純然たる「望楼型」天守は、羽柴秀吉のこだわりが生んだ新型天守か

純然たる「望楼型」天守は、羽柴(豊臣)秀吉のこだわりが生んだ新型天守か

前回は話の流れの都合で、図解に説明の足りない部分が残りまして、まずはその点を補足させていただきます。

――― 千田嘉博先生の安土城天主の復元案において、天主が建てられた範囲として、四角い南北20間×東西17間の「矩形版」を図示しましたが、千田先生の著書『信長の城』の読み方によっては、下記の「変形版」も想定しないといけないようです。

どういうことかと申しますと、著書では二ノ丸東溜りの「西側の礎石列は(中略)天主台一階の張り出した外壁の床を支えた柱と位置づけられます」という風に、この礎石列のラインがそのまま天主の西壁を成していた、とも受け取れる説明であり、このラインのままに北側に延長しますと、前回に引用の松本城天守よりも角度のきつい(!!)菱形の平面形にならざるをえないからです。

これはかなりの角度でチョットたじろいでしまうものの、ただ、これをよくご覧いただきますと、例えば東側(右側)では、天主の東壁が天主台入口の石段の真上を真っ二つに割るような角度で走りますが、その先はちょうど、天主台東側の石垣に(外側と穴倉内側ともに)ぴったりと寄り添う角度になります。

また同様に、西側では天主台西面の石垣との兼ね合い(→掛け造りの柱の建て方など)を考えますと、こちらの方がずっと柱を建て易いのかもしれません。

したがって、千田先生が想定した天主建物はこちらの「変形版」であった可能性も大であり、そのあたりの言及がご自身から何も無いなかで “当サイトのおせっかい” が先走ったかもしれず、訂正をいたしますが、結局のところは、前回の松本城天守との「類似性」はいっそう増すことになりそうです。

しかしそんな一方で、ご覧のままでは、鋭角になった北西の隅角部は天主台北側の通路を遮断しかねませんし、さらに今後、これらの掛け造りの礎石等が通路や伝二ノ丸内で発見されないままですと、この復元案じたいの根拠が失われてしまう、というリスクは(変形の分だけ)増大するのかもしれません。…
 
 
では今回もまた <望楼型天守って何?> というお話の続きに入りますと、前回のラストで、純然たる「望楼型天守」の普及は、豊臣秀吉の大坂城天守以降のことではなかったか? などと申しました。

そんな暴論を吐いたのは、二重目の大入母屋屋根を最大限に強調するスタイルが生れたのには、それなりの経緯(理由)があったように感じたからであり、今回はその辺をご説明して行きたいと思います。

秀吉の望楼型天守 = 二重目の大入母屋屋根の上に、望楼部分(三重分)が載る

(大阪城天守閣蔵「大坂城図屏風」より引用)

さて、ご覧の豊臣大坂城天守は、前回の大津城天守などと同じく、秀吉築造の本丸(詰ノ丸)の一遇に築かれたことが確かであり、したがって、さぞかし「細長い天守台」なのかと思いきや、まるで違っていた、という現実があります。すなわち…
 
 
【異論C】 豊臣大坂城天守は天守台の平面が12間×11間と
      極めて正方形に近かったのに
、絵画史料から「望楼型」と分かる。
      どうしてこれが望楼型天守になったのか?
      →「定義」の矛盾か? それとも望楼型・層塔型の選択には
      さらに別の動機が介在していたのか。

 


中井家蔵『大坂御城小指図』(通称『本丸図』)黄堀図より引用/当図は上が南

このように豊臣大坂城天守は断じて「細長い天守台」ではないのに望楼型でありまして、例えば熊本城大天守13×11間、松江城天守12×10間、高知城天守8×6間などと比べても、いちばん正方形に近い数値であって、これで何故、望楼型が選ばれたのか? という当然の疑問が言われてしかるべきでしょう。

そしてこの疑問を解くためには、大坂城に先行した秀吉建造の天守として、8間半×7間とも言われる秀吉時代の姫路城天守が、昭和の大修理の際の調査でより詳しい点(部材の転用や旧天守台の発掘成果)が明らかになっているだけに、解明のカギをにぎっているのかもしれません。

調査担当の加藤得二技官の復元案に基づいて描かれた、秀吉時代の姫路城天守

(学研『歴史群像 名城シリーズ 姫路城』1996年から引用)

で、ここで申し上げるべきは、一つのぬぐい難い “邪推” でありまして、調査の実測図を参照しますと、ひょっとして、この秀吉時代の穴倉の入口は南側だったのでは!? という根本的な課題が残ったままのようであり、天守台は秀吉時代→池田輝政時代で ものすごい激変を経たのかもしれない(→天守の入口が真逆?)と感じられてならないのです。


(日本城郭研究センター蔵「秀吉築造天守礎石群実測平面図」をもとに作成)

ですから調査後に加藤技官が提示した復元案は、この点で、すなおに受け入れ難い印象がありまして、そのあたりは例えば、後に松岡利郎先生が考証され、板垣真誠先生が作画した(前出の)イラストにも微妙に反映されていて、下記の赤丸部分が、実は、たいへんに重要な肝(きも)になっているのです。!…

つまりこの赤丸部分が、この天守の入口だったのかもしれない、という驚きの可能性を秘めたままのイラストであったわけで、私なんぞは、これこそ秀吉天守の実態を解明するものと思われ、ためしに現存天守と位置を重ねて比べますと…

!! ご覧の画像での秀吉天守は、真正面の空中高くに(!…)アクロバティックな入口があったように見えるもので、これはもちろん、この手前にさらに石垣が張り出していたはずであり、ちょうど西側(左側)に見えている「水五の門」に入る箇所の石垣が、もっと東側まで形を変えながら延びていて、そこから秀吉天守にダイレクトに入る形だったのではないでしょうか?

つまり秀吉時代の天守は、南側の御殿(いわゆる太閤丸居館)や城下の側に向けて、堂々と(?)建物の真ん中に入口を開けていた―――

かくして、秀吉の天守には、この姫路城の頃から一貫して踏襲された、特有の「様式」が存在していたのかもしれません。

当ブログは以前から、中央の柱間(はしらま)が一間半などの幅広になり、しかも手前と奥で半間分の位置が食い違いになる礎石の配置方法が、姫路城や肥前名護屋城など 秀吉建造の天守に共通した現象であることを度々申し上げましたが、いま改めてこれを見直しますと、中央の幅広の柱間と「天守入口」との位置関係も、かなり重要な要素だったのかもしれません。

そこで一つ注目してみたいのが、禅宗寺院の塔頭(たっちゅう)で、僧侶の住居を兼ねた「方丈」という建物が、この秀吉天守とまるで同じ「中央の柱間を一間半などの幅広にする」建て方であったことでしょう。

「方丈」建築の代表例 : かの伊達政宗の再建で知られる瑞巌寺の本堂
※写真は本堂の室中(孔雀の間)…中央の幅広の柱間の向こうに仏間が見える

ご覧の瑞巌寺は現地を見学された方も多いかと思いますが、建物南側の正面中央に「室中(しっちゅう)」という儀式や議論のための広い部屋を設けたのが「方丈」建築の特徴で、ここにご覧のとおりの幅広の柱間(二間幅)が使われています。

そして室中の入口、つまり建物の第一の入口は 特別に一間半の幅広になっておりまして、その手前には庭が広がり、瑞巌寺の場合は階(きざはし)があって庭との出入りが容易になっています。

こうした造りを見ますと、どこか秀吉の姫路城天守とつながる “建築の構想” が感じられると思うのですが、これはどういうことか経緯を確認しておきますと、秀吉時代の姫路城の造営を担当したのは、伊勢神宮にゆかりの宮大工・礒部正次郎直光とされ(『礒部家旧記』『礒部家過去帳』)、『姫路市史』では織田信長の安土城を担当した熱田大工の岡部又右衛門にならった人選であろうと見ていて、天正9年という姫路城天守の建造時期(『豊鑑』ほか)とも違和感が無いとしています。

ちなみに、瑞巌寺本堂の再建を担当した梅村彦左衛門家次もまた、伊達政宗が京から招いた紀州出身の宮大工と言われますので、結局、宮大工による「方丈」建築というのは特段の不思議にも当たらなかったわけで、ひとえに “建築の構想” は施主の秀吉本人の意向によるもの!と言い切って良さそうなのです。

となると、秀吉天守の特異な礎石配置は何のためで、半地下の穴倉やその上の一階はどうなっていたのか? に焦点がしぼられて来まして、そこで思い出されるのは、同時期の明智光秀ゆかりの福知山城天守が、古絵図で一階に「対面座敷」を設けていたことであり、あえて空想をたくましくすれば、秀吉天守の一階にも「方丈」建築の「室中」をアレンジした形での「対面座敷」があったのではないか、という風にも思えて来ます。

そしてそんな大それた空想をうながすのは、豊臣大坂城天守の場合に、奥の仏間にあたる部屋にはひょっとして、秀吉の旧主・織田信長の甲冑が納められていて、そこから「御武具の間」という天守台上の一階(下図の三階)の名称が生れたのではないのか… という勝手な連想であります。


(※画像の青文字は『輝元公上洛日記』より)

…… やはり秀吉天守の一階と二階は「御殿」機能を果たしていたのだ、と私なんぞは改めて思わざるをえませんで、その上の階からが宝物蔵を兼ねた「望楼」部分という風に、天守の上下階を完全に二分割するため、一階二階をまずは “大入母屋屋根の大空間” にすることが、秀吉の頭の中を強烈に占拠してしまい、それが「純然たる望楼型天守 = 二重目の大入母屋屋根を最大限に強調したスタイル」を完成させた、大いなる動機になったのであろう… と。

そして最後になりましたが、豊臣大坂城天守の12間×11間という間数そのものは、安土城天主の天主台上の一階の間数にならったもの、と私は以前から確信しておりまして、そんな正方形に近い平面形にも関わらず、秀吉は自らのこだわり(姫路での成功体験)を押し通したのでしょう。

当サイト復元案では、安土城天主は七尺間で「12間×11間」であり、
そして豊臣大坂城天守も京間で測った古絵図は「12間×11間」になっている

 

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