続・純然たる「望楼型」天守は、羽柴秀吉のこだわりが生んだ新型天守か

続・純然たる「望楼型」天守は、羽柴秀吉の …

前回のラストでご覧いただいた図のうち、左側の安土城天主でグリーンに塗った天主台上一階(二重目)の範囲について、一部に実線の無いところをグリーンに塗っている部分もあって、疑問を感じた方がいらっしゃったかもしれません。

静嘉堂文庫蔵『天守指図』の二重目(赤)の上に三重目(緑)を重ねると…

そうしたグリーンの塗り方は、以前のブログ記事でもお見せした図のとおり、abcの三箇所は三重目(緑)の方がやや外側に張り出しておりまして、これは緑色のラインまで二重目も「縁(えん)」などの開放的な造りで、建物のうちであった、という風に解釈できるため、冒頭のごときグリーンの塗り方になったわけです。

で、そんなaとcの角で囲われた四角形を想定しますと、ちょうど12間×11間という風に(やや南西の角が欠けた形で)なり、豊臣大坂城天守の城絵図の12間×11間(=京間での計測値)と符合することになります。
 
 
<「方丈」建築を参照しながら、豊臣大坂城天守の一階内部を類推する―――
 
 

瑞巌寺本堂の見取図

さて、前回の記事では、ご覧の「方丈」建築の建て方が羽柴秀吉時代の姫路城天守の建て方に似ていた、というお話を申し上げたなかで、瑞巌寺の本堂を「方丈」の代表例として挙げましたが、7年前の当ブログ記事で例示した大徳寺の塔頭・大仙院の方が、礎石の配置方法という点では、いっそう秀吉天守に似ていたようです。

大仙院本堂の見取図/永正10年(1513年)造営


(※いずれも『日本建築史基礎資料集成 十六』に掲載の図をもとに作成)

ご覧のとおり、こちらの「方丈」では「室中」中央の柱間が1間半をとっておりまして、その両脇の1間ずつに比べると、比率としては姫路城や肥前名護屋城の秀吉天守といっそう似た感じと申せましょう。

で、前回からこのように見てまいりますと、秀吉建造の天守というのは、これまで内部の構造を推定できるほどの史料は(フロイスや大友宗麟の大坂城訪問記など)大ざっぱな印象を書きとめた記録しか存在しなかったため、部屋の配置などは厚いベールに覆われたままで何も言えなかったわけですが、必ずしもそうではない??… という “邪念” が心に浮かんで来ます。

すなわち、上記の「方丈」建築や秀吉ゆかりの建物の古図(→聚楽第の大広間など)を秀吉天守に当てはめてみれば、天守台上の一階二階は「御殿」機能を果たしていたはず、という当サイトの手前勝手な推理も(→前回に申し上げた「室中」をアレンジした「対面座敷」なども)“強引に” 図示することが出来るのではなかろうか、と…。


(中井家蔵『大坂御城小指図』…通称『本丸図』黄堀図より/当図は上が南)

豊臣大坂城の『本丸図』をご覧いただいたのは、秀吉時代の姫路城天守は一階が8間半×7間と言われるものの、発掘が及ばなかった範囲がやや未確定のままですので、ここからはご覧の豊臣大坂城天守でお話を進めるためでして、話の焦点は『本丸図』に12間×11間と書かれた範囲に天守建物がどのように建てられ、また南東側の付櫓は何の役目を果たしていたのか? という点になります。

そこでまずは、上が南になっている『本丸図』に合わせて、先の瑞巌寺や大仙院の見取図を(上が南になるように)上下を180度回転させますと…

この二つの「方丈」建築を見本にしながら、ひとまず仮の部屋割りをしてみます。

【A案】「御武具の間」という階の名称を第一に考えた類推案

――― これは当サイトがずっと申し上げて来た天守台の構造(※天守台二段目の石塁に囲まれた半地下構造の穴倉など)をそのまま引き継いだ図ですので、かなり強引なのは承知の上ですが、うすみどり色で塗った部分が、半地下階の上に建つ「天守台上の一階」=天守全体の三階にあたり、その中を当サイト持論の「十尺間」と「中央の柱間だけ一間半」という秀吉天守の鉄則をふまえつつ、「方丈」風に部屋割りしてみたものです。

そして「方丈」の仏間にあたる部屋には、秀吉の旧主・織田信長の甲冑や太刀などを納めたことで、『輝元公上洛日記』にある「御武具の間」という階の名称がついたのでは??… との推理を強く働かせてみた案です。

例えば大徳寺における信長の葬儀では、主催者たる秀吉は、位牌と不動国行(ふどうくにゆき)の太刀を自ら掲げて参列しましたが、その後、この信長の愛刀はしばらく秀吉のもとにあったようですし、そうした類いの武具を一階の正面奥に象徴的に納めたのではなかったでしょうか…。

ただ、この【A案】の状態ですと、その後の武家屋敷に普及する対面座敷の配置とはまるでかけ離れたものになり、やや不審です。

と申しますのは、この時期すでに秀吉は、聚楽第の大広間で「中段」「上段」「上々段」といった、天皇の臨席も踏まえた形での、主君と家臣との対面の儀礼にふさわしい御殿を建てていたからでして、下記の古図には、おなじみの「帳台構」までもがしっかりと描かれています。


(聚楽第大広間の古図をもとに作成)

ということは、豊臣大坂城天守の一階に「対面座敷」を想定する場合は、それ相応の構えが必定であって、それをどう考えればいいのか迷う中で思わず気になったのが、古図の左側に描かれた「中門」でした。

ご存じのように「中門」とは、寝殿造の中門廊が変化して書院造に設けられた鉤形の広縁でしたが、中門廊の場合はそこからが主人の館であったため、通常の出入りを行なう「玄関」としても使われ、これがあることが公卿の格式を示しました。

で、思えば話題の「方丈」建築も、広縁につながる「玄関」をわざわざ張り出していたことが特徴の一つでしたから、これらの間には何か関連があったのかも、と思い立ち……

【B案】方丈の「室中」をアレンジした形での「対面座敷」があった場合の類推案

かなり安直なやり方ですが、「中門」と付櫓の位置をダブらせますと、広い「室中」を対面座敷の「中段の間」に当てることができましょうし、また「上々段」は天守南西隅の日当りのよい場所になり、これはちょうど本丸奥御殿を見おろせる格好の位置になります。

こんな仮定の結果は、豊臣大坂城天守で特徴的だった南東側の付櫓が実は「御成玄関」であった、という画期的な見方も生れることになりまして、天守の建造は秀吉が朝廷に「大坂遷都」の打診をし、その結果を待っていた時分のことでしたから、ひょっとするとこれらは、朝廷からの勅使を迎えることを想定していたのかもしれない、などと。…
 

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