今度は松本城「旧天守」=創建天守のシミュレーション画像で。

今度は松本城「旧天守」=創建天守のシミュレーション画像で。

前回記事のラストでは…
「(慶長18年に小笠原)秀政が領地受け取り役で松本におもむいた時、おそらく城では(※宮上茂隆先生の指摘のとおりに)乾小天守が「旧天守」として建っていた一方で、そのとなりでは、まさに大天守が(二代目・石川康長自身の発意の五重天守として)新規に改めて建造中!! だったのでは―――」
などと申し上げました。

この中の「新規に改めて建造中!!」という部分については、やはり補足の説明が必要だろうと思いまして、そこで今回は、主に松本城の天守台石垣をめぐるナゾを追いつつ、旧天守=創建天守のシミュレーション画像をお目にかけたく存じます。

まずは現状の天守/東面(ご承知のとおり右側が乾小天守)

ちなみに昭和の解体修理の際はこんな状態だったそうで…(『国宝 松本城』より)

 
 
 
<はじめに「石川数正の時代に乾小天守ができ、石川康長の時代に大天守ができたとは考えられない」との、松本市の公式見解について>
 
 
 

さて、前回記事のラストの仮説は、かつて宮上茂隆先生が大天守と乾小天守の柱間や用材の違いに着目して、「石川時代にまず完成した天守は現在の乾小天守だろう」と推測したことを参考(前提)にしています。

しかし、例えば松本城管理事務所のサイト「国宝 松本城」の中には、そうした宮上先生の推測を否定する松本市の公式見解として、「天守築造年代に関する松本市の公式見解」が載っておりまして、とりわけ項目4でその理由が語られています。
 
 
4.乾小天守と大天守の柱間と用材の相違について、一般的に江戸間が古いといわれるが信濃において江戸間と京間の時期差については資料が少なく一概に新古をいうことができないし、石垣の造りは乾小天守も大天守も一体であることからみても、数正の時代に乾小天守ができ、康長の時代に大天守ができたとは考えられないこと
 
 
――― だそうで、ご覧の公式見解にしたがうなら、宮上先生の推測を参考にした当ブログの仮説や、そして三浦正幸先生の新説(慶長20年の大天守創建説)も否定されてしまうわけですが、文中の「石垣の造りは乾小天守も大天守も一体であること」が重要な知見であるのは承知の上でして、これは10年ほど前の調査で改めて確認された事柄だと記憶しております。

松本城天守の天守台石垣(南西側から)

「石垣は安山岩の山石で築いたもので、場所により石の大きさや積み方の相違は
あるが、ほぼ天守が造営された文禄から慶長2年に及ぶ石川康長の時代に
根本的に築積されたものとみてよいと思う。」
(『国宝 松本城』より)

昭和41年刊行の『国宝 松本城』でもご覧の石垣は「一体で」築かれたと推定していて、それが改めて調査で確認されたわけですが、ここで是非、私なんぞが強く申し上げたいのは、 だからと言って、「数正の時代に乾小天守ができ、康長の時代に大天守ができたとは考えられない」…ことにはならない! ! はずでは? という点なのです。

では試しに、そう申し上げたい「理屈」を、現状の写真と、石川康長の創建時のシミュレーション合成写真とを比べてご覧いただきますと…

現状の松本城天守(南西側から)この場合、左側が乾小天守

石川康長の創建天守(文禄4年/1593年当時)のシミュレーション

! ! … 上下の画像をスクロールし直して、上下の違いをご確認いただけたでしょうか? すなわち、現存の天守台上には、石川氏による創建の時から「旧大天守(前身大天守)」とでも呼ぶべき建物が存在していて、それがおそらくは四重五階の大天守であり、そのとなりには現存の乾小天守が「旧大天守の連結小天守」として、すでに建っていた――― のではなかったかと想定しているのです。

つまり松本城は最初の最初から「連結式天守」というスタイルであって、そのための現状の天守台なのであり、ただしその後、大天守だけは完成からちょうど20年目に、おそらく石川康長が <改めて五重天守を望んだ> ことから新たな工事が始まり、そうして前回ブログで申し上げた慶長18年には、小笠原秀政が目撃した状態に変貌していたのではなかったでしょうか?

石川康長の「改築途上」天守(慶長18年/1613年当時)のシミュレーション
(※見やすく描くため、当然あるべき工事用の「足場」等は省略いたしました)

したがって、宮上茂隆先生が「石川時代にまず完成した天守は現在の乾小天守だろう」と推定したのは、このように乾小天守は「旧天守」の一部がそのままずっと残ったものであるとすれば、宮上先生の着眼は、正しかった、という風に申し上げられるのでしょうし、その一方で、現存の天守台石垣は「一体で」石川時代に築かれたもの、という調査結果のままで、矛盾は一切、無いわけです。…

(※ただしこの場合も、創建時の大天守と乾小天守の間には位置づけの差があったものと考えなければならず、それが柱間の違いや仕上げ=大工?の違いにつながったのでしょう)

で、今回、あえてこう申し上げる理由は他にもありまして、現在、松本城天守の新たなナゾとして話題の、大天守そのものの <上層階と下層階の部材の仕上げ方の違い> や、大天守二重目の屋根の位置に <なぜ屋根裏階として三階が設けられたのか?> という古くからの疑問についても、以上のごとき想定から、答えを探り出せるのではないでしょうか。

……… では最後に余談ですが、かくのごとく想定いたしますと、四重五階の創建天守シミュレーションの方が、どうやら建物としての「安定感」が感じられるようで、それに比べて現状の五重天守は、突拍子もない連想でまことに恐縮ですが、太平洋戦争前に艤装(ぎそう)を大幅に増やした「航空戦艦 伊勢」や「日向」のように私なんぞは見えて仕方がありませんで、これはやはり、石川康長の改築の時から、頭の重い “ひょろ長い感じ” は始まっていたのかも……と。

【ご参考】航空戦艦 伊勢(ウィキペディアより)艦尾に月見櫓 !?(失礼)…


 

作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)

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