  阿房宮の中心建物を「朝宮の前殿」とする報告への疑問 … >

 
 
 
こんなことを 性懲り(しょうこり)も無く 申し上げる動機は、(年度リポートで例に挙げた) 河北省石家荘の「五花八角殿」との異名がある毘廬寺 (びるじ) 正殿も十字形の平面ですが、至近の 隆興寺「摩尼(まに)殿」もまた、同様の古建築(北宋時代/1052年創建)として非常に有名なもので…





という注目の「摩尼殿」は、実は、隆興寺の縦長の境内の “ど真ん中に” 位置しているからです。


 
→ → 朝宮と寺院との違いはあるものの、
摩尼殿は「前殿」という扱いの建物ではない。

「朝宮の前殿」とは、我が国の平城京で言えば「大極殿」、織豊期の城郭で言えば「表御殿」にあたる公式の儀礼の場ですから、四方にほぼ同等の抱厦が張り出した建物では、いかにも不都合ではないのか、という根本的な疑問があります。

そしてこの件については、文化大革命で「反動分子(=右翼思想の者)」と批判された建築史家の梁思成(1901-1972)が、初めて見た摩尼殿の抱厦に戸惑い、その意味について、以下のように考察したことが 中国語のサイトに 紹介されております。

(同サイトからのgoogle翻訳のブラッシュアップ)

梁思成がのちに摩尼殿の図面を作った際に、ためしに四つの抱厦をすべて省略してみようとしましたが、他の建物と一緒に考えると、それでは一貫していないことに気づき、場違いな感じがしました。 そこで彼は抱厦を補い、補うとすぐに自然になりました。
四方の抱厦は不要のようでいて、摩尼殿の見栄えを良くするのに大きな役割を果たすとともに、他の建物との調和も高められ、それがこの建築の魅力かもしれません。 実際、そうして建物はどれも孤立せず、環境との統合を果たせるのです。

 
 
こんな梁思成の考察を踏まえますと、四方に張り出した抱厦は、楼閣や角楼では確かに「眺望」の役割だったのでしょうが、その十字形がもたらす、いっそう本質的な意義として…

< 建物群の全体の「中心点」をあらわす造形 >

という、思わぬ効果を、本質的に備えていたのではないでしょうか。

であれば、四方の抱厦 = 十字形八角平面とは、草創期の天守が「天守」であるためにも、そうとうに重要な役目を果たしたはず、と思えて来てならないのですが。… …
 



 

※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。