松本城天守の最上階のナゾを追う

松本城天守の最上階のナゾを追う
→ 注目は流転の末に旧領回復した「小笠原秀政」の意地か

まずは前々回までの「望楼型天守って何?」という話題のポイントを箇条書きにしますと…

【1】 高欄廻り縁は望楼型天守の必須条件ではなかった(→ 望楼型であるか否かの判断材料にもならない)

【2】 高欄廻り縁の天守における目的は、多くの場合、美観ではなく、その大名の新領地において、昼夜を問わぬ領国監視の「目」を領民に意識させるためのツールであったのかもしれない
 

高欄廻り縁の存在が確実な天守と御三階櫓(低層階での付設はのぞく)

ご覧のような現象は、高欄廻り縁とは、天守の機能や美観上の要求を満たすためではなく、まず第一に、政治的な目的(監視や威嚇)が最優先されたのだと申し上げていいのでしょう。

で、そうした前提の上で申しますと、天守の歴史をふり返れば、一旦設置した高欄廻り縁を、その後にふさいで、内縁に取り込んでしまった例がいくつか存在しました。

――― 松本城、福山城、熊本城、津山城、島原城といった城の天守にその可能性があり、これらは一旦設けた高欄廻り縁をその後に閉じたのですから、その時点で <当初の政治的な意図を取り下げた> ことにもなったのでしょうから、これはかなり重大な出来事だったのかもしれません。

そこで各々の動機を想像しますと、当時、城下に天守から見おろしてはならない建物… 例えば大名家の菩提寺とか前藩主の隠居屋敷などが設けられて、そのとたんに高欄廻り縁が “不都合な存在” になってしまった、というケースが想像できそうです。

(※ → 以前の記事で紹介した「岡崎城天守」の事例からの連想)

大樹寺から岡崎城を望む歴史的眺望(岡崎市HPより)

前出の天守群のなかで申せば、例えば福山城天守は、高欄廻り縁を覆う「板囲い」が設けられたのが江戸中期と言われ、それ以上の詳しい時期は分からないものの、元和5年(1619)から元禄11年(1698)は水野氏の時代で、その間に初代藩主・水野勝成の隠居屋敷や水野家の菩提寺・賢忠寺や妙政寺が、あたかも天守(城)を取り巻くように建立されました。

そんな状況下では高欄廻り縁は一気に “不都合な存在” になったのかもしれず、「板囲い」の真の動機はそこにあったのでは?… と私なんぞは疑いの目を向けてしまうのですが、そうした事例に対して今回、是非とも注目してみたいのは「松本城天守」なのです。
 

何故かと申しますと、松本城は文禄3年?の天守建造(石川氏の時代)から江戸中期まで、城主の大名家の入れ替わりが激しかった城でもあり(石川氏→小笠原氏→戸田氏→松平氏→堀田氏)、そのため上記のごとき “不都合” は起こりにくかったと言えそうですし、ならば何が動機だったか?と考えた場合、高欄廻り縁の政治的な目的を踏まえますと、“ちょっと意外な動機” が導き出されて来て、それは松本城天守の多くのナゾに迫る一助になりそうだからです。…
 
 
<松本城天守の最上階のナゾを追う
 → 注目は流転の末に旧領回復した「小笠原秀政」の意地か>

 
 

…え? 松本城大天守の “幻” の高欄廻り縁は、建造の途中での「設計変更」によるもので、一度も完成した姿を見せなかったのでは? と城郭ファンの方々はお感じのことでしょう。

そのとおりで昭和25年の解体修理では、天守全体から実に数多くの改変の痕跡が見つかり、その半分程度?は「旧規に復原する」形で修理(あえて現状変更)されたものの、残り半分の痕跡は、具体的な復原の形の確証がつかめず、復原に至らなかったわけですが、その最大のものが「高欄廻り縁」と数箇所の「破風」であり、最上階の屋根には二箇所に軒桁が廻っているため、高欄廻り縁は 建造途中での変更(取りやめ)と考えざるをえませんでした。

そして解体修理の後に、城戸久先生が「寒冷地では廻縁は寒気に耐え難い」ゆえの設計変更だろう、と推定したことが定説化して来ました。

【ご参考】現状との違いが目につく解体修理前の様子(『国宝 松本城』より)

復原に至らなかった破風の推定復原図など(『国宝 松本城』より)

しかし創建当時を想像しますと、すでに最上階の屋根は工事に取り掛かっていた(=軒の出の寸法は決まっていた)段階での「設計変更」というのは、いかにも建築現場のドタバタ感がうかがわれ、本当に石川氏(数正・康長父子)の家中でそんなことがあったのなら、普請(作事)役の者や大工棟梁は 無事でいられたのだろうか… と心配にもなります。

そして昨今では三浦正幸先生が、大天守を建造したのは、一般的に言われる石川数正・康長父子ではなくて、そのあとの小笠原秀政が、慶長20年頃に“一気に創建したもの”という説明をしておられ、これはかつての宮上茂隆先生の “石川時代にまず完成した天守は現在の乾小天守だ” との説を下敷きにした考察のようであり、それならば「設計変更」を命じたのも小笠原秀政だ(→小笠原氏はもともと松本城を築いた戦国大名!! なのに… 寒冷地の寒気とは!?…)ということになり、定説がフラフラと揺れ始めています。(→『よみがえる日本の城 14』)

(※ちなみに香川元太郎先生は、『ビッグマンスペシャル 日本の城』の中で、高欄廻り縁や破風の変更はすべて、寛永10年~同15年の松平直政の時代に、月見櫓・辰巳附櫓の増築と同時に改築したものと推定されましたが、その中では「設計変更」を誰が命じたかについては言及しておられません)

そこで、ここで改めて当ブログが申し上げたい視点は、前述の「設計変更というのは、いかにも建築現場のドタバタ感がうかがわれ、本当に城主大名家の家中でそんなことがあったなら、普請役や大工棟梁は無事でいられたのか…」という観点でありまして、結局のところ、要は、それが起きた <タイミングの問題> ではなかったのか?? と申し上げてみたいのです。

そしてその場合、中心的な役割を担うのは、やはり「小笠原秀政」という、流転の武将になりそうなのです。
 

小笠原秀政所用の二枚胴具足(広沢寺蔵)

小笠原秀政という武将は、前述のごとく、入れ代わりが激しかった松本城城主の一人でしたが、もともと小笠原氏は甲斐武田氏などと同じく、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)を祖とする清和源氏の流れをくむ一族で、いわゆる「貴種」の武家であり、戦国時代に松本城の前身「深志城」を築いた人々であることを踏まえて、以下の年表を、是非ともご一読下さい。

松本城と小笠原氏をめぐる「流転」の年表


まだまだ年表の前半部分に過ぎませんが、ここまでをご覧になれば、小笠原長時-貞慶-秀政という三代の武将は、周辺の強大な戦国大名・武田信玄や上杉謙信、徳川家康、織田信長、豊臣秀吉らの盛衰にもてあそばれるように、深志城(松本城)を奪われたり、奪回したりを繰り返した人々、ということがご理解いただけるでしょう。

しかも彼ら三代はこの後も、深志城を奪回(旧領回復)するたびに「城」が激変し様変わりしていた!という、なんとも不思議な運命を歩む人々であり、そんな中で城を奪回した二代目(貞慶)が、城の名を「松本城」と改名したことには、父祖の地に対する彼らの並々ならぬ思いを感じざるをえません。 ※「松本」→「待つ」事久しくして「本」懐を遂ぐ、との貞慶の述懐の記録。

そうした中で孫の秀政(貞政)は、人質として、完成間もない豊臣大坂城を見ることになったわけで、その時、初めて「天守」を目撃したのでした。

松本城と小笠原秀政をめぐる「流転」の年表2



 

前出の二枚銅具足は、秀政が大坂夏の陣で着用したと伝わるもの

…… どうも秀政という人物は、最後の最後まで悲哀がつきまとう「流転」の武将であったようで、「二度の本意」と家中で語られた念願の旧領回復を果たして、間もなく戦死する、という波乱の人生を送った人ですが、この秀政の眼に、再び様変わりしていた松本城の「天守」はどういう風に見えただろうか、という点に着目してみたいのです。

すなわち、秀政が領地受け取り役で松本におもむいた時、おそらく城では(※宮上茂隆先生の指摘のとおりに)乾小天守が「旧天守」として建っていた一方で、そのとなりでは、まさに大天守が(二代目・康長自身の発意の五重天守として)新規に改めて建造中!! だったのでは――― と申し上げたかったのです。

しかもその大天守には、高欄廻り縁が、父祖の地を睥睨(へいげい)し、威嚇(いかく)し、見おろすような姿で工事が進んでいたなら、秀政はどうしただろうか、と。

そんな可能性は、三浦先生が秀政の治世(=わずか2年間)に大天守が一気に創建されたと説明する状況の中では、まだ許される方だろうと思いますし、当ブログで申し上げた「高欄廻り縁の新解釈」に基づけば、松本城天守の「幻の」高欄廻り縁を閉じてみせたのは、小笠原秀政という、流転の武将の「意地」であったと思えて来てならないのです。…
 

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