予想外の連環。劇場性たっぷりの城構えは史上最高潮か=佐和山城

予想外の連環。劇場性たっぷりの城構えは史上最高潮か=佐和山城

<<ことわざ「百聞は一見にしかず」の典型例>>
Korean Armed Forces in Vietnam(韓国軍はベトナム戦争で何をしていたか)

(※写真の詳細はこちら

いわゆる「フェイクニュース」が世界中を駆けめぐる昨今、今回のブログ記事は「百聞は一見にしかず」という古くからのことわざをテーマにしながら、前回までにお伝えした天守の破風の配置(特に四重目の「四方に向けた唐破風」)から見えて来る【予想外の連環】について申し上げてみたく存じます。

ちなみに「百聞は一見にしかず」というのは、前漢の将軍・趙充国が、反乱軍の対処法を皇帝に聞かれて「百聞不如一見(百聞は一見に如かず)、兵難隃度、臣願馳至金城、図上方略」(訳/百聞は一見に及ばず。前線が遠いため戦略を立てられない。私自身が現地を見たうえで方策を奉ります」と答えた故事によるもの。つまりこれは軍事用語でもあったのだそうで…。


石川氏~小笠原氏時代の松本城天守の五階(四重目)は…

それは奇(く)しくも、江戸城の寛永度天守と共通していた

(※上記絵図は都立中央図書館蔵「江戸城御本丸御天守閣之図」)

さて、ご覧のとおり歴史上、いくつかの天守が四重目のあたりで「四方に向けた唐破風」を設けていて、これらは構造的に見れば「層塔型天守における十字形八角平面」を成していた、と申し上げてもいいのでしょう。

見た目はいかにもインパクトのある意匠ですから、きっと模範になった天守が、いつの時代かに存在したはずだと思えてならず、それはどの城か?と考えますと(※私自身はひそかに「安土城天主?」と推定しておりますが、唐破風か否かは確たる証拠がございませんので…)ちょっと回り道かもしれませんが、安土からほど近い「佐和山城」を是非ともチェックしておきたいと思うのです。何故なら…

井伊家の菩提寺・龍潭寺に伝わる佐和山城落城の屏風絵

これは現実の落城では佐和山城は炎上しなかったという見方(→出土した瓦に焼けた跡が無い!)が強いため、細かい描写に確証の持てる資料ではありませんが、ご覧のとおり天守の三重目の屋根には据唐破風(すえからはふ/置唐破風とも)が描かれていて、これは同様の『西明寺絵馬』の描写を踏襲したものでしょう。

ちなみに佐和山城は、絵のごとき五重天守が建っていたのか、よく分かっていないばかりか、大手門の位置でさえ、中山道側(東側/鳥居本)なのか琵琶湖側(西側/古沢)なのか諸説があるほどで、ようやく城内各所で発掘調査が始まって来たものの、いまだに佐和山城は「未解明の城」と言ってよさそうな状態です。

これらは20年以上前の写真で恐縮ですが… 佐和山城跡/南西側の彦根駅から

城山の東側の大手門跡を入ったあたりから

山頂の本丸跡

 
 
「三成に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」とまで持ち上げた落首と、
落城後の目撃談や近年の調査でわかった「簡素さ」「粗雑さ」との、
チグハグな<<ギャップ>>はいったい何なのか??…

 
 
3年前の調査のおりに「出来が悪い」と報道された佐和山城の瓦滋賀彦根新聞より)

 
――― さて、いくつもの疑問が投げ掛けられている佐和山城ですが、近年は石田三成の人気も手伝ってか、佐和山城に関するセミナーが度々開催されるようになり、それらの講師として大活躍中なのが(NHK「ブラタモリ」出演でも知られる)彦根教育委員会文化財課の下高大輔さんです。

写真左側の下高主任の調査によれば、佐和山城が本格的に整備されたのは、豊臣政権下の堀尾吉晴(天正13年~同18年)か石田三成(文禄4年~慶長5年)が城主だった二つの時期になるのだそうで、瓦の出土状況から、三成の時代にいっそう大規模な改修があったと考えられるそうです。

(※ちなみにご承知のとおり、石田三成は代官として天正19年に入城し、佐和山周辺の領有は文禄4年だとする伊藤真昭説があります)

そして山頂の本丸については、下高主任による「石垣の遺構から復元した本丸平面構造図」が『淡海文化財論叢』第6輯の中にあり、それが時事ドットコムの特集記事に引用されていてご覧になれます。

ご覧の構造図を他の地図と突き合わせますと、天守の規模としては、天守台上の初層の平面がせいぜい「7間×4間」程度の小規模な天守しか建てられなかったようで、かなり興味深いものです。

そこで今回の記事では、この構造図を、ためしに同縮尺・同方位で、現地の案内用の「佐和山城跡遺構概要図」の上にぴったりとダブらせますと…

ということは、すなわち…
 

いかがでしょう。!…これはある意味、実に “石田三成らしい” と申しますか、整然としたデザインが城構えに貫かれていて、言葉を変えれば几帳面、生真面目(きまじめ)過ぎる、とも言えそうな “直球勝負の構想” が見て取れるでしょう。

では、こんな城構えは誰の構想か?と申せば、少なくとも、三成の前の城主・堀尾吉晴にこんな意識的な発想があったとは思えませんし、想像するに、石田三成にとっての「真東」とは、もはや言うまでもなく「=徳川家康」!! その人に他ならないだろう、と考えますと、色々な点で合点(がてん)がいくのではないでしょうか。

(※→石田三成が豊臣政権の早い時期から、徳川家康ら東国の「分権派」大大名を、中央集権化の “阻害要因” として目のかたきにしていたことは、当ブログでも何度か A.B.C.取り上げました)

現に、近年の発掘調査で改めて確認された、佐和山城の廃城後の「徹底的な破壊」の動機は、まさにそこ(徳川敵視を具現化した城!…)にあったのかもしれないと思えて来ますし、そうなると私なんぞは、落城後の目撃談(簡素さ→粗末さ)についても、ひょっとすると、佐和山城に対する意図的な貶(おとし)めが、東軍将兵の忖度(そんたく)のもとで行なわれた可能性はないのか… と邪推してしまいそうです。

業火(ごうか)に焼かれる?佐和山城を、あえて描かせた心理は。
(※繰り返し申しますが、これを所蔵する龍潭寺は、井伊家の菩提寺)

やはり私はこの屏風絵が気になって仕方がありませんで、ここに描かれた天守の「四方に向けた唐破風」に焦点を当ててお話を続けますと、以上の事柄(真東を敵視した城のベクトル)と、四つの唐破風などによる「四方正面」天守というのは、厳密に申せば “造形のねらい” が合致せず、かなりの違和感を感じざるをえません。

何故そうなったのか? 特殊な事情でもからんでいたのか… とあれこれ想像をめぐらせた挙句に、ふと、三成が佐和山周辺を領有し、大規模な城の改修を始めることになった「文禄4年」という年が気になりました。

……「文禄4年」と言えば、豊臣政権をゆるがせた関白・豊臣秀次の切腹があり、それに続いて秀次の妻子や郎党が粛清され、聚楽第の破却が始まった年です。

上越市立歴史博物館蔵『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より(部分)

そして聚楽第の実像をめぐっては、ご覧の新たな天守の描写(=層塔型の御三階か)が近年の注目の的でありまして、一昨年、京都大学防災研究所などの共同研究チームが地中探査で明らかにした「内掘に大きく突き出た天守台」に、まことに良く合致するものだと言えます。

(→→天守台の中央に層塔型が建つ形。一方、これまで良く知られて来た望楼型の聚楽第天守=三井記念美術館蔵『聚楽第図屏風』等に描かれたものは、内掘に大きく突き出た天守台ですと、物理的に非常に建てにくい!! という大きなハンデを負うことになりました。詳しくは以前のブログ記事を)

そして奇(く)しくも、ここにも「四方に向けた唐破風」があります。

――― まさか、
と全ての皆様がおっしゃるだろうことは覚悟のうえで、今回のお話を申し上げますが、日本の城においては、各地で天守や櫓の移築(→強い者の肉体を食らうカニバリズム的な慣習)が現にあったわけですから、秀吉ゆかりの御三階のゆくえには、三成ならずとも関心があったはずでしょう。

冒頭で【予想外の連環】と申し上げたのは、このことでありまして、妙な思わせぶりばかりを申し上げて恐縮ですが、佐和山城がこうした形での「見せる城(Castles to show)」であったとすれば、実に予想外のことです。


しかし百聞は一見にしかずで、劇場性たっぷりの城構えは、ひょっとして史上最高潮か、と感じられるほどであり、かつて地元の講演会で「佐和山は決戦の地である関ヶ原に負けない、大きな決断をした場所です」とおっしゃった佐和山城研究会代表の田附清子さんの指摘は、こんな城構えにも、ちゃんと表れていたのではないでしょうか。…
 

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