伝統工法の木造天守に「エレベーター」を要求する人々の登場

伝統工法の木造天守に「エレベーター」を要求する人々の登場

今回のブログ記事は、前回までの「望楼型天守って何?」という話題をちょっとだけ中断して、余談の余談を申し上げたいのですが、最終的に言及したい「城」は下写真のドイツ・モーゼル川沿いのエルツ城(Burg Eltz)でありまして、まずはその前に、名古屋城天守の木造化をめぐる紛糾の件から…

かねてから話題の名古屋城天守の木造化が、またぞろ腰砕けに、しかも今度はかなり意図的にそうなってしまいそうであり、河村たかし市長はそれに対抗するため “出直し選挙” も辞さない構えだそうです。

5月21日付「市民オンブズマン 事務局日誌」様からの引用写真とチラシ

 
こうした動向は各種の報道(YOMIURI ONLINE「名古屋城天守バリアフリー 平行線」ほか)でもご承知でしょうが、かく申す私自身も股(こ)関節が良くない身ですから、障害者の立場は分からないではないものの、今回の障害者団体の動きは妙に強硬で、さながらモンスターペイシェント(モンスター患者)のごとくです。

例えば、例えば 鎌倉の鶴岡八幡宮 …この歴史的な遺産「大石段」を
障害者団体が「バリアフリーにしろ」と叫ばないのは、神社の所有だからか。

これまでに当ブログは、自治体による城郭の復元等はどうしても「公園整備」というカテゴリーから抜け出せず、ふつう文化財の補修等は所有者の寺社や博物館などの専権事項になっていて、文化庁や研究者ら以外からの横やりは入らないのに比べて、有名な「城」や「天守」の場合はいつも違って、地域からの要請や願望の類いがズバズバと入って来てしまった、という “悪しき慣習” について申し上げました。

で、今回もまったく同様に、名古屋城天守の木造化は、費用の主な財源が名古屋市の発行する「市債」であり、30年から50年間の入場料収入で返済する計画のようで、今のところ「税金」の投入ではないのに、市民運動が噛みつきやすいテーマに(→河村市長だからか…)なっています。

私なんぞは、そもそも「エレベーター付きのコンクリート天守」という代物(しろもの)自体が、我が国の歴史や文化への冒涜(ぼうとく)じゃないか、と言いたい方でありまして、戦後の日本人は、経済優先のために、とんでもない禍根(かこん)を残してしまったと感じております。

そしてどうやら今回の運動の背後には、某カトリック系の修道会や地元パチンコ総合サービス企業など、おそらく日本の歴史や伝統や国のかたちは二の次でいいと感じる人々が、後ろから支援をしている可能性もあるようで、河村市長が挑んだ木造化は、いつの間にか「政治闘争」の色合いを強めつつ、この先も延々と悶着(もんちゃく)を続けざるをえないのかもしれません。

そんな中で、最近読んだ本の中に、ちょっと参考になりそうな話がありました。
 

今泉慎一『その後』の廃城 2018年

書店やネット広告で見かけた方も多いでしょうが、この新書は全部を通して読みますと、知らなかった事柄もけっこう多くて面白く、とりわけここで取り上げてみたいのは、現存十二天守のひとつ、犬山城天守の『その後』なのです。

濃尾地震で半壊した犬山城天守

(写真はサイト「国宝 犬山城」様からの引用)

(上記書からの引用)

一八九一(明治二四)年、愛知・岐阜両県を大きな地震が襲った。濃尾地震である。マグニチュード八.〇の巨大地震といわれており、犬山町内も甚大な被害を受けた。濃尾地震は、犬山城の天守にも被害をおよぼした。
(中略)
町の人々の間には、学校や警察、犬山城よりも、犬山祭りの祭車を納める山倉の修理のほうを優先すべき、という声もあった。
こうした状況で募金がなかなか進まなかったことから、県知事は新たに、旧藩主・成瀬正肥に犬山城払い下げの交渉を始めた。

 
 
ほんの部分的な引用でしたが、犬山城と言えば「最近まで個人所有の城だった」という話は城郭ファンの間で有名ですが、この本は、そうなった「原因」についても紹介しています。

すなわち、明治時代に犬山城は県の管轄になったものの、濃尾地震の被害があまりに激しく、当時の県知事は「破却」方針を打ち出すも、それが県議会で否決されてしまい、その一方で、地元で復興の寄付金を募ってもなかなか金が集らない、という八方ふさがりの状況におちいり、結局、ボロボロの犬山城は旧藩主の成瀬家に “まる投げ” されたのでした。!!

つまり犬山城が「最近まで個人所有の城だった」原因は、明治時代に「県」が困り果てた末の “まる投げ” だった、という経緯は、今ではほとんど認識されていないのではないでしょうか。

実際はその後、地元の募金活動がじわじわと功を奏し、現存天守の修築にも大いに役立ったそうですが、歴史的には “こういうケースも現にあった” という点がまことに興味深く、ここで私が申し上げたいのは…
<城の保全という条件付きで、いったん「個人」に払い下げる>
というやり方は、これからの21世紀の “格差社会” の中では、ひょっとして、ひょっとすると、いいやり方なのかもしれない… と本気で思えて来る今日この頃なのです。

ただし外国人に買い取られるのはどうか、という検討課題はあるものの、保全条件の違反者には「城の即時没収」という厳重かつ強権的な罰則をつければいいのかもしれません。

思えばドイツの古城などは、がんじがらめの法律のもとで、個人所有の城は、恐ろしい金食い虫となって所有者の財産を食いつぶしていくそうですが、それでも(ある種の社会政策としては)良いのではないか… 公的な管理でミイラの展示のようになる「公園」城郭よりは、ずっと健全で、活力ある保全方法じゃあないのかと申し上げてみたかったのです。

【追記】ちなみに濃尾地震のあとの名古屋城は…… 当時の木造「創建天守」はしっかりと建っていました。

(※ご覧の写真はサイト「地震計資料室」様からの引用)

【ご参考】日本人が買い取ったドイツ・ライン川沿いの「ネコ城」Burg Katz

【ご参考】エルツ家の三家族が居住する、モーゼル川沿いの「エルツ城」

ここで冒頭のエルツ城(Burg Eltz)のお話をさせていただきますと、サイト「Exploring: Burg Eltz」様の説明等によれば、この城は12世紀初頭の築城の時からエルツ家の三分家、リューベナッハ(Rübenach)、ローデンドルフ(Rodendorf)、ケンペニヒ(Kempenich)の三家系が共有し、時代を追って家系ごとに様式の違う建物を増築してきた城です。

最盛時はこの中に合計100人以上の三家族が暮らしたそうで、城は周囲がぐるっと渓谷の森に囲まれて目立たず、三家族は政治力をつかって城の存在を地図上から消すようにも努めたらしく、その結果、現在までの900年近くの間、一度も戦火にみまわれず、いまや非公開の居住部分に住む三家族は 33代目におよぶという、驚異的な集合住宅でもあります。

ですから城の外観は、古写真でわかる最近の100年間でも火災の修築等でけっこう様変わりしていますし、33代にわたる内部の居住空間は、どれほどの改修が積み重なったか分からない状況が容易に想像できるでしょう。
 
 
で、「城」とは本来、こういうことが起きうるのが世界の「城」の通念に近いように思えて来るわけでして、反対に我が国では、江戸時代、強力な徳川幕府のもとで「近世城郭」がそれ以前の城を徹底的に破却しつつ新規に築かれ、そこから「一国一城令」で改修が禁じられ、そのまま近代を迎えると、新政府による「廃藩置県」で城主の大名らは居城を退去して東京に集められた、という、世界の中でもかなり特殊な方に違いない歴史を歩みました。
 
 
その結果、我が国は「人」の居住する「城」がひとつも無い!!… という、けっこう珍しいお国柄になっているわけでありまして、私なんぞは、本物の「城」ならば、そこには「人(家系)」が居住すべきだ、という感覚も捨てきれずにいるのですが、どうでしょうか。

(※※→前述の「個人」への払い下げの件… 名古屋城で言えば、尾張徳川家の末裔の方に “あえて住んでもらう” というのは、どうかと。それが言わば新しい「日本の城」のプロトタイプとして、居住用の奥御殿を自費=民間資金で建ててもらって… という感じで。)
 

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