19世紀ロマン主義の再建城と、戦後日本のコンクリート天守との違い

19世紀ロマン主義の再建城と、戦後日本のコンクリート天守との違い

世界的に有名なノイシュバンシュタイン城の建設(1868年~1892年)
=我が国では、明治元年~同25年のこと!!

背景の右側に写っているバンヴァルト湖の位置から、どれも同じ画角で撮った写真だと分かりますが、ご承知のとおりノイシュバンシュタイン城は、近代の、産業革命後に建設された城であり、現状の城が出来上がったのは明治25年… 我が国でも近代化が進み、足尾銅山の鉱毒事件などが起きていた頃でした。

城郭ファンの皆さんは、ノイシュバンシュタインなど眼中に無い、という方々が多いとは思うものの、どうしてこんな話から始めたかと申しますと、昨年末、萩原さちこ先生の『城の科学』を取り上げた回で、英語版ウィキペディアの「日本の城」において、日本の城は「そのほとんどが鉄筋コンクリート製の複製物です」…原文steel-reinforced concrete replicas レプリカ! などと書かれていたことが、ややトラウマぎみになっているからです。

それにしても、あのようにコンクリート天守を「レプリカ」と言い放つのなら、世界でいちばん有名なCASTLE(城)である、ノイシュバンシュタイン城はどうなのか!?

思わずそう叫びたくなるのは、施主のバイエルン王・ルートヴィヒ2世のあまりにも有名な築城の「動機」の件もそうですが、冒頭写真のごとくこの城が建つ以前は、そこには中世の城跡が二つ、ヴォルデー(前)ホーエンシュヴァンガウ城とヒンター(後)ホーエンシュヴァンガウ城があったのを、その遺構を完全に「破壊」してから建設が始まったこと。

そして建設は、基本的にレンガ造りで進められたものの、部分的には近代の技術である「鉄骨」も使用されたこと。

さらには、ルートヴィヒ2世が死んでもなお、城の「観光」用の価値を見い出したバイエルン政府によって1892年(明治25年)まで工事が断続的に進み、それでも結局は、巨費が予想された主塔(ベルクフリート)は未着工のままだということ。

こうしたいくつもの「弱点」を抱えているにも関わらず…
<<中世の古城を破壊して明治25年に新築されたこの城が、世界では城の「レプリカ」とは絶対に言われない、その理由はいったい何なのか??>>
という世界の “基準” に対する疑問が、コンクリート天守の問題を言い続けてきた私なんぞには、のどに刺さったトゲのように感じられてなりませんでした。

…        …          …

そんな私の猜疑心を解くには、ライン川中流域の両岸にずらーっと並んでいる(クルーズ船ツアーで人気の)数多くの城のあり方を見ていくのが良かったようです。

ドイツ・ライン川中流域のシュトルツェンフェルス城(Stolzenfels)
17世紀に破壊された古城を、1836年からプロイセン皇太子がネオゴシックで再建

同じく、ライン川中流域のクロップ城(Burg Klopp)
1853年にネオゴシックで再建。右側の主塔(ベルクフリート)は当時の増築部分

ライン川中流域の城マップ

(※地図の画面クリックで拡大版もご覧になれます)

このように図中には30数箇所の城(城館・要塞・城砦・廃墟)がそれぞれマークで表示されておりますが、なんとその半数が、19世紀に(ある動機から)続々と再建された城であるというから驚きです。
(→ピンク色のダブリ箇所。ただし最も北側のエーレンブライトシュタイン要塞は、純然たる軍事的な要請から防御力が強化されたもの)

どうしてこの地域に、これほど集中して城の再建が行なわれたかと言えば、それは当時、ライン派の「ロマン主義」を標榜する人々によって、廃墟と化していた城跡が購入され、1810年代のブレムザー城 Brömserburg などを皮切りに、両岸の城跡が次々と19世紀末までに再建されたのだそうです。

実際に城跡を手に入れたのは王族や諸侯、実業家たちのようですが、彼らの心を突き動かした精神的な支えとなったのは、フランス革命を「すべての出来事の中で最も恐ろしい」と評したドイツの詩人(と言うかドイツ文化の巨人)ゲーテ、シュレーゲルら「ロマン主義」の文化人たちでした。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1732-1832年)

つまり、一連の動きが発した一番最初の原因は、フランス革命であり、フランス革命の暴力的な破壊がヨーロッパ社会に与えた衝撃や、その後のナポレオンの帝政支配に対する反動として、個人の感情や欲求、神秘世界や夢を描いた「ロマン主義」の作品や芸術が、18世紀末から19世紀前半のヨーロッパ各国に広まった結果だと言えそうなのです。

それがドイツにおいては、もともとの領邦国家に分裂した社会をどうしていくか、という問題と結びついて、神聖ローマ帝国のもとにあった中世への懐古が流行し、民族意識が高揚し、そんなさなかに、ライン川中流域の景観がまさに「ロマン主義」の理想を実現しうる場所として注目をあび、続々と「城の再建」にのりだす人々が現れた、ということらしいのです。

外観の完成直後のシュトルツェンフェルス城を描いた絵(1847年)

ですから、冒頭のルートヴィヒ2世によるノイシュバンシュタイン城の建設も、まったく同じ「動機」=英雄伝説の再現や王の神格化であり、その城が、いかに中世の古城を破壊しても、鉄骨を使用しても、観光用に工事が続いても、完成が明治25年であっても、城の「複製品/レプリカ」とは絶対に言われない、相応の背景(歴史的なオリジナリティ)を背負っているようなのです。
 
 
それならば「複製品」と言われる/言われないのボーダーラインはどこか? という点が気になりますが、ライン川中流域は1980年代あたりから、城の廃墟の中に現代的なホテルやレストランを建て込んでしまう例が(ラインフェルス城、ライヒェンシュタイン城、シュテレンベルク城など)何件も増えているのだそうです。

ラインフェルス城 Rheinfels と城内のホテルの様子




遺跡の重要な部分をこわさない範囲での建て込みは、近年においても許可が下りる、という現地の実態が分かる写真ですが、要するに、これらの城は歴史的なオリジナリティがそこなわれなければ、どの建築様式で城全体が保たれているか、などという歴史的「正確さ」はもはや問われない、ということなのでしょう。

――― いちばん大切なのは、過去にそれを再建した者が、本気で「城」として再建や改修をしたのかどうか。

ということで、こんな海外の様子を知れば、我々としても、従来言われて来た目標とは180度真逆の目標も、追いかけなくてはならないのかもしれません。

と申しますのは、我が国では、明治の岡倉天心以来の「仏像」修復のあり方(現状維持修理)が伝統となって来たせいか、文化財と言うと現状維持が最優先になり、それが城のあり方にも波及して来ていて、今では腫れ物にさわるような感覚でしか「城」に触れられなくなっている気がいたします。

いま熊本城のコンクリート天守は、やむなく「複製品の複製品」として再登場しようとしていますが、しかし考えてみれば、たとえ木造の伝統的工法で復元をしたとしても、歴史的な正確さ・精密さの追求一本槍では「どこまでやってもそれは複製品のままである」という、予想外の罠(わな)から、永遠に抜けられないのではありませんか??―――

つまり、どうやっても本物にはなりえない、正確で精密な複製品(=レプリカ、イミテーション、歴史を想像させるためのサンプル品)としての城郭復元、という心配が、今回の19世紀ロマン主義の城を見ていますと、どうにもぬぐえなくなって来るのです。…

それを仮に名古屋城天守の木造再建の話で申しますと、エレベーターの件などでガタガタしていたのは問題外だったと思いますが、それは復元の正確さのためではなくて、そもそも「城」とは侵入者を寄せ付けないためのもの、という城の本質論に関わる事柄だからでしょう。

したがって「どこまで正確・精密にやっても複製品」という罠(わな)から抜け出すためには、やはり「本気で<城>として再建すること」「それは公園の施設や展示物ではない」という、城としての最低限の【機能の復活】→ やろうと思えば頑強に立て籠もれること!!… などが城の最低条件(城の要件)として本当は欠かせないのではないか? とも思えて来るのですが、どうでしょうか。(正気です…)

しかも頑強さだけで言えば、ひょっとすると木造よりもコンクリート造の方が、侵入者の突入には頑健に抵抗できるのかもしれませんから、そういうことで言うと、問題の本質は「材料」だけではないのかもしれない、という風に。…
 

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