ものすごく本丸御殿側がアッサリしていた?…石川・小笠原・戸田時代

ものすごく本丸御殿側がアッサリしていた?…石川・小笠原・戸田時代

石川康長の「改築途上」天守(慶長18年/1613年当時)のシミュレーション
(※改築用の「足場」等の描写は省略しています)

【新規シミュレーション!!】
小笠原秀政による「設計変更」で高欄廻り縁が閉じられた状態

前回と前々回のブログ内容をまとめますと、ご覧のごときシミュレーション画像にたどりつくことになります。(※→破風の配置や四重目屋根の高さは、昭和の解体修理で判明した改変の痕跡に基づく)

これでもう松本城天守の話題はひとまず落着… と思いきや、ご覧の画像のうち、大天守の右側の、のちに松平直政が寛永10年に増築した「辰巳附櫓・月見櫓」の櫓台には、意外な “盲点” があることにお気付きでしょうか?

と申しますのは、この櫓台のある方面、すなわち本丸御殿側の面(=天守東面)に注目いたしますと、この状態が続いたはずの石川康長の時代から、小笠原秀政・忠真の時代、続く戸田康長・康直の時代まで20年以上の間、この面(天守東面)は本丸御殿から毎日、城主らが眺めていたにも関わらず、ものすごく、アッサリしていたことになるのです。!…

論より証拠で、この時期の天守東面の「破風の少なさ」を推定図でご覧ください。


(※問題の櫓台の上は、シミュレーション画像とは違い、狭間塀を描いておりません)

まさにご覧のとおりの「破風の少なさ」であり、これほど本丸御殿側がアッサリしていたというのは、冒頭画像の天守南面や西面(二の丸や三の丸方面)に比べて、明らかに見劣(おと)りのする状態であり、悪く言えば「捨てた面」のようでさえあって、私なんぞはどう考えても不思議でなりません。

普通は逆のはず、でありまして、天守は(とりわけ初期の望楼型天守では)本丸御殿の側により多くの破風を設けて、その面に「味方、内輪、家中、幸い、といったニュアンス」を含ませた感があったことは、当ブログ開始早々の記事「天守の「四方正面」が完成するとき」「破風(はふ)は重要なシグナルを担った」などで何度か申し上げてきた事柄です。

【ご参考1】犬山城天守を例にとった、破風がやや多い「内正面」の模式図

【ご参考2】松本城の地図(英語版「国宝 松本城」より引用)

ここで松本城天守の位置を確認しておきますと、ご覧のとおりの変則的な形の本丸のうち、南西側のやや中途半端な場所に築かれていて、これは内掘の最も幅の広い箇所を利用したものとも解釈できましょうが、石川時代の創建と言われる三つの主要な御殿(本丸御殿・二の丸御殿・古山寺御殿)はどれも、天守の東から南東の側に集中して建てられました。

ところが、ところが、石川康長が改築した五重の大天守は、その大切な「東面」がいちばんアッサリしていた反面、御殿とは関係のうすい「南面」に、最も多い数の破風を並べたことになります。

天守の南側と言えば、江戸中期の城絵図で申しますと、土蔵が並ぶ「二の丸」西半分とか、重臣屋敷の「三の丸」、そして大手門のさらに南側は「町人地」! が続いてしまう、という状態であり、そんな方面に多くの破風を向けた意図は何だったのか、さっぱりつかめません。

にも関わらず、そんな異様な破風配置のまま、石川時代から小笠原時代・戸田時代と平気で使われ続けた、というのも、理由(わけ)の分からないことであり、ようやく寛永10年に松平直政が松本に入封すると、さっそく「辰巳附櫓・月見櫓」を増築して三代将軍・徳川家光の御成りに備えたわけですが、そこで初めて? 天守東面はそれなりの見栄えを獲得できた、という風に、文献記録からは言わざるをえない状況です。
 
 
 
<実際は「辰巳附櫓・月見櫓」の櫓台の上には、それらに先行した付櫓群が存在していて、
 松本城天守はその当時から、徳川家康の二条城天守に似た姿だったのかも…>

 
 

徳川家康の死の翌年(元和3年)に建造された岡崎城「複合連結式」天守

(※ネット上にある復元CG/三浦正幸先生考証)

さて、ご覧のCGは幾度となく引用して来たもので恐縮ですが、これをまたお目にかけたことで、今回のブログ記事で私が申し上げたい最大のテーマについても、すでにお察しがついたのではありませんか?

すなわち、この岡崎城天守の「複合連結式」という姿は、多分に徳川家康の二条城天守(慶長度/大天守は大和郡山城からの移築)にならった可能性が濃厚でありまして、それは下記の松岡利郎先生の推定図のとおりですが、そういう姿が、ひょっとして、石川康長の天守造形にも影響を与えた、ということは無かったのでしょうか。

松岡利郎「慶長度二条城(二条御屋敷・二条御構)推定図」より

例えば、後に増築した「月見櫓」ほど華やかではなくても、
南東側の天守入口を守るための「付櫓」群がすでにここに??

つまり辰巳附櫓や月見櫓の位置には、それらに先行した「付櫓」が複数、すでに存在したのでは? という疑いが浮上するわけでして、もしそうであれば「天守東面」の妙なアッサリ感は無くなるでしょうし、したがって、少なくとも石川康長が大天守を改築した時点で、こうした措置が取られた可能性は、否定できないように感じるのです。

ただ、時系列を整理しますと、前回ブログで申し上げたごとく、康長の「改築」が慶長18年とすれば、徳川家康の二条城天守の創建(慶長11年)を手本にしたことは十分に可能でしょうが、もう一つ、天守の「位置」も含めますと、松本城天守のモデルになったのは、もっと時代がさかのぼり、天正18年頃の徳川時代の駿府城(「小傳主」)ということも…。(※この年、石川数正が松本に入封)

徳川時代の駿府城の推定

松本城

(※上記二つの城絵図の東西南北は同じ)

!――― そもそも松本城と言えば、かつて太鼓門の周辺で「金箔瓦」が出土したことから、関東に移封した徳川家を取り囲んだ「徳川包囲網の城」の一つとも言われましたが、そんな受けとめ方だけで良かったのか…。

むしろ上記二つの城絵図を見比べますと、徳川から出奔(しゅっぽん)して豊臣大名となった石川数正が死んだ後、その子・康長の築いた五重天守が、後々の小笠原氏や戸田氏の時代まで、ほぼそのまま使われ続けたことこそ、松本城天守の「元来」の構想(→徳川家康の天守との親和性!)が底力を発揮した証拠だと言えてしまうのかもしれません。
 

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